第三十三話 不在
エルナトへ着いた菊花たちは、さっそく領主の館へ向かった。
森からも町からも離れた場所に建てられた領主の館は、飾り気のない堅牢なつくりになっている。
のどかなエルナトとは少し雰囲気が異なる。
物々しいとまではいかないが、貴族らしからぬというか、優美さはない。
「エルナトは酉の国と接しているからね。これまで酉の国がなにかしてきたことはないが、いざという時のためにこのようなつくりになっているんだ」
そんな備えをするくらい、酉の国と戌の国は折り合いが悪いということなのだろう。
ヴァロンタンの説明にうなずきながら、菊花は改めて領主の館を見た。
(なるほど。いざという時は領民が逃げ込めるようになっているわけね)
酉の国だけでなく、森林火災への懸念もあるのかもしれない。
領主の館は、耐火性に優れた建材を使っているようだから。
こういった場所は、巳の国にはあまりない。
陸続きの戌の国はもちろん、山向こうの兎の国ともそれなりに友好的な付き合いをしているからだ。
(でも、天災から避難するための場所があってもいいかもしれないわ)
巳の国の民たちは、天災は皇帝の不徳によるものだと信じている。
だが、もしも天災が起きたとして、避難場所に逃げ込むことで助かる命があれば――。
(皇帝のおかげだって感謝するはずよ)
四害駆除の件が片付いたら、さっそく香樹に相談しよう。
ヴァロンタンとリリーベルのあとに続きながら、菊花はむん!と気合いを入れた。
第二王子と王子妃の訪問に館の者は目を白黒させて、上を下への大騒ぎになった。
さすがに巳の国の皇帝の顔までは知られていなかったようで、さらなる混乱を招かずに済んで良かったと菊花は思った。
(目立たない服装にして正解だったわ)
ややあって応接室へ案内されたが、やって来たのは領主の館を取りしきる執事だけだった。
咎めるような鋭い目つきで、ヴァロンタンは尋ねる。
「領主はどうした?」
ヴァロンタンの問いに、執事はヒュッと息を呑んだ。
今にも伏して詫びようとする執事をなんとか宥めて話を聞いたところ、どうやら領主は王都のタウンハウスにいるらしい。
入れ違いになったのかと思われたが、そうではなかった。
「領主様がこちらに居られるのは、月に二、三日ほどでして……。社交シーズンであろうとなかろうと、ほとんど王都のタウンハウスにいらっしゃるのです」
執事は観念したような顔をしているが、言い渋るでもなくつらつらと吐露しているあたり、領主の人望はほぼないとみていいだろう。
菊花の提案を我が物顔で自らの手柄にしようとしている人だ。
好かれる人物でないことは、想像に難くない。
(執事さん、苦労してきたんだろうなぁ)
それなら、いっそ内部告発でもしてしまえば良かったのにと思わなくもないけれど。
香樹の隣で出された菓子を摘まみながら、菊花は耳を傾けた。
「では、誰が領主の仕事をしている?」
「実は、行政官を引退した者を雇用しておりまして……」
リリーベルがため息を吐いた。
愛想が尽きたように、ティーカップへ手を伸ばす。
「四害駆除もその者が指揮を?」
「いえ、アルファルド木材加工工場が主体となってやっております」
「なぜ?」
「資金援助を受ける代わりに、指揮を任せていると聞いております」
執事は香樹が気になって仕方がないようだ。
ヴァロンタンへ答えながら、チラチラと彼を見ている。
人間味のない冷酷無比な顔だちは、処刑人のように見えるのだろう。
菊花にとっては時にかわいい人ではあるのだけれど、感じ方は人それぞれである。
執事が香樹を恐れるのは、やましいことがあるからだ。
領主不在のこの館で、いったいなにをしていたのやら。
(告発しなかったのは、おいしい思いをしていたから?)
ここに来たのが菊花たちだけだったら、執事は話してくれなかっただろう。
のらりくらりとかわされて、帰されていたはずだ。
けれど、幸か不幸かやって来たのは第二王子と王子妃で。
これはもう隠しきれないと観念した、というところだろうか。
(事大主義なんだろうなぁ……)
もっとも、庶民の多くはそうなのだろうけれど。
(そう思うってことは、私も貴族社会に染まってきているのかも……)
妃教育の賜物か、はたまた弊害か。
(どちらも持ったままではいられないのかしら)
いかんともし難い気持ちになって、菊花は嘆声を漏らした。
ヴァロンタンは聴取を終えると、屋敷の者たち全員に謹慎を言い渡した。
このあとは王都から役人が派遣されて、さらにくわしい聴取を行うのだと言う。
「私とリリィは王都へ戻り、国王陛下へ報告したあと領主に会うつもりだ。香樹たちはどうする?」
「私たちはこちらへ残り、四害駆除の指揮を執っているというアルファルド木材加工工場へ行くとしよう。急ぎ、責任者へ伝えねばならぬことがある」
香樹の決断に、菊花はぱちりと目を瞬かせた。
てっきり、一緒に王都へ戻って領主をやり込めると思っていたからだ。
「香樹……いいの?」
「菊花の提案を無駄にするわけにはいかぬ」
「ありがとう!」
感極まった菊花は、大勢の前だということも忘れて香樹に抱きついた。
やわらかな腹が、腕が、香樹の体をふわりと包む。
彼女らしからぬ大胆さに一瞬呆けた香樹だったが、すぐにとろけるような甘い目で彼女を見つめ返した。
「香樹、伝えたいこととは?」
ややあって、ヴァロンタンが尋ねた。
香樹は、まるで自分のことのように誇らしげな顔をする。
「ああ、菊花が提案してくれたのだが……四害駆除には盲点があったのだ。このまま見過ごせば、蝗害が起こるかも知れぬ」
「えっ。菊花、またなにか思いついたのかい?」
間にあるテーブルに身を乗り出しながら、リリーベルは言った。
あまりに勢いよくこちらへ身を乗り出してきたものだから、菊花は驚いて香樹の服を握ってしまった。
すがるように身を寄せられて、香樹の顔がやに下がる。
そして、勝ち誇ったようにヴァロンタンへ笑いかけた。
頭上でそんなやりとりをされているとは知らず、菊花はリリーベルの期待するような視線にうっとなりながら答えた。
「んえっ。ええと、はい……。香樹も言いましたが、四害駆除は良い点もあるけれど悪い点もありまして。農民にとってスズメは穀物をついばむ害鳥ですけど、それは一面でしかありません。実は、害虫を食べてくれる益鳥としての一面も持っているんです。だから、四害駆除でスズメが減少すると、」
「害虫が減らない。つまり、蝗害が起こりうるかもしれないと?」
「そうなんです! 今はまだ、そこまでいっていないかもしれませんが……」
もしかしたら、杞憂に終わるかもしれない。
けれど、菊花の勘が告げている。このまま見過ごしてはならない、と。
「そうなる前に気づけて良かったよ! 領主のことは私たちに任せて、菊花たちは工場の責任者に話をつけてもらえるかな?」
リリーベルから全幅の信頼を寄せられて、心が喜びに波打つ。
思わずうるりときて、菊花はすんと鼻を鳴らした。
「そうですね。菊花様の提案を伝えて、スズメを除外していただきましょう」
菊花の肩にぽんと手を置きながら、花林は言う。
勇気づけるようなしぐさにコクリとうなずきながら、菊花は「任せてください!」と泣き笑いの顔で答えたのだった。




