第二十一話 正体
授業終了の鐘が鳴ると、菊花は子どもたちと一緒に廊下へ出た。
孤児院へ戻って行く子どもたちを見送りながら、リリーベルが戻ってくるのを待つ。
菊花が授業を受けている間、リリーベルは院長と孤児院を見て回ると言っていた。
きっと、じきに戻ってくるはずだ。
子どもたちの姿が見えなくなると、廊下はしんと静まりかえった。
先程までの騒々しさが嘘のように静かで、一人取り残されたような寂しさを感じて落ち着かない気持ちになる。
「おねえさま、早く来ないかな……」
菊花は手持ち無沙汰に裳を払った。
うつむいた拍子に、ハラリと髪が落ちる。
菊花が髪を耳にかけるのと、カタリと音がしたのは同時だった。
閉じたままだった扉の一つが開いて、誰かが出てくる。
菊花はうつむいたまま、視線だけをそちらへ向けた。
すらりとした肉づきの薄い細い足。
男性らしい長い指に、短く切りそろえられた爪。手には教本を持っている。
すっと顔を上げると、自然と目が合った。
違う。彼はずっと菊花のことを見ていた。菊花がそちらを見たから、目が合ったのだ。
見つめられるとつい言うことを聞いてしまいたくなるような、潤んだ目。
影が落ちそうなほど長いまつ毛。
(カイとそっくり)
過去の菊花が、ぐんと引き寄せられる。
忘れかけていた記憶がわっと押し寄せて、菊花は息を飲んだ。
(似ているなんてものじゃない。同じよ)
香樹と再会しないまま今この瞬間を迎えていたら。
もしかしたら菊花は、この出会いを運命だと思ったかもしれない。
それくらい、菊花は衝撃を受けていた。
動揺を隠せないまま、震える声でカイと呼ぶ。
ヤンはくしゃりと顔を歪ませて、今にも泣きそうな顔で「はい」と応えた。
信じられない思いで立ち尽くしていると、ヤンがゆっくり歩いてきた。
友人の距離でぴたりと止まった彼を、菊花は見上げる。
ヤンは、菊花が思っていたより背が高かった。
幼げな顔立ちをしているので錯覚していたようだ。香樹ほどではないが、ヤンもそれなりに上背がある。
「よく、お分かりになりましたね?」
こてんと小首をかしげる仕草が、妙に色っぽかった。
甘えるような声色に、ドキリの胸が音を立てる。
恥ずかしさと気まずさで、菊花はそわそわと視線を泳がせた。
「目が……同じだったから」
「そうですか、目が……」
確かめるように、ヤンは指先で目尻に触れた。
ヤンもこの再会に戸惑っているようだ。
当然だろう。獣人の存在は、限られた人しか知らないのだから。
(私が分かったのは、香樹のことがあったからだし……)
菊花は、どうしたらこの気まずい空気を払拭できるだろうかと考えた。
となると、菊花がどうして獣人の存在を知っているか話すところから始めなければならないが……。
(なんというか……恥ずかしい、のよね。別に香樹のことが恥ずかしいとか、そういうことではなくて……。ええと、そう! 弟に結婚報告する時みたいな、気恥ずかしさがあるのよ!)
経験はないが、話に聞いた中で一番しっくりくるのはそれだ。
菊花はどう話を切り出そうかと悩みながら、もう一度ヤンを見た。
ヤンは、菊花と目を合わせるのが好きなようだ。
彼はとても嬉しそうに破顔する。
「……お久しぶりです、菊花様」
「久しぶり、カイ。いいえ、ヤン様と呼ぶべきかしら?」
「リリーベル様からお聞きになったのですね。では、気軽にヤン、と呼んでいただけると嬉しいです」
「ヤン……?」
「はい、菊花様」
「私のことは菊花と呼んでくれないの?」
「ええ。だって菊花様は僕のめが……いえ、命の恩人ですから。それに……巳の国の正妃様を、呼び捨てになんてできません」
言おう言おうと思っていたことを先に出されて、菊花は慌てふためく。
えっと、あの、と言い訳の言葉を探したけれど、見つからなくて。菊花は諦めて、尋ねた。
「……知っていたの?」
「ええ。離れていても、あなたのことはずっと気にかけていましたから」
「そう、なんだ……?」
少なくともヤンは、菊花を嫌って離れたわけではなさそうだ。
ずっと気にかけていたと告げられて、菊花は照れくさそうに髪を撫でた。
「まさか、このタイミングで再会するとは思ってもみませんでした。もっと立派になってから、お会いしたかったのに」
「立派って……もう十分、大きいじゃない」
「いいえ。まだ、です」
強い口調に、菊花は笑みを引っ込めた。
なにか、気に障るようなことを言ってしまっただろうか。
しょんぼりと眉をハの字にする菊花に、ヤンは困った顔で笑う。
「すみません。あなたに見合う男に、まだ至れていなくて」
どうしよう、謝らなくちゃ。
ぐるぐると同じことを考えていた菊花は、ヤンの言葉を聞き取れなかった。
でも、聞き返せるような雰囲気ではなくて。
どうしよう、どうしようと思っているうちにリリーベルと院長が来てしまって、うやむやになってしまったのだった。




