第二十三話 焦急
貴族の胸に光る紫色の宝石を見た時、香樹の脳裏に談笑する菊花の姿が過った。
それは話し合いの場に向かうため、馬車で出発した直後のこと――。
すれ違いざまに見たのは、馬車で移動する菊花の姿だった。
数日ぶりに見た菊花の目は、相変わらず理知的な光を宿していて。
ふんわりと楽しげに緩んだ頬は、摘まみたくなるくらいかわいらしい。
ああ、今すぐにでも引き返してあの馬車に乗り込んでしまおうか。
シリウス宮殿へ着くまでの間だけでいい。抱きしめて、菊花を補充したい。
そう思った矢先、菊花の向かいに座っている者の姿が香樹の目に飛び込んできた。
限りなく黒に近い灰色の髪に、射干玉色の目。
巳の国の民らしい色に、おやと眉を上げたのは一瞬。
その者が男だということに気がついた瞬間、香樹の眉間にくっきりと深い皺が刻まれた。
「誰だ?」
気の弱い者だったら失神しかねない怒気を醸しながら、香樹はつぶやいた。
香樹と同じく妻を目で追っていたヴァロンタンは、宥めるように穏やかな笑みを浮かべる。
「香樹はまだ会ったことがなかったのかい? 彼はヤン・クロリク。兎の国の末王子さ」
「ヤン?」
数年前に兎の国の王女の婚姻式に参列した時、ヤンはまだ兎の姿だった。
ふわふわの毛玉を見て、菊花が喜びそうだと思ったものである。
だが言われてみれば、ヤンの髪や目の色はあの時見た兎と同じであった。
愛嬌のある顔立ちと性別がわかりにくい体形は、兎獣人の特徴でもある。
だが、香樹が問題にしているのはそこではない。
自身さえ乗ることができない馬車に、なぜヤンが乗っているのか。
見えなくなった馬車にいつまでも視線を向けながら、香樹は尋ねた。
「なるほど。しかしなぜ、ヤンが菊花たちと同じ馬車に乗っている?」
私が乗りたいくらいなのだが?
口には出さないものの、表情にはありありと出ている。
不機嫌を隠しもしない香樹に苦笑いしながら、ヴァロンタンは言った。
「多忙な夫たちの代わりにエスコート役を買って出てくれたそうだよ」
「頼んでいないが」
「恩返しだそうだ」
意味が分からず、香樹は不可解そうに顔を顰める。
頭の中は静かに混乱していた。さまざまな憶測が飛び交うも、納得できる理由は思い浮かばない。
「なにに対して?」
「私はリリから聞いたのだけれど……」
ヴァロンタンがリリーベルから聞いたところによると、ヤンとは孤児院で会ったらしい。
彼は遊学と称してたびたび戌の国を訪れており、今回は孤児院でボランティア活動をしていたそうだ。
ヤンは戌の国だけでなく巳の国へも行ったことがあるらしく、運悪く難儀していたところを菊花に助けられたことがあった。
国へ戻ったあとも、菊花から受けた恩を忘れずにいたようだ。
「恩返しの一環として、視察に同行してくれているようだよ」
律儀な子だよね、と呑気に笑うヴァロンタンを見遣りながら、香樹はムスッと不満げに答えた。
「菊花からはそんな話、聞いていないのだが」
聞いていないもなにも、起きている菊花とはもうずいぶんと会えていない。
話し合いだ社交だと、すべてを終えてアルドラ宮殿へ戻るのはいつも明け方近く。
昼に活動している菊花とは時間が合わず、香樹はすっかり菊花不足に陥っていた。
愛らしい菫色の目に懐かしさを覚えてしまったくらいだ。
たかが数日。されど数日。
香樹にとっては長い時間だ。
ヴァロンタンの話から思いなすに、菊花とヤンが出会ったのは香樹が菊花のもとを去った数年の間のことだろう。
菊花にそのつもりは毛頭なかっただろうが、彼女のことになると途端に理性は揺さぶられ、嫉妬に駆り立てられた。
違う、そうじゃないと必死に言い募る菊花を組み敷き、その首筋へ鼻を寄せる。
菓子とも果実とも花とも違う菊花だけが持つ甘い香りの中に他の異性の香りが混じっていたら、香樹の理性はたやすく飛ぶだろう。
やだやだ待って、と潤んだ目を向けてくる菊花。
嫉妬心に飲み込まれた香樹には、菊花の態度は自分を拒否しているようにしか見えない。
『おまえが誰のものなのか、教え込む必要があるようだな』
言いながら、香樹は冷たい視線を菊花に向ける。
不穏な台詞に菊花は顔を引きつらせるけれど、香樹は止まらない。
焼き尽くすような嫉妬をぶつけるように、菊花の服に手を掛けて――。
思い浮かんだ光景は、あり得ない妄想だと断ずるには生々しすぎた。
そうでなくとも、菊花には不自由を強いているのだ。
優しい彼女は一緒に抱えたいと言ってくれたけれど、これでは抱えるというより単なる押し付け。一方的な搾取である。
身の内に抱える気持ちに改めてゾッとしつつ、香樹は失いかけた理性を呼び戻すように息を吐いた。
「ヴァロンタン。この話し合い、いつまで続けるつもりだ?」
まどろっこしいやり方は、香樹の性に合わない。
これが戌の国のやり方だとしても、巳の国の皇帝である彼が従わなくてもいい理由はごまんとある。
ヴァロンタンもそれを分かっているのだろう。
申し訳なさそうに眉を下げ、彼は巳の国の皇帝に頭を下げる。
「もう少しだけ。あと一押しなんだ、頼むよ香樹。終わったら、とっておきの場所で菊花さんとデートさせてあげるから」
「逢い引き一回では割に合わぬ」
「じゃあ、人気デザイナーによるオートクチュールのネグリジェは? 今から予約しても数年は待たされる、人気デザイナーだよ」
「…………いいだろう」
――交渉妥結、と握手し合ったのは一昨日のことだ。
菊花とヤンが乗る馬車とすれ違ってから、もう二日も経っている。
(それなのにまだ、話し合いが終わらないとは……)
他のことを考えていたが、今は話し合いの最中だった。
これ見よがしに深々とため息を吐けば、真っ青な顔で俯く貴族。
「し、しかしですな……」
「分かります。けれど、今後のことを考えた場合――」
菊花を侮辱した不届き者に、優しい言葉をかけるヴァロンタン。
聞き心地の良い言葉ばかり並べて、実に良い仕事をしている。
今夜もまだ帰れそうにない。
起きている菊花に会えるのは何日後だろうと、香樹はまんじりともせず朝を迎えた時のようにじりじりと時計を眺めた。




