第二十九話 蜜朝
エルナトへ行った翌日のことである。
菊花がいつもより早い時間に目を覚ますと、寝台の中に香樹の姿があった。
「えっ……香樹?」
腕を広げて丁の字になって寝ている菊花の空いているスペースに、するりともぐり込んで寝ているのは、見紛うことなく香樹で。
菊花は思わず、「うわぁ」と感動の声を漏らした。
「ひさしぶりだぁ……」
なにかがするりとほどける感じがして、目に涙が浮かぶ。
菊花は泣くのを我慢するように唇を閉ざしながら、すんと鼻を鳴らした。
眠っている香樹を起こさないように体をずらしながら、向かい合わせになる。
彼の寝顔を見るのは、何日ぶりだろう。
香樹の顔にかかる、白銀に金をちりばめたような髪をサラサラと除けながら、菊花はその寝顔を眺めた。
眉があって目があって、鼻があって口がある。
一つ一つ確かめるように、菊花はまじまじと寝顔を堪能する。
人とは一線を画す、人外めいた美しさ。
整いすぎて、いっそ特徴がないくらいである。
「綺麗……」
それしか言えないことが、もどかしい。
(舞踏会のあとからだから、もう何日?)
指折り数えたら寂しくなってしまいそうで、あえて考えないようにしていた。
考えないことで、問題から遠ざかることで、寂しい気持ちから目を背けていた。
けれど、こうして会ってしまえばもうダメだ。
(会いたかった……)
我慢していた気持ちが一気に決壊して、香樹が恋しくてたまらなくなる。
寝台の上に散らばる香樹の髪を一房掬い、菊花は頬を寄せた。
抱きしめてほしい。
目を開けて、見つめてほしい。
形の綺麗な唇で、菊花と呼んでほしい。
「肉でもいいから……」
あれほど菊花と呼べと言っていたのに、声を聞けるなら肉でもいいと願ってしまうくらい、菊花は香樹が恋しくてたまらなかった。
早く起きてほしいけれど、ぐっすり眠っているところを起こすのも忍びなくて。
ぐずぐずと甘いジレンマに苛まれていた、その時だった。
長いまつ毛がふるりと震え、うっすらとまぶたが開く。
「あっ、香樹……?」
起きたのだろうか。
菊花は期待を込めて名前を呼んだ。
寝ぼけ目が菊花の姿を捉える。
長い腕が、彼女を抱き寄せた。
とくりと、胸が跳ねる。
ひやりとした体温に驚いたせいだろうか。
それとも――?
(ぴゃあぁぁぁぁ!)
甘酸っぱい感想が頭をいっぱいにして、菊花は叫びそうになった。
しかし、香樹が寝る体勢を整えていることに気がついて、すんでの所で我慢する。
(危ない、危ない。香樹の邪魔をしてしまうところだったわ)
寝ぼけている香樹は、たちが悪いのだ。
蛇のように体に巻き付く香樹を見下ろしながら、菊花はふぅと安堵の息を吐いた――のだが。
(遅かったぁぁぁぁ!)
菊花の上に乗り上がってきたかと思うと、においの濃いところを探るように首筋に鼻を寄せてくる。
「菊花……」
満足げに、ふにゃりと緩む唇。
綺麗な形だなぁなんて見惚れていたら、ちゅくりと首筋に吸い付かれた。
「んっ……!」
くすぐったさに首をすくめると、我慢しろと言わんばかりに体を締め上げられる。
甘い拘束に、菊花の胸はますます高鳴った。
香樹の指先が菊花の耳朶をもてあそぶ。
熱を持ち始めたそれに褒美を与えるかのように、彼はうっとりとささやいた。
「……愛いな」
滴るような甘い声に、くたりと菊花の体が弛緩する。
投げ出された体を、香樹は大事に大事に抱き込んだ。
首筋に、二度三度と唇が押し当てられる。
菊花の存在を確かめているような、あるいは自分の存在を刻んでいるような行為。
気を抜くと甘い声が漏れてしまいそうで、菊花は吐息を飲み込んだ。
そうしていつもの定位置に収まると、再び香樹は寝始めた。
すぅすぅと規則正しく吐き出される寝息がこそばゆい。
無防備な寝顔に、菊花はくふりと微笑んだ。
「かわいい」
こんな時でもなければ、言えない。
だって、起きている時はどうしたって綺麗でかっこいいから。
穏やかな時間が過ぎるのはあっという間だ。
二人きりの時間を邪魔する、無粋な音が聞こえてくる。
部屋の扉が数回たたかれた。
(あともう少しだけ。お願い、見逃して!)
願うように扉を見つめていると、やがて音はやんだ。
(ありがとう、花林!)
ホッとしたのもつかの間、ドアノブが静かに静かに下がって、音もなく扉が開かれる。
(あ、入ってきちゃう)
菊花がじっと見つめていると、スーッと一人の人物が中に入ってきた。
柚安である。
彼はそのままスタスタと――歩いているはずなのに音が全くしない――寝台へ近づくと、声もなく頭を下げた。
それはまるで、「陛下がすみません」と言っているようで……。
(ふふっ。今日の柚安はなんだかお母さんみたいね)
菊花がクスクス笑っていると、柚安は香樹の肩をゆさゆさと遠慮なしに揺さぶった。
「陛下、起床の時間ですよ」
「んんん……」
もしや、舞踏会のあとからずっとこんな感じだったのだろうか。
菊花がそう思ってしまうくらい、柚安の行動は堂に入っている。
「へーかー」
肩を揺すってもダメ。
鼻を摘まんでもダメ。
「仕方ないっすねぇ」
どうするのだろうと菊花が見ていると、スゥーッと息を吸い込んだ柚安がニヤリと笑んだ――その途端。
「助けて、香樹っ」
ガバッと身を起こして、臨戦態勢を取る香樹。
菊花はポカンとしてしまった。
「今の、なに⁉︎」
「菊花様の声で助けてーって言うと、一発なんですよねぇ」
ケタケタと悪びれなく笑っているが、柚安は大丈夫なのだろうか。
(すぐ近くで、殺気立っている香樹がいるんだけど……⁉︎)
菊花の無言の訴えにヘラヘラ笑いながら、柚安はあっけらかんとしている。
そして、不機嫌な顔で殺気を放っている香樹にこう言ったのだった。
「四害駆除についての話を聞くんですよね? 早く起きないと、菊花様と先に行っちゃいますよ」
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