第五話 策略
それから十日後のことである。
菊花のもとに、残念な知らせが届いた。
「申し訳ございません、菊花様」
人形のようにかわいらしい顔を悲しげに曇らせている花林に、菊花はギョッとした。
慌てて走り寄って、オロオロと彼女の顔色をうかがう。
「どうしたの? なにがあったの? 誰かになにか言われた?」
「その……以前、陛下とお約束していた翠子雨様の件なのですが……」
「翠子雨……ああ、植林を研究している学者様ね!」
「はい、その翠様です」
答える花林の声は歯切れが悪い。
菊花はもしやと不安になって尋ねた。
「まさか、田舎正妃に教えることはないって門前払いされたとか⁉︎」
宮廷や後宮で、菊花のことを「田舎正妃」と揶揄している者がいるという話は柚安からの報告で知っていた。
事実であるし、特に害もないので放っておいたが……そのせいで誰かが害されたとあっては放置できない。
勇み足を踏む菊花に、花林は驚いた顔で慌てて首を横に振って否定した。
「いえ、そうではございません」
では、なにが原因でそんな顔を⁉︎と菊花は不安げに彼女を見つめる。
「翠様を招致するにあたり、陛下は使者を送ってくださったのですが……。使者が翠様のもとを訪ねた時、研究のために他国へ向かわれたあとだったそうです」
あと数日早く到着できていれば、翠と会うことができたらしい。
間の悪いことに、翠は年単位で巳の国へ戻る予定がないと言う。
申し訳ございませんと再び謝る花林に、菊花は「なぁんだ!」と明るい声を上げた。
「学者様なら、そういうこともあるわよね」
菊花にさまざまな知識を与えてくれる教官たちも、必要ならばどこへでも向かう。
女大学があった時が特別だっただけで、普段はほとんど外出しているようだ。
おかげで以前のように気になったらすぐ質問することができなくて、菊花は消化不良気味である。
(私のわがままで外出禁止にするわけにはいかないものね。残念だけど、仕方がないわ)
水を吸う海綿のように次々と知識を蓄えていく菊花のことを、教官たちはいたく気に入っている。
彼女が一言「聞き足りないから滞在時間を増やしてほしい」と言えば、喜んで外出を取りやめるだろう。
しかし菊花は教官たちがそこまで自分を気に入っているとは思いもしないので、正妃の権力を振りかざすまいと我慢しているのだった。
「ええ、ご納得いただけて良かったですわ」
花林は、菊花が納得できずに怒るかもしれないと危惧していたのだろう。
貴族のお姫様らしい貼り付けたような微笑みが、少し和らぐ。
「まさか、これくらいで私が怒ると思ったの? 貴族のお姫様じゃないし、そんなことで怒ったりしないわ。でも、そうね……。例えば、食事に好物の鴨肉が出て、理由もなく花林に取り上げられたりしたら、ちょっとは怒るかもしれないけど。事情があって来られない人を連れてこられなかったからって理不尽に怒るほど狭量ではないつもりよ」
後宮で宮女候補として日々を過ごしていた時、菊花は何度も理不尽な目に遭わされた。
私物を捨てられたり、隠されたり、廁に閉じ込められたり。
不満なことはたくさんあったけれど、菊花がはっきりと怒りを覚えたのは一度だけ。
(そのおかげで、香樹への気持ちを自覚したわけだけれど)
珠瑛のことを思い出したのか、苦虫をかみつぶしたような顔をして黙る菊花に花林は言った。
「でも、お話はそれだけではないのです」
「うん? まだあるの?」
花林の表情は、先程とは打って変わって穏やかだ。
どうやら今度は嬉しい報告らしい。
彼女の雰囲気につられ、なんとなく気が浮き立つ。
「はい。調べたところ、翠様が向かわれた先はお隣の戌の国だったそうです」
「戌の国!」
親しみを込めて、菊花は嬉声を上げた。
戌の国と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、おねえさまことリリーベル・ラデライトだ。
可憐な名前に、青年のような凛々しい顔立ちとスッとした高い背。
金色の髪と青く澄んだ目。
麗しい美青年のような容貌を大いに活用し、後宮にいた宮女候補たちを虜にしていた男装の麗人。
秋波一つで多くの女性を腰砕けにしていた光景は、今でも忘れられない。
毒の専門家である彼女は、先帝と皇太子の毒殺事件解決の功労者だ。
そして、戌の国の第二王子妃でもある。
「おねえさまは元気にしていらっしゃるかしら」
リリーベルと過ごした日々を思い出して、菊花の表情がふにゃりと緩む。
時に厳しく、時に優しく──同じ獣人の伴侶として、さまざまなことを教えてくれたリリーベル。
彼女との縁は、今も続いている。
「菊花様はリリーベル様のことが大好きですものね。頻繁に文をやりとりしていらしゃって。仲が良くてうらやましいですわ」
「おねえさまにはとてもお世話になったもの。戌の国の王妃様にも、とてもよくしていただいたわ。私、一生をかけて恩返しするって決めているの」
「そうですわね。あの方がいらっしゃらなければ、今も黄一族の罪は明らかになっていなかったでしょう。一国民として、わたくしも感謝していますわ」
その通りだと菊花は深くうなずいた。
そして同時に、リリーベルのようになりたい、好きな人の隣を堂々と胸を張って歩ける人になりたいと思う。
菊花は正妃になったが、彼女を正妃だと認めない者は多い。
蝗害を解決した功績も、皇帝陛下を身を挺して守ったことも、日が経つにつれ軽んじる者が増えているのが現状だ。
菊花は、正妃として堂々と香樹の隣に立つために、もっと実績をつくらないといけないと考えていた。
彼女はそのために、日々勉学に励んでいる。
だが、学んでも学んでも知らない知識が出てきて終わりが見えない。
学ぶことは大好きだ。時に苦しい気持ちになることもあるけれど、それでも学ぶことをやめようとは思わない。
だけれど、最近は少し消化不良というか、このままでは行き詰まる気がしてならない。
焦っても仕方がないことはわかっている。
それでも、このまま惰性のように学び続けていていいのだろうかと──疑問に思ってしまうことがある。
「話を戻しますけれど……」
「へっ? ああ、うん」
花林の声に、菊花はふっと我に返った。
知らず、考え事に没頭していたらしい。ごまかし笑いを浮かべながら、菊花は「話って?」と尋ねた。
「菊花様はまだ、他国へ行ったことがありませんでしたよね?」
「国境近くまでは行ったことがあるけれど、実際に行ったことはなかったかな。私、後宮へ来る前は崔英に住んでいたの。あそこは戌の国に一番近い町だから、行こうと思えばいつでも行けたんだけど……」
宮女になれずに後宮を追い出されたら戌の国で結婚相手を探すつもりだった──なんて、絶対に秘密にしなくてはならない。
菊花は心の中に一生留め置くつもりだ。そうでなければ、大切な人を悲しませてしまうかもしれないから。
「そうでしたか」
幸い、菊花が隠し事をしたことを花林は気がつかなかったようだ。もしかしたら、見逃してくれただけかもしれないけれど。
そっと胸を撫で下ろしながら、菊花は尋ねた。
「翠様となにか関係があるの?」
「ええ。少し前から宮廷で、菊花様のご公務についてのお話が出ていました。良い機会なので、菊花様のお披露目と事件解決のお礼を兼ねて戌の国を訪問しないかと陛下から提案があったのです。そのついでに、翠様とお会いしたらどうか……と」
想像だにしない話に、菊花はぽかんとしていた。
しかし、理解するにつれ、じわじわと喜色に頬を赤らめる。
「訪問って……えっ、旅行ってこと⁉︎」
「ええ、まぁ。そのようなものですわ」
間違いではないと知って、菊花は嬉しさにぴょんぴょん跳ねた。
普段は「はしたないですよ」と咎める花林も、水を差さないように口を閉じている。
「わぁぁ! 嬉しい! ぜひ行きますって伝えて!」
「よろしいのですか?」
「もちろん! 断る理由なんてないもの」
「そうですか。そのお言葉、決してお忘れにならないでくださいね」
「えっ……」
言葉もなく、有無を言わせぬ笑顔を向けてくる花林。
嫌な予感がして、菊花の背中をツーッと冷や汗が伝っていく。
(最初の申し訳ございませんって、まさか……⁉︎)
これが貴族のお姫様のやり方かと思い至った時にはもう、手遅れだった。