第三話 毒姫
市井では、「皇帝陛下が執務中も膝に乗せるほど寵愛されている」とうわさの菊花だが。
宮女候補として連れてこられた当初は、ゲテモノ枠で連れてきたと思われていた。
なにせ本人すらゲテモノ枠だと信じて疑わなかったのである。
菊花曰く、お金持ちは燕の巣とか鹿の陰茎とか普通なら食べようとも思わないものを食べると聞いたから、そういう枠で声を掛けられたのだろうと思っていたらしい。
彼女を連れてきた宦官が出世欲のない登月だったこともあり、誰もが疑わなかった。
ごく一部――正妃筆頭候補であった黄珠瑛とその後ろ盾である宦官の落陽を除いて。
菊花をただの小娘と侮ってはいけない。
各分野で名を馳せる優秀な者たちがそろって太鼓判を押す、女大学随一の才媛。
冷酷非道と恐れられる蛇香帝に平然と口答えし、夫の危機とあらば暗器を持って駆けつける豪胆さも兼ね備える、前代未聞の女性なのである。
最初こそおとぎ話のような成功物語に女性たちは憧れを抱いたものだが、次々に聞こえてくる蛇香帝の容赦のない行いと正妃のうわさを耳にするうちに、じわじわと【破れ鍋に綴じ蓋説】が浸透しつつあった。
正妃の話が始まると必ずと言っていいほど話題にのぼるのが、黄一族の話である。
十カ月前。
先帝と皇太子を毒殺したのは黄蘭瑛である、という発表がなされた。
黄一族は、庶民でも知っている名門貴族である。
忠臣と言われていた蘭瑛と娘の珠瑛が犯した罪の数々を聞いた時は、誰もが恐怖に慄いたものだ。
毒の実験のために罪のない人が大勢殺され、その実験によって完成した毒で先帝と皇太子が毒殺された。
その上、蛇香帝と当時宮女候補であった正妃も狙われていたと聞けば、前例にない無慈悲な処刑方法にも納得しかない。
むしろ、まだ甘いと言わざるを得ないほどである。
「市井の人々はたくましいですよね。怖い怖いって言いながら、それを題材にした劇を上演しているんですから」
人懐こい子犬のような青い目を細めながら、柚安はひょいと肩を竦めた。
「毒姫物語……でしたか。好評を得て、戌の国でも話題になっているそうですよ」
手を頬に添えておっとりと答えているのは、女官の花林だ。
彼女は名門貴族の出身で、正妃の教育係と女官長を兼任している。
宮女募集があと数カ月早ければ彼女が正妃の筆頭候補になっていたのではないか──と残念がられる美貌と後ろ盾を持ちながら、宮女募集の気配がするや否や自らが望む男性と夫婦になるために駆け落ちした、愛に生きる女性である。
そしてそのひたむきな愛を向けられているのが、宦官に扮している柚安だ。
二人の相思相愛ぶりは蛇香帝も認めるほどで、本来男性は立ち入り禁止である後宮に宦官に扮するだけで出入りを許されているのは、そのおかげなのである。
「毒姫物語……か」
菊花としては、なんであろうと巳の国の益になるのならそれで良いと思う。
けれど、残念だ。劇ではなく、書物として流行ればもっと良かったのに。
「紙が安価になれば、本にして普及できるのになぁ。興味があるお話なら、どんどん読みたくなるものでしょう。そうしたら必然的に、識字率が上がると思わない?」
戌の国では、巳の国よりもずっと簡単に紙を手に入れることができるらしい。
いいなぁと羨ましそうに、菊花は唇を尖らせた。
後宮の一角にある宮殿──菊香殿。
数ある宮殿の中でもひときわ新しく、ひときわこぢんまりとしたそこは、正妃のために建てられた宮殿である。
庶民が想像するような絢爛華麗な庭の代わりに広がるのは、菊花の生家を思い起こさせるのどかな田園風景だ。
窓の外を、一匹の蜻蛉がスイーッと横切っていった。
「巳の国の識字率は近隣の国の中でもっとも低いって、橙先生が言っていたわ。本ではなく劇が流行っているのも、そのせいよね。なんとかならないかしら」
「そうですね。特に女性はそういったお話が好きですから、本を読むために文字へ関心を向ける可能性は高いと思いますわ」
花林の言葉に菊花がうなずいていると、柚安がなにかを思い出したように「あっ」と小さく声を漏らした。
「故郷へ戻された宮女候補が、女大学で学んだことを生かして文字を教えていると聞きました。その際、土産として都で購入した本が役に立っているのだとか」
「あら。それならば、やはり紙の普及率を上げるべきなのではありませんか?」
花林と柚安の言葉に、菊花は「やっぱりそうなるよね」と悩ましげな表情を浮かべる。
戌の国の紙は、木を原料にしているらしい。
しかし安易に伐採した結果、木が激減しているのだとか。
聞いてしまった以上、巳の国が同じ轍を踏むわけにいかない。
ならば、どうするか。
「林業だと、紺家が有名ですね」
「紺家?」
「菊花様も一度お会いになっていますよ。宮女を決める最終試験で隣だった……」
「ああ、紺家!」
菊花は、檜の香りを思い出して手を打った。
しかし、紺家の林業はそのほとんどが建築資材にされていることも思い出して、菊花はしょんぼりする。
妙案が浮かばず、菊花はううーんとうなった──その時である。