第二十四話 密行
舞踏会から数日経ったが、菊花を侮辱した者たちとの話し合いは難航を極めているようだった。
なかなか思うように進まず、予定していた視察のほとんどを見合わせなくてはならなかったが、それでも話をまとめなくてはならない理由が香樹にはあった。
香樹にとっては嬉しい誤算だ。
菊花を侮辱した貴族の中に、製紙工場を所有する者がいたのである。
巳の国内で紙が普及することを望んでいる菊花のため、香樹がこの機会を逃すはずがない。
愚かな貴族には三つの選択肢が提示された。
工場を引き渡すか、あるいは秘匿されている技術を巳の国へ開示するか。はたまた、巳の国の法に則り刑罰を受けるか。
巳の国の刑罰は戌の国よりも厳しいと言われている。実質、二択と言えよう。
幸い、戌の国には製紙工場がいくつもあり、この工場を手放して困るのは持ち主である貴族だけ。
この工場が持っている技術が巳の国のものになろうとも、工場自体を引き渡すことになろうとも、王家としては痛くもかゆくもないらしい。
むしろ、王弟を次の王に望む派閥の資金源を減らせるとあって、諸手を挙げて応援しているくらいである。
(なんというか……うちもだけど、獣人の家族って仲良しよね)
巳の国も戌の国も、争っているのは臣下ばかり。
王族や皇族が安定している分、力を割く手間が少なく済むのだろう。
余裕があるから、争ってしまう。難儀である。
ヴァロンタンは、「技術の提示のみで満足したと見せかけて裏で手を回し、技術者ごと持ち帰ってしまえばいい」などと香樹に吹き込んでいるようだ。
仲が良いのか悪いのか、それでも相性は悪くないようで、二人は悪徳商人も裸足で逃げ出すような話術で追い詰めつつあるらしい。
話し合いに同行した柚安が言うには、「汚い言葉ですが……あれは尻の毛までむしり取るつもりですよ」だそうだ。
なるほど、花林がいないのを見計らったわけである。
その花林も、香樹から申しつけられたことがあるそうで、舞踏会の夜から別行動をすることが増えた。
菊花がリリーベルと行動をともにする時は大抵、彼女は見送る側である。
朝早く、菊花たちは花林に見送られてアルドラ宮殿を出発した。
馬車は一路、酉の国へ続く道を進んでいる。
今回の目的地は、国境近くにある町――エルナトだ。
森を抜けた先には、酉の国・アルダナブの町がある。
「香樹様とお出かけしたかっただろうに……。ごめんね、菊花」
すまなそうに眉を下げるリリーベルに、菊花は手を振りながら答えた。
「いえいえ。むしろ、お忙しいのに付き合ってもらっちゃって、すみません」
「いいんだよ。こんなことになっているのも、ヴァロンタンが焚き付けているせいなのだからね」
香樹とのお出かけを楽しみにしていた菊花は残念に思ったが、その気持ちを引きずれないくらい日々が充実している。
再会して以来、毎日のように訪ねてきてくれるヤンの存在も大きいのだろう。
エルナトでは、植樹体験をする予定だ。
紙漉きを楽しんでいた菊花を見ていた翠子雨が、「都合が合うのであれば、一緒に植林してみませんか?」と文を寄越してくれたのである。
もちろん、この機会を逃す菊花ではない。
すぐさま花林に頼んでリリーベルへ連絡し、ヤンを誘って三人で向かっているというわけである。
まだ数日だが、三人で出かけることがすっかり定番になっている。
菊花とリリーベルは女性同士だからということもあるが、ヤンの親和性には驚かされた。
聞けば姉が二人いるそうだから、慣れもあるのだろう。
「香樹様の代わりにはなれませんが……。僕なりに精一杯、エスコートしますね」
今日もヤンは全力で菊花の世話を焼くつもりらしい。
再会してからのヤンは、まるで生まれたての雛のように菊花について回っている。
ヤン曰く、「香樹様がいらっしゃらなくてお寂しいでしょうから……。少しでも気を紛らわせてさしあげたくて」だそうだ。
すっかりヤンのけなげさに心打たれたリリーベルは、今日も胸を押さえて感激し、むせび泣いている。
「ああ、なんて尊いんだ……っ」
ここが戌の国だからなのか、それとも他に理由があるのか。
リリーベルは、巳の国にいた時より感じやすくなったようだ。ささいなことにも感動している気がする。
(いや、お変わりないのかもしれないわ。だって、薬草を渡した時はこんな感じだったもの)
気のせいだろう。たぶん。
一人帰結した菊花は、なんとなく向かいに座るヤンを見た。
今日のヤンは、動きやすい格好をしている。
王族らしくはないが、清潔感があって好感度は高い。
対する菊花も、動きやすさ重視の服装だ。
普段着ている服は作業をするのに向いていないので、リリーベルに用意してもらったものである。
端から見れば、今日の二人は裕福な商家の娘とその従僕に見えるだろう。
リリーベルはその容姿と格好から、さながら菊花から支援を受けている若手俳優といったところだろうか。
(商家の娘と従僕に、若手俳優。三人が国境近くの町に来る理由ってなにかしら?)
ふと思いついたのは、劇だ。
次の公演場所を探しに来た、支援者の娘・菊花と、その従僕であるヤン。
リリーベルは劇団を率いる若き団長――なんて設定はどうだろう。
もちろん、よそからきた菊花たちにわざわざ話しかけてくるような者はいないだろうが……。
一応これはお忍びということになっているので、念のためだ。
(劇の演目はなにがいいかしら……?)
それっぽい演目を考える時間も楽しい。
流れる風景を眺めながら、ああでもないこうでもないと菊花は想像を膨らませる。
「かわいい」
不意に聞こえてきた声は、リリーベルのものだったのか、ヤンのものだったのか。
考え事に夢中になっていた菊花は、はたと我に返って顔を上げたが――どちらが言ったのか、空耳だったのか判断することができなかった。




