第二十五話 盗策
豊かな森の入り口にある町、エルナト。
恵まれた環境にあるからか、町の至るところに木材が使われている。
来る途中で見かけた大きな建物は、森で切り出した木を加工する工場らしい。
建築資材にしたり、紙の原料にしたり。菊花たちが見学した製紙工場で使われていた原料も、ここで作られているそうだ。
菊花たちがエルナトに到着したのは、昼前のことだった。
馬車の扉が開かれると、清涼感のある青々としたにおいが中に入ってくる。
実家の裏手にあった山より、もっとずっと濃いにおい。
これを集めて固めて香にしたら、森林浴の気分を味わえそうだ。
「さぁ、菊花様。お手をどうぞ」
「……ありがとう、ヤン」
先に馬車を降りたヤンに手を出され、香樹以外の男性と触れ合うことに慣れていない菊花は、ぎこちなく手を取った。
タラップを降りながら清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ、その瞬間。
ぐきゅるぅぅぅぅ……。
菊花のおなかが空腹を訴えて盛大に鳴いた。
(ぴゃあぁぁぁぁ! こんな大きな音、二人に聞こえないはずがないわっ)
恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら二人の様子を窺えば、笑うでもなく「ふむ」と思案している。
笑い飛ばしてもらえたら笑えるのに、そうでないから菊花はもじもじするしかない。
丸い体をさらに丸くしている菊花の背中へ手を回しながら、リリーベルは言った。
「出発時刻が早かったからね。おなかが減るのは当然さ」
「それに、こんないい香りがしていたら、おなかが鳴るのも納得ですよ」
そうなのである。
森特有の清々しい空気の中に、香ばしいにおいが混ざっている。
気を抜いたところへガツンと食欲をそそるいいにおいがしたものだから、菊花のおなかはショックを受けたようだ。
いつもより鳴き声が派手だったのは、そのせいだ。そのせいだと思いたい。
(ヤンもそうだと言っているもの!)
願望を込めて、菊花は力強くうなずく。
やがて、三人の視線は一軒の建物に集まった。
木組の建物の前には看板が出ていて、《三羽のオウム》と書かれている。
「よし。では、植林作業に入る前に腹ごしらえをしようじゃないか!」
リリーベルの提案に、菊花は元気よく同意した。
◇◇◇◇
町で唯一の飲食店ということもあって、《三羽のオウム》は昼前から混み合っていた。
店員に「お好きな席へどうぞ」と言われたが、見る限りどこもいっぱいである。
こういった場所は慣れていないのか、リリーベルとヤンはキョロキョロと周囲を見回していた。
菊花も慣れているわけではないが、二人よりはマシだと自負している。
(田舎娘の矜持にかけて、二人を席へ案内しなくては!)
菫色の目を光らせて、菊花は席を探す。
目ざとく店の隅の方で席を立つ人を見つけると、店員が片付け終えるのを見計らい、張り切ってヤンとリリーベルの手を取った。
「二人とも、さぁ行きますよ!」
店のおすすめは、森で狩ってきた野生鳥獣の串焼きのようだ。
シンプルな塩焼きやタレをつけたもの、香辛料をまぶしたものまでさまざまな味付けが用意されている。
店主のきまぐれ五本セットと果実水を注文し、三人はふぅとひと息ついた。
「いやぁ、こういう店は初めて入ったけど、にぎやかでいいね」
ガヤガヤとうるさい店内を見回しながら、リリーベルが言った。
店へ向かって行くリリーベルの足取りに迷いはなく、菊花はてっきり慣れているのだと思って見ていた。
だが、そうではなかったようだ。
物珍しそうに周りを見るリリーベルは、都へ来たばかりの菊花の姿と重なる。
ムズムズするような恥ずかしさと、なんでもしてあげたくなるような気持ち。
菊花はくふりと苦笑いした。
「スタスタ入って行くから慣れているのかと思ったのですが……。おねえさま、初めてだったんですね」
「ああ。菊花がいろんなことを体験したいと言ったからね。私も倣ってみたのだよ」
提供された果実水を酒のようにあおりながら、少年のように笑うリリーベル。
その屈託のない笑みに、女性店員がポーッとしながら通り過ぎて行った。
「菊花様はこういったお店に慣れているのですか? すぐに空いている席を見つけて……すごかったです!」
すてき、すてきとヤンから尊敬のまなざしを向けられて、菊花も悪い気はしない。
へらりと気の抜けた顔で、「たまたまだよ」と笑った。
崔英にも酒場はあったが、ここほどにぎわっていなかったと思う。
もっとも、菊花は夕方には帰宅していたので夜の様子を知らないが。
「ほんと、にぎやかね」
少し声を張り上げないと、互いの声が聞き取れないくらいである。
注文を読み上げる店員の声は、怒鳴り声と大差ない。
「そうだね。それにほら、あの奥の方にいる人たち。なにか賭け事をしているみたいだよ?」
リリーベルに言われて彼女の背後を見てみれば、店の奥の方で男たちが数人、顔を突き合わせている。
「俺はぁ! ――が十羽に――が二十四匹……」
「なにをぅ! 俺なんて――が――で……」
酔っ払っているせいで声が大きい。
けれど、ろれつが回っていないせいで言葉になっていない。
かろうじて聞き取れた言葉の断片をつなぎ合わせるに、どうやら彼らは森で捕まえたなにかの数を競っているようだった。
運ばれてきた串焼きを見ながら、菊花は思う。
「これのことかしら?」
店のおすすめは、森で狩ってきた野生鳥獣の串焼きだ。
なにが何羽、なにが何匹と聞こえて串焼きを連想するのは、当然の流れかもしれない。
「うーん……。もしかしたら、それのことではないかもしれない」
とは、リリーベルである。
ヤンは注意深く男たちを観察したあと、小さな声でつぶやいた。
「ネズミ、スズメ、蚊にハエ……?」
兎の獣人であるヤンは、菊花たちよりも聴覚が優れている。
見た目はふつうの青年だが、彼の耳はずっと遠くにある音も拾えるのだろう。
(蛇晶帝は嗅覚が優れているのよね)
ヤンの言葉を聞いて、リリーベルは思うところがあったらしい。
思案顔で前屈みになると、両手を組んで顎を乗せ、テーブルに肘をついた。
「……このあたりをおさめている領主が以前、考えている施策があると言っていたんだ」
四害駆除。
領内に存在する四種の害獣害虫を駆除することで、病気の蔓延を阻止するというものである。
「それが、ネズミとスズメ、蚊とハエってことですか?」
「ああ。以前、菊花が蝗害収束の案としてバッタの買い取りを提案しただろう? そこから思いついたのだと言っていた」
「私の……?」
この策によってエルナトの人々が健やかに生活できるのであれば、どんどん真似すればいいと思う。
だが、リリーベルはそう思わなかったようだ。
「その様子だと、菊花の案を参考していいか確認もせずに施行したようだね」
嘆かわしい、とリリーベルは頭を抱えた。
王弟がその領主に相談された時、彼はまず発案者である菊花へ伺いを立てるように助言したらしい。
リリーベルもその場にいたので、よく覚えている。菊花の名前が出たので、忘れようもない。
「これは……新たな火種が見つかったかもしれない……。ヴァロンタンが喜びそうだ」
ごめん菊花、とリリーベルは謝ってきた。
どうして謝られるのかわからず、菊花はあわあわと動揺する。
「香樹様、まだしばらく話し合いが続きそうだよ……」
すまないと深々と頭を下げられて、菊花はさらに困惑するのだった。




