第四十話 神使
森林火災の延焼を食い止められたことを遠目で視認した菊花たちは、香樹たちを出迎えるために領主の館からエルナトの町まで出てきていた。
エルナトの町は煤で汚れていたが、すぐにでも日常に戻れそうである。
通りを歩きながら、菊花たちは森のある方へゆっくり歩みを進めた。
「もうそろそろかな」
「ふふ。菊花様ったら。お顔が汚れていらっしゃいますよ? そんな顔で迎えたら、陛下に笑われてしまいますわ」
ゴシゴシと花林に顔を拭われながら、笑う菊花の表情は明るい。
笑い合う二人の顔には、「早く会いたい」と書いてあるようだ。
「それくらいで香樹の笑顔が見られるのなら、安いものだと思うけど」
「確かに。陛下の笑顔は希少ですから」
彼女たちに、不安の色はない。
みんな無事に帰ってくると疑いもなく信じていた。
その知らせがもたらされたのは、エルナトの町に人が戻り始めた頃だった。
「菊花様!」
血相を変えて駆け込んできたのは、ヤンと柚安だった。
二人とも顔を真っ赤にして、全速力で駆けてきたらしい。
そんなに急がなくてもいいのにとのんきに構えていた菊花は、次の瞬間、顔を青ざめることになった。
「陛下が……陛下が行方不明になりました!」
息せき切って走って来た柚安が、咳き込みながら告げる。
彼の背中をさすりながら、花林が「どういうことです⁉」と叫んだ。
「陛下が、行方、不明にっ……なったの、ですっ」
荒い息の下、柚安はもう一度言ってくれたけれど。
菊花はなにを言われているのか分からなかった。分かりたくなかった。
唇の端を歪に引き上げながら、何度も目を瞬かせる。
「香樹が、行方不明? やだな、柚安。そんな冗談、面白くないよ……?」
うそだぁと生ぬるい笑みを浮かべる菊花。
そんな彼女の肩をむんずと掴んだヤンは、言い聞かせるように告げた。
「いいですか、菊花様。よく、聞いてください。香樹様は、行方不明になりました。冗談ではなく、本当のことです」
菊花の顔から、表情が抜け落ちた。
「そんな……なぜ? じゃあ、どうしてあなたたちは無事なの?」
菊花の質問に、ヤンと柚安はグッと拳を握って目を伏せた。
噛みしめた唇から血がにじみそうなくらい悔しそうに、柚安は答える。
「陛下の指示で、二手に分かれたのです。僕とヤン様は西側から回り、香樹様とアミー様は東側から回りました」
香樹の目論見通り、計画は成功した。
しかし、合流地点でいくら待っても香樹とアミーは姿を現さない。
約束の時間はとうに過ぎ、ヤンと柚安は香樹とアミーを探しに森へ戻った。
だが、結果は──。
「どれだけ探しても、二人を見つけることができませんでした」
無念さを表すかのように、菊花の肩からズルリとヤンの腕が落ちる。
彼の肩が震えているのは、泣いているせいだろうか。
菊花は絶望に言葉も出なかった。
まるで世界に取り残されたかのように、現実感が引いていく。
だが菊花には、一縷の望みが残っていた。
(見つからなかったら、なんだというの?)
香樹は白一族の者である。
菊花という心残りがある以上、死んで終わりということはあり得ない。
(蛇の姿になって、蘇るはず……)
菊花の唇が、掠れた声を漏らした。
「…………も」
「菊花様?」
「遺体も、見つからなかったの?」
菊花の言葉に、ヤンは瞠目した。
彼は獣人だから、死んだあとの香樹がどうなるか知っているのだろう。
「……はい、見つかりませんでした」
どこか力のない表情で、ヤンは言った。
なぜだか知らないが、菊花にはそれが会心の一撃を受けて敗北を悟ったような──そんな風に見える。
「そう。なら、まだ可能性はあるわ」
「可能性、ですか?」
「ええ。香樹は言っていたわ、いざとなったら川に飛び込んで逃げるって。もしかしたら、流されて下流で助けを待っているかもしれない」
自分一人なら助かる見込みがあると言っていた。
香樹は理由も言わずに姿を消すような冷たい男だが、うそはつかない。
特に菊花に対しては、誠実であろうとしてくれる優しい男だ。
「行きましょう、助けに。絶対に、見つけるわ」
たとえ姿形が変わっていようと、菊花は香樹を見つけてみせる。
ボサボサの髪を無造作に括り、菊花はむん!と気合いを入れた。
凜々しい横顔に、ヤンはまぶしそうに目を細める。
彼の口から「女神様」とこぼれた。
「ここまでしても、僕を見てくれないのですね……?」
太陽に焦がれるように手を伸ばして──どうやっても手が届かないことに気がついて、伸ばしかけていた手をグッと握りしめる。
菊花に触れようとして諦めたような、あるいは彼女の意思を応援するような身構えだ。
ヤンの言葉に気づかぬ菊花は振り返り、彼に言った。
「森にある川は、兎の国の渓谷につながっているのでしょう? ヤン、あなたの意見を聞かせてちょうだい」
女神の命令に、神使としての本能がヤンの気持ちを上回る。
気づけばヤンは彼女の前に跪き、「仰せのままに」とその手に唇を押し当てていたのだった。




