第三十七話 災害
真夜中のことである。
ふと、菊花は目を覚ました。
寝ぼけ目でうろうろと近くを見回し、ちょうどいい大きさの枕を引き寄せて抱き込む。
アミーの屋敷は部屋数こそ多いがそれほど広くなく、一人一部屋あてがわれて休んでいた。
むにゃむにゃと幸せそうに枕を撫でながら、菊花はもう一眠りしようとした――その時である。
「菊花!」
勢いよく扉が開かれ、菊花は飛び起きる。
ギョッと目を見開きながら扉の方へ視線を向けると、寝乱れた姿の香樹が足早にこちらへ向かって来るところだった。
どれだけ気が急いていたのか、扉の蝶番がギィと音を立てて外れる。
重厚な扉が、あっけなく傾いた。
「え、香樹? そんなに怖い顔をして、どうしたの?」
「くわしい話はあとだ。今すぐ、ここから離れなければ」
香樹は言いながら部屋にあった菊花の服を彼女に着せかけると、その体を抱き上げた。
菊花は慌てて、香樹の首にしがみつく。
触れ合う体は菊花と変わらない温度で、彼がどれほど神経を尖らせているのか伝わってくる。
途端に菊花は不安に駆られた。
香樹がこのように緊張する場面など、そうそうあるものではない。
菊花の記憶の中でもっとも印象的なのは、刺客に襲われた時である。
「離れるって……。まさか、刺客が現れたの⁉︎」
「……刺客の方がまだ良かった」
なんですって、と菊花は目を瞬いた。
刺客の方がマシなんて、どれほどの危機が迫っているのだろう。
(それほどの危機なら、急いで逃げないといけないわ)
香樹は、巳の国の皇帝陛下なのである。
なにを置いても守らねばならない存在であり、生き抜かなくてはならない存在。
そして香樹の番である菊花もまた、彼を生かすために死ぬわけにいかないのだ。
おとなしく身を任せた菊花に「良い子だ」と愛しげに目を細め、次の瞬間には険しい表情を浮かべる香樹。
アミーの屋敷を出ると、外は大変な騒ぎになっていた。
(戦場……?)
経験したことはないけれど、その言葉がしっくりくる。
やみくもに逃げ惑う人々。追い詰められた鶏のような悲鳴が、菊花の耳に届く。
「なにが起こっているの……⁉︎」
「森林火災だ」
酉の国との国境を探るように、香樹は森を見つめた。
蛇は、あまり目が良くない。しかし、聴覚と嗅覚に優れている。
それは、蛇の獣人である香樹も同じこと。
(香樹の耳や鼻は、なにを感じているのかしら)
菊花の目にはいつも通りの森にしか見えないけれど、おそらくずっと先では火災が起きているのだろう。
風に乗って、嫌なにおいが漂っている。
「空は雲一つないし、乾燥しているわけでもない。自然発火というわけではないのね?」
「ああ、人為的なものだ」
どこか悔しそうに、香樹は言った。
おそらく彼は、菊花の思いが無駄になってしまったことを悔いているのだろう。
人為的と香樹は言った。
断言するに足り得る情報を、彼は知っているのだ。
あるいは今し方、聞いたのかもしれない。
誰かが立てた物音を。誰かの声を。
「火を放ったのは、どちらなの?」
「分からぬ。森には、どちらの民もいるようだ」
その時、花林と柚安が屋敷から出てきた。
二人とも無事な様子で、菊花はホッと胸を撫で下ろす。
「屋敷にはもう誰もいません。アミー様は、エルナトの人々を領主の館へ誘導すると言って、裏口から向かわれました」
「そうか」
「僕たちも領主の館へ避難しますか?」
香樹と柚安が今後のことを話し合っている間、菊花は今にも倒れそうな花林を支えていた。
完璧な淑女と言えども、こういう場面では不安でいっぱいになるらしい。細い肩が震えている。
「ああ、菊花様……。どうして、こんなことに」
伸ばされた花林の手を取り、菊花は慰めるように手の甲を撫でる。
「花林……。きっと大丈夫よ。香樹も柚安も一緒なのだから。それに、私たちだって……教官たちからいろいろ教わっているじゃない」
今にも泣きそうな目で菊花を見つめながら、花林は言った。
「でも、森林火災ですよ?」
「……ちょっと、いいかしら?」
「え、ええ……」
質問に質問を返されて、花林は戸惑う。
けれど、こういう時の菊花がなにか特別であることは分かっていたので、おとなしく彼女の言葉を待った。
「あのね、花林。森林火災の燃え広がり方は、延焼、燃焼形態、被害程度などで四種類に分けることができるの」
「ええ。菊花様と一緒に聞いていたので知っていますわ。地表火、地中火、樹冠火、樹幹火ですわね」
「そう。巳の国で起きる森林火災は、樹冠火が多い」
樹木の先端部分が燃える、樹冠火。
地表火から燃え移ることが多く、針葉樹林で多発する。
延焼速度は遅いが、広く拡大しやすい。
「ごく稀だけれど、地中火も起きる」
地中の泥炭層などの有機物に引火して燃え広がる、地中火。
巳の国の北部で稀に発生する。
延焼速度は遅く火力も強くはないが、地表に出ていないことから消えにくく、数か月に渡って燃え続けることもある。
「森林火災のほとんどは、樹冠火だと言われている。だけど、もっとも発生しやすいのは……」
地表を覆っている枯れ葉や枝、枯れ草などが延焼する、地表火。
(木を植えた時、周りの様子はどうだった?)
戌の国と酉の国の国境を跨ぐ森は、伐採の影響を受けている。
思い出すのは、地面を覆う枯れ葉や、切り出した際に出た木くず……。
たいまつで火をつけようものなら、あっという間に燃え広がるだろう。
「この森林火災は、地表火だと思うわ」
この森にある木のほとんどは広葉樹だが、まばらに生えている針葉樹に引火しようものなら樹冠火になって、森の大部分が失われることになるだろう。
「そうなる前に、なんとか消せるといいのだけれど……」
見る限り、エルナトの人々は避難するばかりで消火作業に向かう様子はない。
しかし、火が自然に消えるのを待っていたら、森の樹木が枯死してしまう。
指をくわえて見ているだけなんて、菊花にはできなかった。
「どうすればいい……? なにをすればいい……?」
菊花の中で、ぐるぐると知識が巡る――。
お読みいただきありがとうございます!
少しでも面白いと思っていただけたら嬉しいです。
また以下の☆☆☆☆☆にて評価いただけますと励みになります!
どうぞ、よろしくお願いいたします。




