第二幕 不意の不穏な一言
「ハチー! 久喜宮君来てるぞ!」
朝から大声をたてる私をとがめる声はない。
母さんは寝坊して、父さんと私たちの弁当を作るのに忙しい。
私は、寝ぐせの頭にアイロンをかけるのに必死で。
父さんは悠々とコーヒーを飲んでいた。
「あいつ、本当に寝るの好きだなー」
なんて、のんびり言ってられる父さんが羨ましい。
父さんは髪が短いし、寝ぐせなんかつかないだろうけど。
「ハチ! 起きろーっ!」
私が叫ぶのがおもしろいのか、父さんが笑う。
そう、ハチは寝ている。この家が大騒動な最中、寝てるのだ。
そしてそんな家の玄関に、久喜宮君が立っている。
かわいそう、としか言えない。
大変なことになっている頭の全貌をみせることもできず、私は頭を少しだけ出して呼びかけることになる。
「ごめん、久喜宮君。先に行ってて良いから!」
ハチのことなんか置いといて、と私が言うも彼は少しだけ微笑んで。
「大丈夫です、まだ遅刻するような時間帯じゃないですし」
そう言う。私、こんな弟が欲しかった。
心の中で涙しながらも洗面所を飛び出し、階段を駆け上がる。
そして、私の隣の部屋のドアを開けて掛け布団を剥いだ。
「いい加減にしなさい!」
「さむ……っ」
縮こまるハチの顔を、私は容赦なく叩く。
早く起きろ、お前この家中みっともない姿をさらけ出して恥ずかしいと思わないのか。
いや、家の中で一人だけおっとりいつもの朝を過ごしている人はいるけれど。
大体母さんがいつもの時間に起きないのに、起こしもしない父さんが悪いのに。
私が昨日目覚ましをかけ忘れたのも悪いのに、ハチが起きないのも悪いのに。
一番かわいそうなのが、久喜宮君ってどういう了見なんだ!
「あんたねぇ! 久喜宮君とあたし二人で登校するわよ!」
それでいいの、となおも大声で問いかける。
「……兵吾?」
やっと反応した。
しかも私は久喜宮君ではなく、あなたの姉の竹部奏子ですけれど。
「んー、兵吾ー……後5分」
決めた、置いていこう。
埒が明かない、と言いながら階段を駆け降り出来上がった弁当を持って鞄に突っ込む。
「奏子、ごめんね?」
「こっちこそ、ごめんね。てか、ハチ置いてくから!」
「えぇ?」
起きぬけでいつもより少し老けて見える母さんに手を振りながら、玄関へ飛び出す。
「へぇ、ハチや奏子と同じ部活なのか」
「はい、お世話になってます」
私の年齢の子供がいるにしては若い方に入る父さんと、兵吾君が話をしていた。
「いやいや、奏子は先輩でお世話する側だけどハチはなぁ……」
「八尋君とはクラスも同じですし。部活だけの付き合い、って訳ではないので」
「あぁ、そうかそうか」
玄関だけ、別世界だった。
騒がしくあわただしい現実的な家の中と違い、そこには穏やかで爽やかな朝の空気が漂っていた。
いや、玄関だって異空間じゃないし、現実なのだけど。
「あ、お父さんいってらっしゃい……」
「父さん、いってらっしゃい」
さすがに恥ずかしいのか手だけ玄関に覗かせて振る母さんと、まだ少し朝の感じが抜けない私。
「それじゃぁ、行ってきます」
颯爽とその場を立ち去る父さん。
父さんにお辞儀をした後、兵吾君は振り返って首をかしげる。
「竹部先輩、ハチは……?」
「ごめん、今日は置いて先に行こう」
「あ、わかりました」
思ったよりあっさりと承諾する兵吾君を見ながら、私は心の中でハチに同情した。
というか、兵吾君くらいの対応が普通なんだ。
ハチはちょっと事情はあるが、気にしすぎなんだと思う。
そうは言えないけれど、と私は心の中で呟きながらいってきます、と言って玄関を出た。
「……ほんと、ごめんね」
「い、いえ……大丈夫です」
私がまた謝っているのには、理由がある。
何度も謝ることは、出来ればしたくないのだけれど。
この状況では、謝らなければ気が済まなかった。
『地下鉄ご利用の皆様には、大変ご迷惑をお掛けします……』
もしかしたら、遅刻するかもしれない。
というか、これはするだろ。
私の頭は既に朝の寝坊と相乗効果で、パンク寸前だった。
バス、駄目だもうこの時間帯のバスは通勤ラッシュで間に合わないかも。
タクシー、そこまでお金あったっけ。
まさか久喜宮君に払わせるわけにいかないから、ヘマをやらかしたら終わりだ。
家に戻る、ハチ置いていくって言った手前恥ずかしい。
兵吾君が何か言っていたのを気にせず考えていたらしく、肩を叩かれて気付く。
「え、ハチ!?」
「自転車、乗って行こう!」
息も荒いハチは、きっと私には到底無理な速さでペダルをこいだに違いなかった。
「兵吾君、二人で行きな……」
なんだかとても、悪いことをしてしまった気分になる。
というか、悪いことをしたんだろう。
私だけなのに。
ハチの特別な事情を今、ほぼ理解できている人間は。
心の中で何度も謝りながら、私は少し俯いた。
「え、先輩は?」
「いいよ、一時間目英語だし。ハチ疲れてるだろうから、代わりに自転車こいでやって?」
そう言って背中を押す私を、兵吾君が何度も振り返りながら改札の向こう側に行き、ハチと言葉を交わす。
「姉貴!」
いいのか、と目線で訴えるハチに早く行け、遅刻するぞ。と笑う。
なんだろう、もう今日学校行きたくないなと心の中で思っていることは表面に出さずに。
ハチが誰かと話している。
ちょっと、本当に遅刻する気なの。
私がやきもきしながら見ていると、久喜宮君が手招きする。
「先輩、大丈夫そうです!」
笑顔の彼に対して首をかしげながら、とりあえず歩いていく。
改札の向こう側に出ると、ハチが階段の上から誰かと一緒に降りてきた。
「姉貴、遅刻しないで済むぞ!」
笑顔のハチより少し向こう側に、背が高くてハチと同じくらい体格のいい男の子が立っている。
「こいつ、同じクラスの伴内宗平!」
「ん……?」
そうだ、なんだかどこかで見たと思っていたら。
「剣道部……の、新入生?」
「あ、はい、そうです……」
軽く挨拶を交わして駐輪場へ行くと、兵吾君が学生服の上を脱ぎ始めた。
「兵吾?」
「ハチ、俺こぐの交代するよ」
心の中でさっき言ったことを思い出す。
久喜宮君は真面目だから、きっと気にしてたんだろう。
だけど、ハチはさっきとは打って変わってもう元気だから良いような気もしてしまった。
「え、じゃぁ姉貴が伴内の後ろ?」
「あたしはそれでいいけど……伴内君は大丈夫かな?」
「だ、大丈夫です……!」
急に声をかけたからか、少し驚いた表情の伴内君に「ごめんね、重いけど」と笑いかけると、首を思い切り振られた。
女の子慣れしていない感じが明らかで、思わず苦笑してしまう。
剣道部の男子が同じクラスにいるけれど、そういうのとはまるっきり雰囲気が違う。
今時珍しいな、と思いながら私は伴内君の背中につかまった。
ハチも小さくないどころかむしろ体格の良いほうだけれど、伴内君の背中はもっと男らしい背中だった。
前から見たらそう変わらないように見えた体格も、近くで触るとはっきりと違いがわかる。
その背中が私がつかまった途端少し縮こまった気がして、微笑んでしまう。
「ありがとう、伴内君。ハチと久喜宮君もね」
歩いてる人たちがびっくりした顔をしたり、振り返ったりするくらいの猛スピードで駆け抜けた三人に私は笑う。
結局ハチは、久喜宮君に対して「俺に代われ!」と途中でほぼ無理やり役目を交代した。
もちろん、久喜宮君は不満そうな顔をしたが、ハチは嬉しそうに自転車をこいだ。
その間も伴内君は黙々と、誰とも言葉を交わさずにペダルを踏み続けた。
返ってくる反応も三者三様である。
顔を赤くして首を振る伴内君に、満足そうに汗をかいて笑うハチ、「いえ」と少しだけ微笑む久喜宮君。
若いなぁ、なんて心の中で思いながら駐輪場を四人で歩く。
その足を止めたのは、二人の男子学生だった。
こう言うと、明らかに不良が出てきたみたいだけれど、違う。
一人は大人しそうな子だし、もう一人は別に不良っぽくはない、あくまでも今らしい感じの子。
私があえて「子」を使ったのは、二人とも一年生みたいだったから。
「……」
ハチが顔をしかめる。
まずいぞ、ハチの手が出る早さといったらない。
私は利き手じゃない左に、鞄を持ち直した。
「竹部って、お前か?」
今っぽい子が口を開くと、不意にそんなことを聞いてきた。
その一言が気になってしまって、怒ると無口になりがちなハチより先に私が答える。
「あたしも竹部だけど、何か用事かしら?」
私が答えたことに驚いた三人の視線と同時に、二人の視線もこっちを向いた。
聞いてきた彼が少しキツい印象の目を丸くして、すぐ元通りにする。
「おかしいな。ハチには、姉なんていないはず……」
かすかに呟かれたその言葉に対して、私は過剰に反応しそうになった。
背中に嫌な汗が伝いそう。
というか、現に伝ってるんじゃないかな。
あぁ嫌だな、今日は体育があるから余計な汗なんてかきたくないのに。
そんなことよりも。
どうして、ハチなんてあだ名を知ってて。
なんで、姉がいないなんて思って。
それを「おかしい」とかって、言えるのか。
聞きたいことが頭の中で氾濫して、私は思わず引きつった笑みを浮かべてしまった。
『竹部八尋に姉がいたら、何か問題でもあるの!?』
思わず叫びそうになる。
それを普段は比較的ありそうなくせに、いざという時はほとんど消えてしまう理性の欠片がどうにか留める。
拳を握った私を庇うように、ハチの背中が目の前に出てきた。
もしかしたら、相手を守ろうと思ったのかもしれないけど。
ハチの背中がはっきりと見えた瞬間、どっかに逃げてた私の理性が帰ってくる。
「俺に姉貴がいちゃダメだって、決まりでもあんのか?」
ごめんハチ、私笑いそうだ。
心の中で最大限に謝罪を繰り返しながら、私は笑顔でハチの背中を叩く。
「そんな決まりあるわけないでしょ、ハチ! 行くわよ、ほら!」
横を通り抜けて、目の前の二人には目もくれず私が歩く。
その後からハチをなだめながら兵吾君や、こちらを心配そうな目で見る伴内君がついてくる。
不機嫌そうな表情をいつまでもやめないハチに何か言ってやろうか、と口を開くより先に。
「ハチ」
そう兵吾君が呼んだかと思うと、男の子らしいけれど綺麗な手がハチの顔をいい音がするくらいの早さで挟んだ。
なにが起こったのか判断できないまま目を白黒させるハチに、兵吾君はゆっくり言う。
「悪くないし、『いちゃダメ』なんて決まりもない。それでいいだろ」
いつまで顔を膨らませるつもりだ、ともう一度挟むような仕種をとる久喜宮君。
「ご、ごめ。悪かったって! え、あれ? 俺が悪いのかこれ!?」
すっかり元通りのハチにかける言葉も心の中にしまいこんで、私は後ろを向いた。
駐輪場にはもう、あの二人の姿はなかった。