第十九話 王子
菊花が今もっとも関心を寄せているのは、巳の国の識字率を向上させることだ。
戌の国にいられる期間は、限りがある。
そのため、識字率を向上させることに役立ちそうなことを中心に体験していくことになった。
やって来たのは、郊外にある王立孤児院だ。
下は〇歳、上は十五歳までの子どもたちと職員たちが暮らしている。
王立孤児院には、学校が併設されている。
成人とされる十六歳には自立しなくてはならないため、一人で生きていけるように、万が一職に就けなくても宮殿で働けるように、知識を授けるそうだ。その中にはもちろん、読み書きも含まれる。
馬車を降りると、一人の女性が菊花たちを出迎えてくれた。
「リリーベル様、お待ちしておりました」
宮殿で見かけたメイドと、雰囲気が似ている。
もしかしたら彼女も孤児院出身なのかもしれない、と菊花は思った。
「こんにちは、院長。今日はよろしく頼むよ。こちらは友人の菊花だ」
「初めまして、菊花です。本日は、よろしくお願いします!」
ぺこりと頭を下げると、院長は目を細めて微笑んだ。
優しそうな笑みに、菊花も自然と笑顔になる。
「彼女は巳の国から来ていてね。自国での識字率を上げたくて、頭を悩ませているらしい。今日は、戌の国の子どもたちがどんな風に勉強しているのか、目で見て、一緒に体験させてあげてほしい」
「まぁ、そうでしたか。では菊花様、リリーベル様、こちらへどうぞ」
通常、王族が孤児院を慰問する際は全員で出迎えるものらしい。
今回は普段の授業風景を見たい菊花のために、院長一人で出迎えてくれたようだ。
ゆったりと歩き出した院長の後に続いて、菊花たちも教室へ向かった。
「今日は、王都からボランティアの先生が来ているのです」
いくつかあるうちの一つの教室の前で立ち止まった院長は、廊下側の窓から教壇を見てそう言った。
教室の中では、十人くらいの子どもたちがおとなしく席に着いている。
菊花が生まれ育った崔英では、野山で駆け回って遊んでいるような幼い子たち。
その年齢の子たちが熱心に、教壇に立つ先生の話を聞いている。
菊花はそれだけで、すごいわ!と思った。
「せんせぇ!」
「はい。ロイくん、どうしましたか?」
菊花は子どもの声につられるように教壇へ視線を移した。
そして、少し驚いた。
教壇に立つ先生の若さに。
そして、髪色と目の色に。
教壇に立っていたのは、菊花と同じか少し下くらいの年齢の青年だった。
光加減でやや灰色にも見える黒髪と、巳の国では美しいとされる射干玉色の目。
成長途中の若木を思わせる細い体は、完成していないからこそ危うげで、庇護欲を刺激してくる。
(これは……巳の国の女性は、放っておかないでしょうね)
おねえさま、少しお願いがあるのです……なんて上目遣いでお願いされたら、ほとんどの女性がうっとりして言うことを聞いてしまうのではないだろうか。
「あれは……」
「うわぁ、綺麗な人ね」
リリーベルと菊花、二人の台詞が被る。
菊花はきょとんとして、それから首をかしげてリリーベルへ尋ねた。
「リリーベル様、どうかしましたか?」
「いや、あの青年なんだけど」
リリーベルは言いづらそうだ。
もしかしたら、因縁のある家門の子息かもしれない。
(そうだとしたら、今日は帰らないといけないわね)
菊花は残念な気持ちになりながら、心のどこかでそうでないことを祈りつつ、リリーベルに聞いてみた。
「お知り合いですか?」
菊花の問いかけに、リリーベルは諦めるようにハァとため息を吐いたあと、院長には聞こえないようにコソコソと答えた。
「彼は兎の国の第八王子、ヤン・クロリク様。戌の国を気に入ってくださったようで、たびたび遊びに来ているのだけれど……。どうして、ボランティアなんてしているんだ……?」
なるほど、リリーベルが戸惑うわけである。
王立孤児院の学校で他国の王族が教鞭を執っていたら、誰だって驚くだろう。
もちろん菊花だって、驚いている。
王族ともなれば、庶民と一線を画すものではないだろうか。
だが、ヤンにはそれがない。
子どもたちと同じ目線に立って、ともすれば不敬とされることだって、にこやかに対応している。
王族特有の高貴さがないわけではない。
注意深く見ればあるけれど、人懐こい微笑みがそうと分からないようにさせている。
ヤンの慣れた感じからして、今回が初めてというわけではないのだろう。
子どもたちも、彼に懐いているようだ。
「兎の国の王子様は気さくな方なんですねぇ」
菊花がぽつりと感想を漏らした、その瞬間。
顔を上げたヤンと、ばっちり目が合う。
「あっ……」
菊花を見つけたヤンの目が、大きく見開かれた。
かと思えば、会えて嬉しいと言わんばかりに優しく細められる。
(あれ? 私、ヤン様に会うのは初めてだよね?)
リリーベルも同じことを考えたようだ。
「菊花、ヤン様と知り合いなのかい?」
「いえ、初対面だと、思うのですが……」
ヤンの視線は、初対面の人に向けたものとは思えないくらい優しかった。
タタタッッと駆け寄ってきて、コロリと身を預けてきそうな――全幅の信頼のようなものを感じる。
その時、菊花の脳裏に懐かしい記憶が蘇った。
ふわふわの黒い毛玉。やわらかい毛が腕を撫でた気がして、菊花は無意識にさする。
(気のせい、よね?)
きっと、上目遣いでお願いされたら聞いてしまいそうだなんて思ったせいだ。そうに違いない。
(あの時の兎がヤン様なんて。そんなこと、あるわけがないわ)
香樹じゃあるまいし。
出掛かった言葉を、菊花は飲み込んだ。
だけど、菊花は思い出すべきだったのだ。
こういう時の予感はよく当たるということを。