第二十話 心事
胸がざわつく。
これは、なんの前触れだろう。
授業に同席させてもらったのに、菊花はちっとも集中できなかった。
ヤンの視線が、頭から離れない。
(それに、腕に感じた違和感。あれは、まさか――?)
授業に集中したいのに、考えずにはいられない。
記憶の中で、一匹の黒兎が跳びはねていた。
菊花は昔、兎を助けたことがある。
善行を施そうというつもりはなく、結果的にそうなってしまっただけだが。
あれは、香樹が姿を消してしばらく経ってからのこと。
家の裏手にある山で、菊花はけがを負った兎を拾った。
拾った時は、しめしめと思ったものだ。
労せず肉を手に入れられる機会なんて、そうそうないのだから。
丸々と太らせてから食べようと思ってせっせと世話をしていたのだが、だんだんと愛着が湧いてしまい――うるうるした黒目で見つめられるとキュンキュンしてしまってダメだ――食べる気が失せてしまったのだ。
そして、菊花は兎に灰と名付け、かわいがるようになった。
カイは、賢い兎だった。
名前を呼べば寄ってくるし、山へ連れて行けば珍しい薬草を探し出してくる。
土にまみれた菊花の手のにおいが好きなようで、よく鼻を寄せて嗅いでいた。
それはまるで、おとぎ話のような日々だった。
兎の恩返し。なんともかわいらしい題名である。
菊花はカイとの生活を楽しんでいたけれど、同じくらい不安を抱えてもいた。
恩返しをする動物の話は、最後にいなくなってしまうことが多い。
親友の白蛇ハクだって、菊花を置いてどこかへ行ってしまったのだ。
カイだって、いついなくなるか……。
だから菊花は、後悔のないようにカイと過ごした。
彼がいついなくなっても、諦めがつくように。
菊花の予想は当たった。
それから間もなくして、カイは姿を消したのだ。
ハクの時は幾日も探し歩いた菊花だが、カイのことはすぐに諦めた。
もうハクの時と同じ思いはしたくない。そう思ったからだ。
(ハクが香樹で、カイがヤン様なんて……。そんな偶然、何度もあるはずがないわ)
普通に暮らしていればまず遭遇するはずのない存在と、ド田舎で遭遇するなんておかしい。
(そうよ、あり得ないわ)
一人だけでなく二人もとなれば、可能性はもっと低くなる。
今確率を求めたら、恐ろしい数字がたたき出されそうだ。
菊花は頭の中に膨大な量の数字が浮かび上がるのを想像して、慌てて打ち消した。
「大丈夫ですか? あの計算式、ちょっと難しいですよね」
あわあわと小さな悲鳴を上げた菊花を、隣の席に座っていた子どもが心配そうに見つめる。
「へっ⁉︎ あ、ああ……そう、ね?」
授業とは関係がないことに頭を悩ませていた菊花は、恥ずかしそうに身を縮こませた。
(授業中なのに、他のことを考えるなんて。ダメダメ、集中しなくちゃ!)
菊花は気を取り直して、前を向く。
幸い女大学で履修済みのところだったので、途中からでもついていけそうだ。
それから菊花は授業終了の鐘が鳴るまで、邪念を振り払って勉強に取り組んだ。




