第四十一話 裏切
ざぶん、と体が水に沈む。
滝壺へ落とされたのだと理解するよりも早く、香樹の体は生きるために動いた。
薄着のままで助かった。
そうでなければ、濡れた服が錘となって香樹を水底へ誘っていたかもしれない。
「……っ、はぁっ……!」
バチャバチャと腕を水面にたたきつけながら、いかにも焦っている風を装う。
たまたま顔が外に出たという体で、香樹は崖の上を見上げた。
あたりは暗く、男がいるということしかわからない。
香樹は目があまり良くないのだ。
だが、男のことを知らないわけではない。
なにせ、一瞬前まで一緒にいたのだから。
男の名前は、アミー・ルザリ。
アルファルド木材加工工場の代表をつとめ、エルナトの領主からの信任も厚い。
森林火災が発生したとわかるとすぐさま避難誘導に向かうような、正義感の強い男――のはずだった。
「死の国へ向かう旅の土産に、教えてあげますよ。俺の本当の名前は、アミール。兎の国の第八王子、ヤン様に仕える護衛なんです」
もがく香樹がおかしくてたまらないようだ。
アミールと名乗り直した男は、腹を抱えて笑っている。
「あるじってば美的センスが壊滅的で。あんたの嫁に惚れてるんですよ。今回の騒ぎもね、あの餅みたいな女を手に入れるために計画したことなんです」
二度、三度と縋るものを求めて手を掻く。
崖の岩肌に触れるも、掴むことはできなかった。ただザリザリと、香樹の皮膚を傷つける。
溺れるふりも、楽じゃない。
「戌の国と酉の国を仲たがいさせたところへ、さっそうと現れたあるじがパパッと解決! なんて思ってたみたいですけど……。世の中そんなうまくできてないんですよねー」
どうやら、一連の首謀者はヤンであるらしい。
菊花の前では草食獣のようにおとなしかったから、侮っていた。
否、そうではない。
香樹は侮るものかと自らの警告を無視したのだ。
菊花に男として意識してもらえないような子どもに対し、抱く感情ではないと。
寛大な大人を演じることで、嫉妬する矮小な自分から目を背けた。
登月に知られたら、なにを言われるか。今から頭が痛い。
「ちょうどよくあんたたちが戌の国に来るって話を聞いたからさ。計画を乗っ取って、あんたを殺すことにしたんだ。だって蛇は、死の国に囚われているものだからね。ここにいちゃ、いけないんだ」
まったく、なんてことだろう。
巻き添えを食った柚安に、わずかばかり申し訳なく思う。
(柚安は無事か……?)
あの男に限って無事でないわけがないが、一抹の不安が過る。
(花林に小言を言われそうだ。面倒な……)
意趣返しに菊花を取られたらたまったものではない。
妃教育はほどほどにしろと、菊花を奪取したばかりなのだから。
「ああ、このあとはどんな展開になるんだろう。事故死ってことで片付けられるのかな? あの女は後悔するだろうね。自分の策が夫を殺してしまったってさ」
ごぼり、ごぼり。
香樹は溺れたふりをしながら男の話に耳を傾ける。
藁にも縋る思いで水を掻いている男になにを話したって無駄なのに、アミールは話し続けた。よほど誰かに話したかったのだろう。
「夫が死んで、泣くのかな? 冷血な蛇の嫁だし、泣かないか!」
いい加減、話を聞くのも飽きてきた。
聞くだけ無駄な部分が多くて辟易する。
これだから酉の国の民は……と愚痴りたくもなるのもうなずける。
今は誰よりも香樹が、思っていることだから。
(酉の国の民は盲信が過ぎる。王族はマシなのが救いか)
王族も同じだったら、とうの昔に国交は途絶えている。
とはいえ、今回の件は看過できない。酉の国の王族には、なんらかの落とし前はつけてもらうつもりだ。
酉の国生まれのアミール。
彼が語っていた出自は、果たして嘘か真か。
(そろそろ頃合いか……)
水の中に長くいるのは得策ではない。
蛇の性質を持つ香樹は、冷えが大敵なのである。
今は動いているからまだいいが、ここから離れて陸に上がった時、寒さに震えることになるのは想像に難くない。
(あたため係はすぐに来られないだろうからな)
よく回る口だとうんざりしながら、香樹は底へ底へと泳いでいく。
川底に足がついたら、歩くようにして泳いだ。
この川は、戌の国と兎の国の国境である渓谷につながっている。
渓谷には流れたものがたどり着く不思議な場所がいくつかあるので、香樹はそこを目指すことにした。
聡い菊花ならば、すぐにその存在に気がつくと思ったからだ。
どれくらい移動しただろう。
あたりが明るくなった頃、香樹は小さな河原にたどり着いた。
思ったより、遠くまできたようだ。
体がずいぶん冷えている。
陸に上がった香樹は、水たまりをつくりながらゆらゆらと歩く。
眠気で今にも気絶してしまいそうだ。体が左右に揺れる。
ほどいた帯を落とし、脱いだ着物を落とし、肌着を落とし。
日が当たるポカポカとした場所へ本能的に向かった。
「これ以上は、動けぬ……。ああ、寒い。早くあたためてくれ、菊花」
まぶたを閉じれば、菊花の笑顔が見えるようだ。
――今、行くわ。
菊花の声が聞こえた気がして。
香樹は「待っているぞ」とつぶやいた。




