第十一話 再会
戌の国には、王族が所有する宮殿がいくつも存在する。
伴侶が決まった王族は、国王が住まう宮殿から他の宮殿へ移り住むことが慣例だ。
現在使われているのは、国王と王妃が住まうシリウス宮殿、皇太子一家が住まうアダラ宮殿、第二王子と王子妃が住まうウェズン宮殿、王弟一家が住まうムリフェイン宮殿。
客人はシリウス宮殿に滞在するのが常だが、菊花たちはウェズン宮殿の近くに建つアルドラ宮殿に滞在することになっている。
シリウス宮殿は人が多く、(ここでは菊花さんの気が休まらないでしょうから)という王妃の心遣いだ。
「ぷはあっ」
長椅子の上に倒れ込みながら、菊花は王妃の心遣いに感謝した。
そうでなければ今頃は、臣下たちが立ち並ぶ中で堅苦しく挨拶を交わしていたことだろう。
巳の国の正妃として、失敗は許されない。
正妃として顔を出さなくてはならない機会が減った分、心はとても軽かった。
「花林に知られたら、怒られるだろうなぁ」
だけど、これが菊花の飾らない本音だ。
できることなら、公務から逃げたい。
その気持ちを知ってから知らずか、菊花のことを思って配慮してくれた王妃には、会ったら真っ先にお礼を言いたい――と菊花は思った。
「ありがとうございます、王妃様」
そっと目を閉じれば思い出す。
アルドラ宮殿へ向かう道中に見えた、とても大きな噴水。
噴き上げる水越しに見えた建物が、シリウス宮殿なのだそうだ。
王と王妃の居住場所であり、執務の場。
王族の行事や他国からの客人をもてなす場でもある。
シリウス宮殿は、王都にあるどの建物より高く、広い。
花林曰く、シリウス宮殿の部屋総数は七百近いのだとか。
シリウス宮殿に負けず劣らずの華やかな後宮に住みながらその程度で驚く菊花に、花林は驚いていてしまったようだ。
その時の花林の顔を思い出して、菊花は微苦笑を浮かべた。
「普段は見ないようにしているからなぁ」
後宮にある宮殿のほとんどは、目に痛いほど煌びやかだ。
その中で場違いなくらいに飾り気のない場所が、もっとも新しい宮殿――菊香殿である。
香樹は菊花とくっつくための口実にしたいようだが、菊香殿が素朴なのは菊花が気兼ねなく寛げるようにするためだろう。
少なくとも菊花は、そう解釈している。
田舎で生まれ育った菊花は、貴族の生活に馴染みがない。
住めば都と言うが、高価なものに囲まれた空間や常に誰かがそばにいるという状況は落ち着かなかった。
正妃らしく振る舞うことはできるようになってきたけれど、妃教育はまだまだ始まったばかり。
おいおい慣れていけばいい──と優しい周囲は考えてくれているらしい。
「愛されているなぁ」
甘やかされすぎではないだろうか。
獣人は伴侶を守るために権力を握ったそうだが、それにしても甘やかしすぎである。
(花林が厳しくなるのも、当然というか……)
「ここもたぶん……そういうことなんだろうなぁ」
菊花が案内された部屋は、落ち着いた緑色と淡黄色で統一されている。
調度品も華美になりすぎないものでそろえられていて、国賓が使うにはやや質素だが、菊花が使う際に抵抗を抱かないような配慮がうかがえた。
「至れり尽くせりで駄目になってしまいそう」
「おや。香樹様が聞いたら願ったり叶ったりだと喜びそうな台詞だね」
まさか返事がくるとは思ってもみなくて、菊花はびくっと飛び起きた。
その途端、懐かしい水色の目と目が合う。
「リリーベルおねえさま!」
閉め忘れた扉から顔をのぞかせていたのは、戌の国の第二王子妃であるリリーベルだった。
相変わらずの美青年顔に、ほっとするやらドキドキするやら。
「扉を開けっぱなしにしているなんて。駄目じゃないか、菊花」
叱咤の言葉さえ、菊花は嬉しかった。
文でやりとりはしていたけれど、面と向かって声を交わすのは久しぶりだったから。
巳の国では男装していたリリーベルだが、自国ということもあって今は爽やかな青いドレスを身にまとっている。
戌の国の貴族令嬢がこぞって真似をしているという、シュミーズ・ドレスに乗馬用ジャケットを合わせた姿だ。
「すみません。気をつけます」
「ああ、そうしてくれ。……さて、お小言はこれくらいにして。久しぶりだね、菊花!」
そう言うと、リリーベルは満面の笑みを浮かべて菊花に抱きついた。
待ちかねた再会に、互いの顔に笑みが浮かぶ。
「会いたかったよ、菊花」
「私もです!」
「再会にはもう少し時間がかかると思っていたのだけれど……意外に早かったね」
「お礼を言うには、遅すぎる気もしますが」
「そんなことはない。王族や皇族が動くにはいろいろ時間がかかるものだからね。ましてや、国の中枢があれほど乱れては……。この期間で収束させた香樹様の手腕は、本当にすばらしい」
憧れている女性に夫を褒められて、思うことがないわけではなかった。
(私ったら。知らない間に、ずいぶんと嫉妬深くなったものね?)
以前の菊花ならば気にして表情に出ているところだが、妃教育を受けた今、正妃としてその態度はよろしくないと分かっている。
そもそも菊花は、リリーベルが夫である第二王子を心から愛していることを知っているのだ。
(ここは、素直に喜ぶべきよ)
チリッと胸を焦がす嫉妬心を隠し、菊花は微笑んだ。
「ありがとうございます」
「ふふ。成長したね、菊花」
「はい! だって私は香樹の妻ですから」
愛される者の顔でそう宣言する菊花に、リリーベルは感激したように一層強く抱きしめた。
そんな二人に、近づく人物が一人。
「リリィ。そんなに強く抱きしめたら、菊花様がつぶれてしまうのではないかい? 彼女はマシュマロのようにふわふわなのだろう?」
初めて聞く声が聞こえたかと思ったら、ベリッとリリーベルが引き剥がされて行った。
呆気にとられた菊花がきょとんとしていると、一人の男性と目が合う。
知らない男性だ。
しかし、リリーベルがおとなしく身を任せていることからして、彼女が信頼している人物だということは分かる。
蜂蜜のように濃い金色をした髪と、美しく澄んだ青玉のような目。
身長は、香樹と同じか少し高いくらいだろうか。
賢そうなアーモンド型の目は主人に忠実な狩猟犬を想起させるのに、リリーベルを見る目は驚くほど甘い。
菊花はその目を、よく知っている。
誰よりも近くで見てきたから、分かる。
(この人も、獣人なんだわ)
つまりこの人こそ、リリーベルの夫――戌の国の第二王子、ヴァロンタン・ラデライトなのだろう。
(おねえさまが惚気るほど愛している、あの……)
菊花の前だというのに、リリーベルとその男はわちゃわちゃと……否、菊花の目にはイチャイチャしているようにしか見えない。
なんだかいけないものを見ている気がして、菊花はとっさに視界を遮った。
「ひょわぁぁ」
しかし、どうしても気になるようで指の間がだんだんと開いてくる。
視界を全く隠せていないことに、夢中になって見ている菊花は気づいていないようだ。
抱きしめるヴァロンタンと、離せと身をよじるリリーベル。
しかしながら、リリーベルは本気で嫌がっているように見えない。
気を良くした男性は、嬉しそうに頬を緩ませた。
キリッとしていたら香樹くらいかっこいいだろうに、今は残念なくらい顔面が崩壊している。
(……膝枕はやりすぎだと思っていたけれど、獣人には物足りなかったりするのかしら。これが、獣人と伴侶のあるべき姿なの?)
人目もはばからずに睦み合う二人に、菊花は衝撃のあまりしばらくその場から動くことができなかった。




