第三十九話 祈願
逃げ足が遅いからという理由で、菊花は作戦への参加を拒否された。
「そんなことないわ! 私は猪からだって逃げ切れるもの」
「なんとか、だろう」
その程度では話にならないと、香樹に言われた。
火が回る速度を考えるとその通りなので、菊花はなにも言い返せない。
菊花は悔しそうに「ぐぬぅ」とうなった。
とはいえ、これで諦めるような菊花ではない。
逃げ足の遅さがダメならば他の観点から攻めるのみである。
「でも、言い出しっぺが留守番で皇帝や王族が行くのはおかしいわ!」
「だからこそ、だ」
獣人である彼らは、人よりも身体能力が優れている。
作戦が失敗して火に巻かれそうになっても、彼らの足なら逃げ切ることも可能だ。
「万が一の場合は、川に飛び込む。私一人ならば助かる見込みはあるが、おまえがいたらどうなるか予想がつかぬ。分かってくれ、菊花」
「香樹……」
「大丈夫ですよ。兎は足が速いこと、菊花様は知っているでしょう?」
「ヤン……」
ただの人である菊花は足手まといらしい。
やんわりと、だが明確に拒絶されて菊花は落ち込む。
「じゃ、じゃあ! 柚安とアミーさんは? 二人は皇族でも王族でもないじゃない」
「僕は訓練していますから」
「こういうものは、男に任せておけばいいのですよ」
道具を持って勇ましく背中を向ける男たち。
菊花は追いかけようと駆け出したけれど、花林に阻まれてそれ以上追いかけることができなかった。
「花林!」
「いけません、菊花様」
置いて行かれた菊花たちは、避難場所になっている領主の館へ身を寄せた。
いてもたってもいられず、二人は監視塔へ登って森を見つめる。
「どうして止めたの」
「仕方がありませんわ。わたくしたちが行っても邪魔になるのは確かですもの」
「私が言い出したことなのに……」
「言い出した人が解決しなくてはならないなんて道理はございません」
「でも……」
「なんでもお一人でできることは、すばらしいことだと思います。ですが、あなた様はもうお一人ではないのです。少しは頼ることを覚えてくださいませ」
ぴしゃりと言われ、菊花はむぅと唇を尖らせた。
「……さっきまで震えていたくせに。花林は心配じゃないの?」
「柚安は強いですから。火災くらいで死んだりしませんの」
ツンと答える花林だが、祈るように握られた両手は小刻みに震えている。
彼女なりの、精一杯の強がりなのだろう。
「陛下だってそうです。菊花様を置いて、あの御方が……なんて絶対にあり得ませんわ」
あの御方は、死んだあとだって菊花様から離れませんよ。
花林はそう言って、今にも泣きそうな顔で笑った。
その顔があんまり綺麗だったものだから、菊花はつい泣いてしまった。
そう、感動の涙だ。決して、不安だからではない。
安全な場所から見ていることしかできないなんて、もどかしくてたまらない。
自分でやる方が、随分と気は楽である。
思えば、菊花は数々の危険にさらされてきた。
そのたびに香樹は菊花を助けにきてくれたけれど、彼はいつもこんな思いをしていたのだろうか。
「香樹……」
「柚安……」
菊花たちは互いを鼓舞するように手を繋ぎながら、作戦の成功を祈願し続けた。
やがて、空が不気味な赤みを帯びて明るみ始める。
いつもならホッとする光景だが、それを見るやいなや菊花は嫌な感じがした。
(まさか。未来を暗示しているわけじゃあるまいし)
気のせいだと思おうとしたけれど、なぜだか振り払えない。
なんの前触れなのだろう。
不穏な胸騒ぎから耐えるように、菊花はグッと胸元を握りしめる。
あたりは少しずつ、明るくなっていった。
森の姿が、徐々に明らかになっていく。
見下ろすと、エルナトの森はすっかり焼け野原になっていた。
分かっていたけれど、目にしてみると思った以上に衝撃的な光景だ。
焼けこげた切り株の痛々しい残骸や、灰に覆われた真っ黒な地面。
酉の国で言う死の国は楽園を意味するが、これでは真実、死の国のようである。
「なにもない」
もうもうと上がっていた煙は、今はか細く空へ上がるばかり。
「作戦は成功したようですわね」
線香のようなそれを見て、花林は言った。
この有り様では、菊花が植えた木は燃えてしまっただろう。
翠先生が植えた木も、リリーベルが植えた木も、ヤンが植えた木も。名前も知らない、気のいい人たちが植えた木も。
だけど、絶望することはない。
森林火災のあとも、森の営みは続いていく。
森は強いのだ。
人が強欲になりさえしなければ。
翠先生に聞いたから、菊花は知っている。
森にとって火災は、台風による倒木や河川の氾濫による水害など多くの撹乱要因の一つであり、想定内の出来事なのだと。
人の手を借りなくても、森は十年ほどで緑に覆われる。
けれど、人の手を使えばもっと早く戻ることができる。
(前向きに考えなくっちゃ)
気合いを入れるように、菊花はむん!と拳を握った。




