第二話 微睡
巳の国の今帝である蛇香帝の正妃は、姓を持たない庶民である。
貴族に養女として迎え入れられることなく庶民のまま正妃になった者は、巳の国の歴史上初のことであった。
臣下の裏切りによって皇帝と皇太子が相次いで亡くなり、皇帝の座についた末皇子の白香樹。
彼に妻はなく、暗黙の了解によって最初に選ばれた宮女候補から正妃が選ばれることになっていた。
選良である宦官たちが熟考を重ね、それぞれ選んだ宮女候補たち。
才貌両全、秀外恵中。
優れた才能と美しい容姿を兼ね備えた姫君たちを差し置いて正妃の座についたのは、三食昼寝付きと勉強し放題に惹かれて宦官の手を取った田舎娘だった。
名前は、菊花。
輝く金色の髪と知性的な菫色の目を持つ娘だ。
濡羽色の髪と射干玉色の目が美人の代名詞である巳の国において彼女はいわゆる醜女になるのだが、蛇香帝にとっては至高の存在である──らしい。
「菊花の良さは、私だけが知っていれば良い」
愛する妻が待つ宮殿へ向かいながら、誰に聞かせるでもなく香樹はつぶやいた。
菊花の異性としての魅力は、香樹にだけ通用すればいいのだ。
そうでなければ、香樹はとても冷静でいられる気がしない。
蛇神の末裔である香樹は、蛇の性質を色濃く受け継いでいる。
蛇は臆病だが、独占欲が強い。警戒心が強い分、懐に入れた者に執着するのだ。
奪う者に容赦なく、逃がすくらいなら丸呑みに。
蛇とは兎角、厄介な生き物なのである。
「はぁ……。今宵も寒いな……」
空を仰げば、ずいぶん高い位置に月がある。
今夜もかなり待たせてしまっているようだ。
新婚だというのに妻を一人寝させる甲斐性なしだと思われたくない一心で、香樹は急ぐ。
「おかえりなさい」
直前に息を整えて入室すると、寝支度を整えた菊花が出迎えてくれた。
普段の着飾った姿も愛らしいが、薄い寝間着姿も大変に魅力的である。
目に痛いほどの蠱惑に、香樹は無意識に喉を鳴らした。
「外、寒かったでしょう?」
女官が下がると、魅惑的な棉花糖体で香樹を抱きしめてくれる。
好い。
そして、愛い。
宮廷にいる間は決して湧くことのない、甘やかな気持ちが香樹の胸を満たしていく。
帰ってきたのだと、張り詰めていた気持ちがみるみるうちに弛緩していくのが分かった。
「まだ起きていたのか。先に休めと言っておいただろう」
菊花のおろし髪を撫で梳きながら、香樹は言った。
その顔に、冷酷無比な皇帝らしさは一切ない。妻に甘える年相応の青年が、そこにいた。
「もしかして、走って来たの?」
抱きしめたことで、普段より体温が高いことに気がついたのだろう。菊花が顔を上げて尋ねた。
「こんなにあたたかかったら、私があたためる必要なんてないんじゃ……?」
拗ねるような口調に、香樹は「そう言うな」と苦笑いを浮かべる。
その視線はやわらかく、甘やかすように菊花を見つめていた。
菊花には、蛇香帝の正妃という肩書きの他にもう一つ大切な役割を与えている。
――皇帝陛下のあたため係。
その名の通り、皇帝である香樹をその身でもってあたためる係である。
菊花を合法的に寝台へ招くための暫定的な処置だったが、生真面目な彼女は今も励んでいる。
不満そうに頬を膨らませる菊花の、なんと愛らしいことか。
意地悪なことを言う唇を口づけでふさいだ香樹は、顔を真っ赤にして固まっている菊花を抱き上げた。
「ぴゃあ!」
奇声を上げる唇にもう一度口づけを落として、寝台へと向かう。
何度口づけようと初めてのように恥じらうものだからたまらない。
それ以上のこともしているというのに、この純粋さはいかがなものか。
けしからん。そのままでいてくれ。
本音がダダ漏れの視線を浴びたせいか、菊花は腕の中でおとなしくなった。
照れている姿も、実に愛い。
寝台へ下ろしてやると、菊花はいかにも緊張している風だった。
やわらかな双丘の奥にある心臓の音が、今にも聞こえてきそうなほどに。
「菊花」
無粋なことは聞かない。
ただ名前を呼べば、気持ちが通じ合ったように菊花が腕を広げた。
驚かせないようにゆっくりと距離を縮めると、焦がれたように菊花が抱きついてくる。
温度、湿度、におい、そして感触……どれを取っても、菊花は理想的だ。
これほど心地よい場所を、香樹は知らない。
(思えば、初めて気を抜いたのも菊花の腕の中であったな……)
菊花を抱き枕に微睡みながら、香樹は思う。
もう、手放せぬ。なにがあっても手放せるものか──と。
清らかな水に一滴の墨を垂らしたような。幸福感の中に混じる、罪悪感。
香樹は目を背けるようにまぶたを閉じた。