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第四話 好閃

「おい、菊花。今は休憩時間だろう。もう少し静かにしろ」


 下から伸びてきた手が、むにゅんと菊花(きっか)の両頬を寄せる。


「ほうひゅ」


 そのまま下へ向くように誘導されれば、幼い頃に一度だけ買ってもらった林檎飴(りんごあめ)を思い出させる赤い目と目が合った。

 菊花を見つめる彼の目は、今日も溶けてしまいそうなくらい甘く熱を帯びている。


「ふっ。そんな顔でも()いな」


 警戒心のかけらもない無防備な微笑みに、菊花の背中をゾクゾクッとなにかが這い上がっていった。

 普段はピクリとも動かない冷たい鉄仮面だからか、その威力たるや凄まじいものがある。

 菊花は恥ずかしさをごまかすように、責めるような声でその名を呼んだ。


香樹(こうじゅ)


 ここにいるのは私たちだけじゃないのよ?

 言外にそう伝えれば、香樹ではなく周囲の者たちが一斉に目を逸らした。

 できた臣下たちである。


 長椅子の端に腰掛けた菊花の太ももに頭を乗せていた香樹は、彼女のささやかな抵抗すら愛おしそうに笑う。

 これには菊花もたまらず、もはやどこへ視線を向けたらいいのかもわからなくなって天井を仰いだ。


「んぐっっ」


「菊花は時折奇怪な声を上げるな。たしか以前は《ぴゃあ》と鳴いていたか」


「勝手に出るの!」


『んぐ』も『ぴゃあ』も意図して口にしているわけではない。

 ぷいっと顔を背けると、香樹はおかしそうにくつくつ笑った。


「そうか。次はどんな声で鳴くのか楽しみだ」


 香樹がそうやって大人びた態度を取るから、菊花はまるで子どもになったような気分になる。


 大勢の人たちが自分たちを見ているのに、香樹は恥ずかしくないのだろうか。

 菊花は恥ずかしくてたまらない。


 宮廷での彼は人を人とも思わない冷酷非道な皇帝陛下と恐れられているが、菊香殿(ここ)では別人かのように甘えん坊だ。といっても、あくまで大人の甘え方しかしないが。

 菊花の棉花糖体(マシュマロボディ)を枕に寝そべり、なにをするでもなく時を過ごすのが彼のお気に入りである。


 飽きることなく延々とだらけて、滞った執務に業を煮やした登月(とうげつ)が回収しに来るのがお決まりだった。


 しばらく菊花を堪能して満足したのだろう。

 ややあって、香樹は身を起こした。


(珍しい。いつもは呼びに来るまで起きないのに)


 香樹は名残惜しそうに菊花の二の腕をむにむにと揉む。

 そして離れがたそうに一度抱きしめたあと、長椅子から立ち上がった。


 白銀に金を混ぜたような不思議な色合いをした長い髪が、ハラハラと肩からこぼれ落ちる。

 特別な手入れはしていないと言うが、絹糸のようにサラサラだ。

 菊花はしばし目を奪われた。


(綺麗……)


 綺麗なだけでなく、いいにおいであることも菊花は知っている。

 菊花に覆い被さった時、こぼれ落ちてくる髪の感触も。


(え、待って。ちょっと待ちなさい、私! 昼間から破廉恥(ハレンチ)なことを考えるんじゃなーいっっ)


 内なる菊花のツッコミが、ズビシと決まる――と、その時だった。


 身を屈めた香樹が、長椅子に腰掛けたままだった菊花を閉じ込めるように椅子の背に手を乗せてくる。

 突然の接近に呆けた顔をしている菊花の左耳へ唇を寄せると、意地悪く笑ってこう言った。


「その顔……実に愛い。今宵も見せてくれ」


「……っっ‼︎」


 燃えるように熱くなった耳を両手で庇いながら、菊花は香樹をにらんだ。

 そして、生暖かい視線にハッとなって周りを見回す。


(ああ、やっぱり!)


 案の定、素知らぬ顔をして視線を逸らす人々。

 その顔には「見てませんのでごゆっくり!」と書いてあるようだ。

 柚安(ゆあん)に至っては、口笛を吹いている。


 菊花は居たたまれなくなって、膝を抱えて丸くなった。


(香樹には羞恥心というものがないのかしら。私はこんなに恥ずかしいのに!)


 きっと心臓に毛でも生えているのだろう。

 陽桃(キウイ)のようにびっしりと。


(だとすれば、私の気持ちがわからないのも当然ね)


 時に大胆なことをしでかすが、基本的に菊花は小心者である──と本人は思っている。

 一人納得した菊花は、うんうんとうなずいた。


「ところで、紙の件だが」


「うん?」


 話を戻され、長椅子の上で丸まっていた菊花はころんと姿勢を戻した。

 玩具のような動きをする菊花に、ほんの一瞬だけ香樹の表情が緩む。

 取り繕うように咳払いをしたあと、彼は言った。


「植林を研究している学者のうわさを耳にしたことがある」


「あら。それはもしや」


「菊花様のために呼び寄せるおつもりで?」


 二人きりの時間が終わったとみなしたのか、静かに存在を消していた花林と柚安も話に加わってくる。


「たしか名前は、(すい)子雨(しう)だったか」


「現在は南の……蛍愁(けいしゅう)にいるそうですよ、陛下」


 スッと会話に割って入ってきたのは、登月だ。

 凡庸な顔立ちだが、それゆえになにを考えているのか読み取るのが難しい。

 だが、香樹の参謀役に彼ほどの適任者はいないだろう。


「なんだ、もう迎えに来たのか」


 登月の登場に、香樹はムスッと答えた。


(香樹のあの顔。まるで子どもみたい)


 心を許しているからこその、気安さ。

 やはり、登月は香樹に必要な人だ。

 不機嫌さを隠しもしない香樹に、登月はやれやれと肩を竦めた。


「私だって好きで迎えに来ているわけではありません。できることなら、茶を淹れながら隠居暮らしをしていたい。どこかの無慈悲な御方のせいで、引退させてもらえないのですよ」


 そう言って、登月はちらりと背後を見遣った。

 視線を追った菊花は、怯えた表情でこちらを見つめる宦官たちを見つける。


 おそらく、彼らに頼まれて迎えにきたのだろう。

 不機嫌な様子を見るに、飲茶の時間を邪魔されたに違いない。

 お疲れさまです、と菊花はこっそり頭を下げた。


 巳の国の者で香樹に面と向かって物申せる人間など、この場にいる四人くらいのものだ。

 気の弱い宦官や文官では、声をかけることすら命がけらしい。

 登月の引退は、まだまだ先――香樹の退位とともになりそうである。


「引退するには早すぎると思うが」


「宦官の命は短いのです。命短し休めよ宦官、ですよ」


「……冗談のつもりか?」


(しん)の国では《命短し恋せよ乙女》という言葉があるそうで。それを真似てみました」


 しれっとした顔で「お茶目でしょう」と言う登月に、香樹は呆れ顔で明後日の方向を向く。


「……まぁ良い。それでだ、菊花。興味があるなら翠氏を招致するが、どうだ?」


「えっ、いいの⁉︎」


「ああ。菊花が望むのなら、な」


「ぜひお願いします!」


 菊花が元気に答えると、香樹は甘やかに微笑んだ。


「分かった。では、そうしよう」


 植林を研究する学者とは、どんな人だろう。

 彼から、どんなことを学べるのだろう。


 想像するだけでワクワクしてしまう。

 登月に追い立てられる香樹を、菊花は満面の笑みで見送ったのだった。


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