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第三十八話 天啓

(……待って)

 

 その時、菊花(きっか)の脳裏に天啓とも思える出来事が浮かんだ。

 それは、()の国へ向かう馬車の中でのこと――。

 

 香樹(こうじゅ)との会話をきっかけに、菊花は(ゆう)の国の宗教に興味を抱いていた。

 そのことに気がついたのだろう。ある時、彼から一冊の本をもらったのだ。

 

 それは、酉の国では誰もが一読したことのある経典だった。

 初めて読んだ酉の国の経典は、子ども向けということもあってとても分かりやすかった。

 

 酉の国の経典は、長い物語になっている。

 物語の中心にいるのは、もちろん鳥の神だ。


 蛇と鳥の神のエピソードは、物語の随所に出てくる。

 要約すると、こうだ――。

 

 事情はあったが、蛇は鳥の神に仕事を取って代わられてしまった。

 仕事を奪われた蛇は鳥の神をひどく恨み、敵対するようになる。

 蛇は死んだあとに行く世界に幽閉され、死者の魂がそこを通るたびに襲いかかるのだった。

 

 経典を読み終えたあと、菊花は香樹に尋ねた。

 

「酉の国では、死者は魂になって死んだあとの世界へ旅立つのね」

 

「ああ、それを邪魔するのが蛇だ」

 

()の国に置き換えるなら、埋葬されずに生まれ変わることができないってことかしら」

 

「そうであろうな」

 

 なるほど、と菊花はうなずいた。

 納得のいった様子の菊花に、香樹はしたり顔だ。夫として菊花の探究心を満たせたことに、喜びを感じているらしい。

 

 この本を手に入れるのに、どれだけの人が動いたのか。

 巳の国にいる時ならまだしも、今は移動中である。

 

(こういう感覚、私にはまだ無理……)

 

 考えるだけで頭が痛くなりそうだったので、菊花は別のことを考えることにした。

 

 巳の国ではどんな者でも、たとえ悪人であっても埋葬される。

 それは、埋葬されることによって体から魂が離れ、次の生への準備を始めることができると考えられているからだ。

 

 逆に言えば、埋葬されずに放置されることは魂が体から離れられないということ。

 それはとても苦しくて、悲しいことらしい。

 

「ありがとう、香樹」


 すっきりとした顔で、菊花は礼を言った。

 

 酉の国の人たちが巳の国を嫌う理由は宗教上の理由だと分かってはいたけれど。

 菊花は謂れを知らないまま嫌われるなんてまっぴらごめんだと思っていた。

 

 それが今は、すっきりしている。

 香樹のおかげだ。

 彼と、そして彼のわがままに振り回されてこの本を手に入れてきてくれた人たちのことを思って――菊花はもう一度「ありがとう」と言った。

 

 馬車で移動している間、菊花は何度も経典を読んだ。

 酉の国の宗教に惹かれたわけではない。単純に、物語として面白かったからだった。

 

 移動中の馬車でやれることはそう多くない。

 景色を眺めるか、香樹と話すか、お菓子を食べるか、寝るか。

 それに読書が加わると、香樹と会話する時間がずいぶんと増えた。

 

 物語の一節から、真意を探る。

 これはこういう意味があって、人々にどんなことを教えようとしているのか。

 それぞれ意見を言い合うのは、菊花にとって楽しい時間だ。

 

「ねぇ、香樹。これはどういう意味なのかしら?」

 

「ん。どの部分だ?」

 

 菊花を膝の上にのせていた香樹は、彼女の手元にある本に顔を寄せた。

 話をしたい部分を指差して、菊花は答える。

 

「ここよ。蛇の放った邪悪な炎は森を焼き、鳥の神は聖なる炎によって打ち消したってところ」

 

「ふむ」

 

「邪悪な炎ってなにかしら? なにかの比喩だったりするのかしら」

 

「どうであろうな。単純に、たき火で暖を取ろうとした蛇がうっかり消し忘れ、それが原因で森林火災が起き、それを鳥の神の聖なる炎とやらが消したということも考えられるが」

 

 なるほど、それもあり得そうな話だ。

 蛇神を祖とする香樹が言うと、ますます真実味が帯びる。

 

 なにせ冬場の蛇は、普段とはまったく違うのである。

 のろのろ~としていて、ダルダル~としていて、火を消し忘れたと言われても納得しかない。

 

「じゃあ、聖なる炎ってなにかしら?」

 

 ピカピカ光る炎を想像して、菊花はうなった。

 雨乞いによって蝗害を終息させたという話と同じくらい、胡散臭い。

 きっとなにか別の意味があるに違いない。

 

「菊花。庶民は、田畑を焼くことがあるそうだな」

 

 突然話題を変えられて、菊花はムッとした。

 それでも彼女は、律儀に答える。

 

「ええ、そうね。焼くと灰が出るでしょう? それが、土の栄養になるの」

 

 そこまで言って、菊花はハッと気がついた。

 

「聖なる炎って、迎え火のことかしら!」

 

 迎え火とは、火を消すために火をつける方法だ。

 火の進行方向にある草木を先に燃やすことで、燃え広がるのを防ぐのである。


「邪悪な炎がたき火の不始末なのだとしたら、十分に考えられることだな」

 

「すごいわ、香樹。名推理ね!」


 そう、名推理だ。

 彼のおかげで、菊花は森を守れる方法を思い出したのだから。

 

 菊花はゆっくりと手を上げた。


「あのぅ、ちょっと、よろしいでしょうか?」

 

「どうした、菊花」


 お決まりの台詞(せりふ)に、真っ先に反応したのは香樹だった。

 言ってみろと言われて、菊花ははやる気持ちを落ちつけるように小さく息を吐く。


「……森で起きている火災は、地表火である可能性が高いわ。地表火だったら、迎え火で延焼を抑えることができるはず」


「ふむ。確認が必要だが……もし地表火であるなら、アルダナブの方へ回り込んで迎え火をすれば、酉の国側の森は火災から免れるかもしれぬな」

 

「そうよ。できるだけ早く手を打たないといけないわ。おそらく、酉の国に近いところは木がたくさんあるだろうから。木に燃え移ったら、迎え火では止められない……!」

 

「この騒ぎでは、エルナトの者たちの手は借りられぬ。どうしたものか……」


 エルナトの町は、混乱の最中にある。

 香樹の声も、冷たい視線も、彼らを止める手立てになりはしない。

 

 その時だった。

 

「菊花様⁉︎」

 

「こちらにいらっしゃったのですか!」

 

 双方から声を掛けられて、菊花たちはそれぞれを見遣る。

 菊花が向いた方にはヤンが、香樹が向いた方にはアミーが立っていた。

 

「あれ、ヤン? どうしてここに?」

 

「植林の手伝いでエルナトに滞在していたんです。(すい)先生と一緒だったのですが、先生は植えた木を確認してからでないと逃げないと仰いまして。だから、僕が確認を……」

 

「森っ⁉︎ ヤン、森を見てきたの? 様子は? 火は? どんな風に燃えていた?」


 矢継ぎ早に質問されて、ヤンはたじろぐ。

 けれど菊花の尋常ならぬ様子に、彼は冷静に「落ち着いてください」と告げた。

 肩を掴まれ離されて、菊花はようやくヤンとの距離が近すぎることに気がつく。


「僕が見てきたところは、地面の表面だけが燃えているようでした」


 ヤンの話によれば、エルナト近辺の森は木をほぼ切り尽くしているためか、今のところ木が燃える様子はなかったらしい。

 燃えているのはエルナトに近い場所だけで、伐採の手が及んでいない酉の国側の森にはまだ火の手は上がっていないようだ。


 菊花の予想通り、地表火なのだろう。


「香樹は森に人がいるって言っていたけど、誰かに会ったりはしなかった?」


「会ったりはしませんでしたが、足音は聞こえました。アルダナブの方へ遠ざかって行ったようですが……」


 まさか、酉の国の人が森に火をつけたのだろうか。

 菊花の脳裏に、《聖なる炎》の一文が浮かんで消える。


(ううん。今はそれに構っている暇はないわ。一刻も早く、火災を止めないと……!)


 菊花は振り返り、「香樹!」と叫んだ。

 アミーと話し込んでいた香樹が、菊花の声に振り返る。


「ヤンが森の様子を確認してくれたわ。予想通り、今はまだ地表火で済んでいる。酉の国側に回ってうまく火をつければ、被害を抑えられるはずよ」


「そうか。こちらも、火をつけるのに必要な道具はそろっているそうだ」


 事宜を得たように、柚安(ゆあん)が屋敷から出てくる。

 彼の腕には、油とたいまつが抱えられていた。


 まるで導かれるかのように、事が決まっていく。

 鳥の神の思し召しか、あるいは菊花たちの普段の行いが良かったおかげなのか。


(そんなのはどうだっていいわ)


 今はとにかく、森林火災による被害を最小限に抑えることが最優先だ。

 そうでなければ、酉の国と()の国の間で争いが起きてしまうかもしれない。


(それだけは、回避しないと)


 覚悟しなさい、と菊花は森をにらみつけた。


(絶対に止めてみせるんだから!)


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