第八話 月日
戌の国へ出発する日がやってきた。
あいにくの曇り空だが、馬車の耐荷重について考え込んでいる菊花は気にしていない様子である。
「陛下。馬車の準備が整いました」
「そうか。では菊花、行くとしよう」
香樹に促され、馬車へ向かうその途中──。
「菊花様」
「はいぃぃ!」
花林に呼び止められた菊花は、反射的に返事をした。
心ここにあらずの顔を、慌てて引き締める。
妃教育の熱血指導が尾を引いているのか、花林に名前を呼ばれると訳もなく緊張してしまう。
菊花は泣きそうな顔でオドオドと振り返った。
「いいですか、菊花様。馬車では座席に座るか、陛下のお膝の上でお願いいたします。決して、床へ座ろうとしてはいけませんよ」
「はい……って、え?」
しおらしく返事をしたところで、はたと気づく。
――決して、床へ座ろうとしてはいけませんよ。
花林の言葉に、菊花はかつての大失敗を思い出した。
そのせいで、「陛下のお膝の上」という普段なら聞き捨てならない台詞を聞き流してしまう。
(忘れもしない、あれは初めて馬車に乗った時のこと……)
宮女候補として都へ向かう際、登月は馬車を用意してくれていた。
それまで菊花にとって馬車は眺めるものであり、乗るものではなかった。
初めての乗車にドキドキしながら中を見てみれば、想像よりも綺麗で目を剥いた。
座席の豪華さに恐れをなした菊花は、登月に「どこへ座ればいいのでしょうか?」と大真面目に聞いてしまったのだ。
(まさか……!)
見送りに立つ登月に目を向けると、白々しくヒラヒラと手を振っていた。
菊花の恥ずかしい経験を花林に告げ口したのは、間違いなく彼だろう。
(登月様! 一体、どういうおつもりですかっ)
初めての旅行で緊張している菊花を励まそうとした、登月のお茶目だろうか。
(んなわけあるか――!)
文句を言おうと踵を返した菊花を、香樹が引き留める。
そのまま流れるように馬車へ連れて行かれた菊花は、気づけば香樹の膝の上へ。
あっという間に馬車の扉は閉められて、香樹と二人きりになった。
皇族用の馬車の中は、後宮へ来た時に乗ってきた馬車よりずっと豪奢だ。
もはや、移動式寝台と言っても過言ではない。
実際、野宿の際は寝台として使うこともあるそうだ。
(こんなにふかふかなのに、どうして私は香樹のかたい膝の上なのかしら)
やわらかさを確認するように座面を手で押しながら、菊花は残念そうにため息を吐いた。
きっとそのうち足が痺れて下ろしてくれるだろう。それまでの我慢だ。たぶん。
菊花は気を取り直すと、香樹へ向き直った。
「ねぇ、香樹。戌の国へはどの行路で向かうの?」
「桃河を経由していく予定だ」
菊花の二の腕をむにむにしながら、香樹は言った。
この肉、癒やされる……というつぶやきは聞かなかったことにする。
戌の国へ向かうにはさまざまな行路があるが、観光目的であれば西の崔英から向かうのが一般的である。
今回の目的地は王都のため、崔英よりやや南に位置する桃河を経由して向かうらしい。
「戌の国の王都へ到着するのは、七日後の予定だ」
戌の国は、巳の国の西側に接する国である。
他国のように国と国を阻むものはなにもなく、陸続きだ。
手続きも簡略化されていて、わりと気軽に行き来できる。
「そうなんだ。思ったより短い旅なのね」
「陸続きだと行き来しやすいからな」
「たしか……酉の国と戌の国の間には森が、兎の国と酉の国の間には砂漠が、戌の国と兎の国の間には渓谷が、巳の国と兎の国の間には山があるのよね?」
菊花の質問に、香樹は浅くうなずいた。
「私たち獣人がおさめる五つの国は、世界では月日州と呼ばれている」
ここが月日州と呼ばれるのは、逆さ三日月が太陽を飲み込もうとしているような形をしているからだ。
逆さ三日月の北にあるのが巳の国、西にあるのが戌の国、東にあるのが兎の国、南にあるのが酉の国。
飲み込まれようとしている太陽は辰の国で、別名を日の国とも言う。
「月日州はもともと、竜神がおさめる地だった。彼らは迫害され逃げてきた獣神たちを受け入れ、月の地を分け与えてくれたのだ」
広い土地と狭い土地があったら、あとから来た者には狭い土地を与えるものではないだろうか。
だが竜神は狭い土地を選び、広い土地を譲ってくれた。
それゆえに、月の地に住む獣人たちは竜の獣人に頭が上がらないのだ──と白家に伝わる建国記には記されている。
この建国記は、白一族の者しか閲覧することができない。
蛇の獣人とその番にのみ、許されているのである。
(竜神様って太っ腹よね)
「香樹は、竜の獣人に逆らえないってこと?」
「そこまでの強制力はない。そもそも、竜の獣人は偉ぶったりする種族ではないからな」
竜の獣人は独特の感性を持っていて、空気を読むことが下手な者が多いらしい。
たまにわだかまることもあるが、恩義を感じている相手だから多少目をつむるのだとか。
獣人同士でも相性の善し悪しがあるように、国同士にも相性の良し悪しはある。
巳の国でいえば、戌の国が友好国である。
逆に、敵対とまではいかないが仲はあまり良くないのが酉の国だ。
酉の国では蛇を敵とする神を崇めているので、巳の国としては謂れもなく嫌われている状況である。
だが、戌の国か兎の国を経由する、あるいは海を渡らなければ行けない国なので、仲良くなくてもさほど困ることはない。
「酉の国は、巳の国だけじゃなくて戌の国ともあまりうまくいっていないって聞いたわ」
「ああ、それも宗教上の問題だ。酉の国では、森の向こう側は死の国であると説いていた時期があってな。今でも戌の国を死の国だと言う者がいるのだ」
「自国を死の国呼ばわりされたら、誰だっていい気はしないわ。教義上、死の国が楽園だと思われていたとしてもね」
「そうだな。とはいえ、獣人同士の仲は悪くない。表向きは不仲を装うこともあるが、有事の際は手を貸すのが暗黙の了解になっている」
有事とは、つまり番のことだろう。
以前、リリーベルは言っていた。
――獣人に番が見つかることは喜ばしいことだ。中には一生見つからない場合もあるからね。それに、見つかったとしても思いが通じ合うかも分からない。だから、私たちは協力するのさ。愛する獣人たちが、悲しい思いをしなくて済むように。
菊花の助けを必要とされる時がいつ来るのか分からない。
明日かもしれないし、戌の国でかもしれないし、もっと先かもしれない。
いい人かもしれないし、悪い人かもしれないし、菊花が好きになれない人かもしれない。
それでも。
大好きな香樹と同じ獣人に悲しい思いはさせたくないから。
車窓から見える鈍色の空を見上げ、菊花は誓う。
「香樹を害することがない限り、私は手を貸すわ」
これだけは譲れないと語る菊花に、香樹は喜びを隠すことができなかった。
なによりも大切だと言われて、気持ちを抑えることができない。
香樹は菊花を強く抱きしめ、「愛している」と口づけた。
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