第六話 教育
戌の国への訪問が決まり、急きょ菊花の妃教育が始まった。
慣例通りであれば妃に内定した際、あるいは確定した直後から始められる妃教育。
それが今まで延期されていたのは、ひとえに宮廷全体が忙しさに追われていたためである。
黄一族とそれに連なる者たちが処刑されたことにより、宮廷では人員整理せざるを得ない状況だった。
普段は小馬鹿にしている宦官相手に文官や武官が頭を下げて助力を乞うほどである。まさに、猫の手も借りたい状況だったことは想像に難くない。
皇帝陛下自ら先頭を切って政務に励んだ結果、最近ようやく落ち着いてきたところだ。
宮廷に出張していた宦官たちが少しずつ後宮へ戻ってきて――そこでようやく、菊花の妃教育が放置されていたことに気がついたのである。
というのは表向きの話で。
実際には香樹と登月、そして蛇晶帝が中心となってあえて妃教育を先送りしていた。
蝗害解決の実績を持つ菊花には、局所的な教育になりがちな妃教育より多角的に学ぶ方が有益であると判断したためだ。
菊花のために招致した学者は、これまでに五十人ほどになる。
予定よりもずいぶん多くの学者から学べたのは、彼女の聡明さに気を良くした学者たちが次々に仲間を推薦していったからだ。
一人呼べば数人紹介されるので、招致した学者の数は芋づる式に増えていった。
おかげで菊花は、多くのことを学べたと思う。
幸い菊花は女大学で優秀な成績をおさめていたので、必須科目はいくつか省略されることになった。
残ったのは主に、他国の文化――礼儀作法や慣習などに関する科目だ。
特に今回の行き先は戌の国とあって、礼儀作法と舞踏は外せない項目となっている。
妃教育が始まってからひと月が経った頃。
教育係である花林からようやく及第点をもらえた菊花は、今日から戌の国の服を着た状態で妃教育を受けることになっていた。
「さぁ、菊花様。お覚悟を」
リリーベルにコルセットを装着された時の話を柚安から伝え聞いていたのだろう。
含みのある微笑を浮かべた花林が、数人の宮女たちと一緒に菊花を取り囲む。
(ああっ! コルセット、再び――!)
アンダードレスを着せられ、コルセットで体を締め上げられる。
「菊花様、大丈夫ですか?」
「……くぅ!」
見守る柚安に、菊花ではなく花林が「これくらいは耐えていただきませんと」と迫力のある微笑を浮かべた。
普段から花林の尻に敷かれている柚安はあっさりと寝返って、「その通り」なんてうなずいている。
(裏切り者ぉぉぉぉ!)
恨みがましい視線を柚安へ向けながら、菊花は言った。
「大丈夫では、ありません、わっ」
わっと絞り出したところで、とどめとばかりにコルセットで体を締め上げられる。
既視感を覚えながら、菊花は「うっぷ」と嗚咽した。
何度経験しても、慣れない。
戌の国の正装に必須だと分かっていても、どうしても身構えてしまう。
(だって……焼豚にされたような気持ちになるんだもの)
紐で縛り上げるところが、そっくりだと思う。
(こんな服を行事のたびに着ているなんて、戌の国の人は我慢強いのね。……ハッ! もしかして、リリーベル様が男装していたのって似合うからというのもあるだろうけれど、コルセットが嫌だからなんじゃ……?)
考え事でもしていなければ、胃が口から出てしまいそうだ。
なんとか耐えきって、ドレスを身にまとう。
現金なもので、鏡に映る普段とは違う自分を見るとコルセットの苦しさが少し和らいだ気がした。
かわいい。
もちろん自画自賛ではない。ドレスが、だ。
淡い色の生地も、所々についているリボンも、袖や裾に縫い付けられているレースも。
なにもかも、かわいらしい。
髪を結われて化粧を施されると、鏡の中の菊花は別人のように見えた。
馬子にも衣装という言葉が、浮かんで消える。
「まぁ、菊花様。とてもお綺麗ですわ」
菊花の髪や目の色は巳の国では浮きがちだが、他国の服でも違和感なく着こなせるところは便利だと思う。
鏡の前で、菊花はスカートを揺らしてみた。
いつもより細い腰に、ふんわりとした胸元。硬と柔の調和は、とても優美だ。
「早く香樹に見せたいな……」
こんなに我慢して着飾ったのだ。
他でもない香樹に、褒めてもらいたい。あわよくば、目を釘付けにしたい。
「ええ、もちろんですわ。たくさん褒めていただきませんと」
お辞儀の練習をしたあとは、舞踏練習のために講堂へ向かいながらの歩く練習。
ほんのわずかな時間も惜しむように、花林の厳しい指導が続く。
コルセットの締め付けで、息が浅くなって苦しい。
かかとのある靴は慣れないけれど、背の高い香樹と踊るために必要なことだと思えば頑張れた。
香樹と顔を合わせられるのは、今や舞踏練習の時のみとなっている。
というのも、戌の国へ訪問するにあたり香樹は前倒しで執務を片付けているようなのだ。
菊花も菊花で一日が終わる頃には妃教育でクタクタになっているので、夜はお互い気絶するように眠りに落ちてしまう。
語り合う時間も、あたためる時間もない。
そういうわけで、菊花は舞踏練習の時間を殊更楽しみにしているのである。
女大学が開かれていた講堂で、香樹は待っていた。
執務の合間を縫って相手をしてくれているので、彼の服装はいつも通りである。
それをちょっぴり残念に思いながら、菊花は精一杯しとやかに足を運んだ。
(舞踏の前に、まずは一礼……)
花林にたたき込まれたお辞儀を披露する。
そろりと顔を上げると、呆けた顔をした香樹が見えた。
(香樹のこんな顔、初めて見た!)
どうしてそんな顔をされるのか分からず、菊花は首をかしげる。
(どこかおかしいところがあった?)
まさか、菊花の淑女ぶりが予想外すぎて香樹が目を奪われていたとは思いもしない。
菊花の不思議そうな視線にようやく気がついた香樹は、微かに悪態をついたかと思うと手を差し伸べてきた。
機嫌の悪そうな顔に反して、しぐさは優雅だ。
差し伸べられた手のひらに手を載せると、流れるように引き寄せられて体が密着する。
(えっえっえっ、待って⁉︎ ちょっと近すぎない⁉︎)
かかとがある靴を履いただけなのに、思った以上に香樹の顔が近い。
菊花の菫色の瞳が、羞恥と興奮で潤んだ。
「こ、こう、じゅ……。あの、その……ちょっとだけ離れてほしい、んだけど……!」
「そんな顔をしたおまえを、離せるか」
菊花にだけ聞こえるようなささやき声で。けれど、飢えた獣がうなるように香樹は言った。
同時に、有言実行とばかりに腰をさらに引き寄せられる。
「なっ」
一体どんな顔をしているというのか。
ぽっぽと火照る顔を確認したくても、こう密着していては一緒に動く他ない。
「はぁ……困る」
「困っているのは私の方なんだけど」
「……本当に、困る」
「なににお困りですか? 陛下」
話を聞いてくれない意趣返しにわざと丁寧に尋ねてやれば、ギロリとにらまれる。
(妻に向ける顔じゃないと思うんだけど!)
一瞬、足を踏んでやろうかと思った。
だけど、髪の隙間から見えた香樹の耳が恥ずかしそうに真っ赤になっていたから。
(なんだ。ちゃんとかわいいって思ってくれたんじゃない)
香樹は素直じゃないけれど、素直なところも持っている。
菊花は胸がいっぱいになって、危うくステップを間違えるところだった。