第十六話 誹謗
夢のような時間が終わりを告げても、舞踏会は終わらない。
気に入らない者は即処刑するとうわさされる冷酷無比な皇帝陛下でも、お近づきになりたい者は多いようだ。
香樹の威圧にも屈しない戌の国の貴族たちを見ながら、菊花はこっそり(宦官たちにもこれくらいの度胸があればなぁ)と思うのだった。
ひととおりの挨拶が終わると、ようやく一息つくことができた。
菊花は視界の端に見える軽食コーナーが気になって仕方がなかったが、花林が目を光らせているのに行けるはずもない。
仕方なく、近くにいた給仕から果実水をもらって喉を潤した。
「花林は少し、厳しくないか?」
「そうでしょうか。私のためを思ってのことだと思いますわ」
淑女らしくしとやかに微笑めば、香樹は苦虫をかみつぶしたような顔で「ふん」と息を吐いた。
「おまえが窮屈に思っていないのなら、良い。だが、少し摘まむくらいはいいだろう」
香樹はそう言うと、スタスタと軽食コーナーへ歩いて行った。
ぽかんとしたくなるのをぐっとこらえて、菊花は香樹の行動を見つめる――その時だった。
「田舎正妃」
戌の国ではまだ一度も聞いていなかったその名前を耳にして、胸の奥がザワザワと音を立てる。
団扇で顔の半分を隠し、菊花はあくまで自然に見えるように気をつけて後ろを振り返った。
しかし、振り返っても誰が言ったのか分からなかった。
皆、楽しそうに談笑している。
(当然か。貴族たるもの、そう簡単には尻尾を掴ませないわよね)
そして、再び聞こえる菊花を侮辱する言葉。
今度は、菊花の正面から聞こえた。
(誰が言ったのかしら)
そんな言葉くらいで、菊花は傷ついたりしない。
菊花の神経は図太いのだ。
けれど、香樹は違ったようだ。
軽食コーナーへ着く前に取って返した彼は、あっという間に菊花のそばへ戻ってきた。
王者の余裕などかなぐり捨てて駆け寄る姿は、まるで天災のようだ。
為す術もなく蹂躙される自分の姿が頭に浮かんで、誰もが恐怖に震える。
誰の目にも明らかなくらい、香樹は激怒していた。
「香樹。私は、気にしていないわ」
「私は許せぬ! おまえは私の唯一無二の存在なのだぞ。それを……! 許せるものか!」
大広間の一角で起きた出来事は、すぐさまヴァロンタンにも伝わった。
菊花を守るように抱き込み、にらみ殺しそうな目つきで周囲を見据える香樹は、ヴァロンタンですら声を掛けるのに時間を要するほどだ。
獣人の伴侶を侮辱してはならない。
獣人ならば誰もが骨身にしみて分かることが、人間には分からないようだ。
「皇帝と正妃には余計なことを言うなと、周知していたのにな……」
一見平和そうに見えても、戌の国は一枚岩ではない。
事実、香樹が特ににらみを利かせているのは王弟派の家門である。
おおかた、菊花をこき下ろして家門の娘との縁談を勧めようとか考えていたのだろう。
「余計なことを……」
大広間の隅で顔を真っ青にしている王弟の姿を見つけ、ヴァロンタンは顔をしかめる。
それでもなんとか国王と連携して退場できるように手筈を整えると、香樹は無言のまま菊花を連れて大広間をあとにした。
その後、舞踏会が中止になったのは言うまでもない。
◇◇◇◇
歓迎のための舞踏会といえども、貴族令息や令嬢にとっては出会いの場である。
彼らは夜の間に次々とパートナーを変えて、踊り語らいながら伴侶を見つけるらしい。
「舞踏会、中止になっちゃったかしら」
悪いことをしたわと苦笑いする菊花に、香樹は無言のまま抱きしめる腕に力を込めた。
まるで、大切なものを奪われまいとする子どものようだ。
必死すぎて、香樹に似合わなすぎて、でもぎゅうぎゅうと締め上げてくる腕は蛇らしくて、菊花は笑いがこみ上げてくる。
宿泊先であるアルドラ宮殿に帰らずシリウス宮殿にある庭園へ足を運んだのは、菊花に(つまらない夜だった)と思わせたくないからだろう。
連れてこられた四阿で、菊花は香樹と隣り合って座っていた。
(腸が煮えくりかえるくらい怒っていても、私の気持ちを優先してくれるなんて)
皇帝としてあるまじき失態だ。
正妃ならば窘めるべきなのだろうが、菊花は言えなかった。
(こんなに大切に思われて、言えるわけ……ないじゃない)
香樹が落ち着くのを待って、菊花は静かに尋ねた。
「舞踏会はどうだった?」
「最低だ」
「そうかしら。私は、楽しかったわよ? 緊張もしたけれど」
「そうだろうな。いつもより少し、体温が低かった」
火照った体を、風が撫でていく。
菊花にとってはちょうど良い気温だが、香樹には少々寒いだろう。
庭園の端とはいえ、シリウス宮殿の敷地内。
招待客が大勢来ている今、いつ誰が通るとも知れない。
(でも私は、皇帝陛下のあたため係だから……)
だからこれは、菊花にとって仕事のようなもので――。
(恥ずかしがることは、ない。はず!)
菊花は迷った末に、香樹にぎゅっと抱きついた。
一瞬びくっと体を震わせた香樹だが、確かめるようにゆっくりと体を寄せてくる。
菊花の肩に顎を乗せながら、香樹は言った。
「菊花。私は、おまえの枷になっていないか……?」
言うつもりなんてなかったのだろう。
後悔に苛まれ、唇を噛む気配がする。
「もう。そんなわけないじゃない。むしろ、私があなたの足を引っ張っていると思うんだけど」
「……私が菊花を正妃にしたせいで、いらぬ苦労をかけている」
絞り出されたその言葉に、菊花は分かってしまった。
(ずっとずっと……不安だったのね……?)
香樹が激怒したのは、菊花が辱められたから――だけではない。
きっと彼は長らく、菊花に罪悪感を抱いていたのだ。
(そしておそらく、私が正妃らしくするたびに強く自身を責めていたんだわ)
積もり積もった不安は菊花を口撃されたことで限界を迎え、怒りという形で発露した。
(いつも余裕綽々だから、気づかなかった。不安に気づいてあげられなくて、ごめんね)
蛇は臆病な生き物だと、知っていたのに。
それなのに菊花は、失念していた。
(守られるだけなんてまっぴらごめんだって思っていたのに。どうして、私は……)
なんのための正妃か。
あたため係なら、正妃でなくともできる。それでも正妃になると決めたのは、香樹を支えるためではなかったのか。
(悔しいわ)
だけど、良かった。
菊花は今、気づけたから。
「馬鹿ね。なんのために私がいると思っているのよ」
「菊花……?」
「苦労じゃなくて、努力よ。香樹のせいじゃなくて、自分のためにしているの。それから、不安なことがあるのなら言って。そうじゃないと、一緒に抱えられないでしょ」
「…………」
静かな四阿に、風の音だけが聞こえる。
長い長い沈黙のあと、香樹は小さく、それでも確かにうなずいたのだった。