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ヴェルパス・サーガ  作者: マカロニサラダ
17/20

スオン戦記・後編

 中編も少し読み返してみたのですが、やはりカクラは酷いですね。

 或いは、愛奈より酷いかも。

 善人には優しいが悪人には酷薄な愛奈と、勝つ為なら善人悪人問わず犠牲にするカクラ。

 果たして、そのどちらが非道と言えるのか?

 いえ、マカロニサラダの作品のヒロインは、八割がたこんな感じです。


     6


「――と、今頃彼女達はそう思っている頃でしょうな、陛下」

 彼がそう説明すると、皇帝サイバリオンは愉快そうに笑う。

「成る程。それがあなたの見解ですか。確かにソレは、私も的を射ていると思う」

「はい。なので、実につまらない話ですが、私はまずその間に敵の数を減らす事にします。その為の策は、こう」

 更に説明を続ける、彼。ソレを聴いて、サイバリオンは一考する。

「それは確かに面白い手段です。ですが、もっと楽にセイリオ軍を切り崩す手もあるのでは? 例えば――世に事実を公表するとか」

 が、彼は悠然と首を横に振った。

「ええ。勝利に徹するならソレもありでしょう。ですが――私は彼女との戦を楽しみたいのです。ただでさえ彼女が不在な時に、その隙を衝くという無粋な真似を私はしようとしている。そこに更なるつまらない手を重ねるというのは、私の信条に反します。よって、願わくは陛下もその手は封印していただきたい」

 この不敬なる発言を耳にして、宰相であるシュワートが眉をひそめる。

「陛下の策をつまらないと言い切るか、傭兵。セイリオ皇女といい、そなたといい、世には不遜な者が多すぎる」

「ですが、事実です。つまらない物は――つまらない」

 笑みさえ浮かべてそう告げる彼を見て、サイバリオンは嬉々とする。

「結構。ならば、あなたに軍の全権を委ねましょう。あなたなら、イスカダルを守り切ってくれると信じています」

 そこまで話が進んだ所で、彼は踵を返す。

 が、彼は振り向き様、最後にもう一つだけ皇帝に訊ねた。

「と、そういえば陛下は、どこで私の住所を知ったのでしょう? いかに陛下といえど、ニルバルカの住民全ての居場所を把握しているとは思えないのですが?」

「ああ、その事ですか。簡単な事です。あなたは以前、かの方達に自身の住所を記したメモを渡そうとしていた事があったでしょう? 私はソレを拝借しておいただけの事。そのお蔭で、ニルバルカはあなたという最後の砦を得ました。故に、あなたは思う存分腕を振るってください――クロウゼ・ヴァーゼ殿」

 皇帝がそう説明すると、クロウゼはキョトンとしてから、何故か苦笑いを浮かべる。

 彼はそのまま謁見の間から出て――相棒であるインデルカ・ヤルカと合流した。

「で、どういう事になったの、クロウゼ? いえ、それ以前にまさか本当にあのカクラという娘が、ニルバルカをここまで追い詰めるなんてね。正直、あの時は思いもしなかったわ」

 が、クロウゼは肩を竦める。

「そうかい? 私としてはカクラなら、ここまではやると思っていたけどね。但し、今の所ここまでが彼女の限界でもある。これ以上カクラが軍に関われば、セイリオ軍は間違いなく混乱するだろう。お蔭で私は彼女が不在な間に、つまらない作業をする羽目になった。けれど仮にこの作業が上手くいけば、カクラを軍に引き戻せる筈。実に奇妙な言い方になるが、私はカクラを復帰させる為にも、何が何でも勝たなくてはならない。私の本当の戦いは――それから」

「へえ? それで、その後は? 今度こそクロウゼは才能に相応した身分につけると思う?」

 しかし、クロウゼは不可思議な事を言う。

「どうかな? 私が思うに、あの方は私達とは見ている景色が違う気がする。私はアレほど気味が悪い人間を、見た事が無い。……いや、正確にはもう一人居たか。有事の時の師は、あんな感じだったかもしれないね」

「は? 気味が悪い? 皇帝が?」

 インデルカにしてみれば、サイバリオンは人事のミスを行い、ゴルディウム軍を壊滅させた元凶である。いや、元凶は言いすぎかもしれないが、軍を壊滅させた遠因ではあるだろう。そんな無能な皇帝の心中を推し量れないというクロウゼの言い草が、彼女には意外に聞こえたのだ。

「ま、その話は措いておこう。私達は劣勢であるサイバリオン派に雇われたが故に、この窮地を脱しなければならない。もとからイスカダルを守っていた兵は一万で、戦場から逃げ帰って来た兵が四万。計五万で、十万に及ぶセイリオ軍を迎え撃つ。取り敢えずセイリオ軍はイスカダルを包囲して、物資の流通を妨げ、兵糧攻めを始めるだろう。ならば、私達はこう動くしかないね」

 独り言のように呟いた後――カクラ・ハヤミテの兄弟子であるクロウゼ・ヴァーゼは行動を起こした。


     ◇


 その一報を聴いた時、セイリオは早くも自軍の構想が崩れた事を知った。セイリオ軍としては、まず城塞都市であるイスカダル包囲し、物の流通を遮断するつもりだった。そうなればイスカダルは、水や食料の補給を断たれる。イスカダルは、城塞都市に備蓄してある水や食料だけでしのがなければならない。だが、現在イスカダルの市民の数は百万を超える。それだけの人間が食料を毎日消費すれば、一月ほどで食料は尽きるだろう。そうなればイスカダルは戦わずして開城し、降伏するしかなくなる筈だ。

 それが、カクラがセイリオに託した最後の策だった。いや、彼女はもう一つだけ注意を促していた。決して白い髪をした男をイスカダルに近づけるなと、彼女は語っていたのだ。それさえ果たせれば、自分が居なくとも勝利はセイリオ軍の物だと彼女は謳った。

 けれど事態は、セイリオはおろかカクラさえ思いもつかない方向に進む。あろう事か、サイバリオン軍はイスカダルの市民全てを首都から放逐したのだ。首都を守る兵だけを残し、市民をイスカダルから追放する。したがってセイリオ軍は、イスカダルの市民全てを保護する必要に迫られた。

 それも当然と言える。セイリオ軍は、ニルバルカに新たな秩序をもたらすという名目で兵を挙げた。その新たな秩序とは死と混乱を生むサンバリオンを打倒し、民を安んじると言う物だ。明確な法のもとに民を保護して、決して不当な扱いはしない。その為カクラはニルバルカの町を占領しようとも、略奪は一切禁じた。ニルバルカの市民の人心を得る為、セイリオ軍はサイバリオンの様な横暴は決してしない。

 ならばセイリオ軍がイスカダルの市民を保護するのは当たり前で、そのため彼女達は苦心する事になる。

「百万に及ぶ市民を食べさせるだけの兵糧は、我等にはありません。ここは民を分け、近くの町に送って、そこで保護してもらう他ないかと」

 セイリオの後見役であるウィストック侯爵が、そう進言する。だが、セイリオとしては顔を曇らせる他ない。

 現在、ニルバルカは他国からの食糧の供給を断っている。ソレを厳守するよう他国に言い含めたのだ。そうなると、今度は首都の民を受け入れたその町々が負担を強いられる事になる。その町々が首都の市民に食料を供給する事になり、消耗していくだろう。そのとき彼等が自分達をどう思うかは、余りにも分かり切っていた。

 負担を強いた元凶であるセイリオ軍を、彼等は憎む事になるだろう。ここまで勝利を重ねながら、セイリオ軍は人心を手放す事になりかねない事態に陥っていた。

「と、まあ、そんな風にセイリオ皇女は困り果てているだろうね。で、その打開策は首都の市民を保護した町々が消耗する前に、決着をつける事のみ。民衆がセイリオ軍を見放す前に、彼等は何としてもサイバリオンを討たなければならない。私達は、その焦燥を利用する。というか、イスカダルに籠城すると見せかけて――その逆をするのがこの作戦の趣旨」

「はぁ。つまりクロウゼは打って出るつもり? 確かに今カクラ・ハヤミテは不在だけど、それでも敵の数は二倍なのよ? ソレで本当に勝算はあって?」

「さてね。たぶん師なら上手くやるんだろうが、私はどうだろう? まあ、試すだけ試してみるさ。仮に失敗したら、その時は報酬を貰わず逃げ出すだけの事」

「………」

 このいかにも彼らしい軽口に苦笑しながら――インデルカはクロウゼの作戦に耳を傾けた。


     ◇


 セイリオ軍の油断は、首都を包囲していた事から生じた。敵兵を首都から一歩も外に出していない彼等は、だから前方にのみ意識が向いていたのだ。だが、その夜、彼女達はその一報を耳にする。イスカダルを包囲してから七日目の事。あろう事か、セイリオ軍の背後を衝く勢力が現れたのだ。その数は二万五千ほどで、とても無視できる数ではなかった。

「――一体何者? 今更叔父に尻尾を振る勢力が、首都以外に残っていた?」

 セイリオが、眉間に皺を寄せながら呟く。だが、彼女は直ぐに軍に指示を送る役目に没頭する。彼女は一時イスカダルの包囲を解いて、全軍を以て背後の敵にあたるよう命じたのだ。

「カクラの策以外で、兵を分散するのは危険な筈。ここは全軍を用いて敵を殲滅し、後顧の憂いを断つ」

 恐らく、用兵学上、セイリオの判断は正しいだろう。兵を分けて、小出しで兵を出撃させるよりかは遥かに上策と言える。だが、ここで用兵学の常識を覆す異常事態が起こる。セイリオ軍が一斉に移動した瞬間――あろう事か地面が陥没して、セイリオ軍を落下させたのだ。

「……な、にっ? 一体何がぁ――っ?」

 誰もがそう恐慌する中、外の敵と城塞都市に籠もっていた敵が一斉に出現する。彼等は落とし穴の中に油が入ったツボを投げ込み、揃って火矢を放つ。カクラが以前使ったその蛮行はここでも冷酷なまでに機能し、セイリオ軍を焼き殺していく。

 彼等は逃げ惑いながら、協力し合い、何とかセイリオだけでも脱出させようとする。落とし穴からよじ登った味方は敵兵に斬り殺されていくが、それでもどうにかセイリオ軍は活路を開く。敵兵が手薄な場所を発見した彼等はソコからよじ登り、何とか落とし穴から脱出する。

 けれど、最早彼等に戦意を維持するだけの士気は無かった。ウィストック侯爵はこの戦いで戦死して、戦闘指揮官だったアルムド伯爵も壮絶な最期を遂げた。

 セイリオを保護するだけで手一杯だった彼等はそのまま東へと撤退し――ウルヴァルに逃げ込んだのだ。


     ◇


 そしてカクラとマイナムは、思わぬ形でセイリオ・ニルバルカと再会した。

「……まさか、あの状況で陛下の軍が、敗れた?」

 カクラが呆然とすると、セイリオは吐き出す様に言葉を紡ぐ。

「……ええ、もう大敗北もいい所よ。ウィストック侯もアルムド伯も、皆、死んだわ。一体コレはなんなの? なぜ私達はこんな事になっているの? アナタならそれがわかるんじゃないの、カクラ・ハヤミテ……?」

「………」

 と、カクラは一瞬言葉を失ってから、漸く口を開く。

「恐らく……クロウゼ・ヴァーゼの仕業でしょう。彼は地下に穴を掘って、残存兵力の半分を外に出した。そのまま残りの兵は落とし穴を掘って、その落とし穴にセイリオ軍を誘導した。後は、セイリオ様達が体験した通りです」

「……は? そのクロウゼというのは、魔法使いか何か? なんであの短期間で、あんな遠方までトンネルを掘れるのよ? 敵の軍はイスカダルから二キロは離れた場所から、現れたのよ? そんな真似はとてもじゃないけど、人間業とは思えない!」

 が、セイリオは今になって気付く。

「……あ、いえ、そうでもないかもしれない。ミルデガル城にある隠し通路を使えば、敵兵を密かに外に出す事は可能かも……」

 皇帝が住む、ミルデガル城。そこには確かに有事に備えて、隠し通路が設置されている。地下に通じている其処は、皇帝に危険が迫った時、城から脱出する為の物だ。ソレを利用すれば或いは―――。

「はい。後は五万に及ぶ兵を動員して、地下から落とし穴を掘るだけ。七日でその作業を終えた彼等は軍を二つに分けた後――セイリオ軍をその落とし穴に落した」

 カクラがそこまで語ると、セイリオは顔をしかめて立ち上がる。

「……クロウゼ・ヴァーゼ、ね。そんな化物が叔父に味方をしているなら、こちらも手段を選んではいられない。軍に戻ってもらうわよ――カクラ、パイスン子爵。クロウゼはアナタ達なしでは――とても太刀打ち出来ない」

「……了解しました。それで、こちらの残存兵力は?」

 カクラが問うと、セイリオは心底口惜しそうに、歯を食いしばる。

「――五万よ。あの嘘みたいな戦いで私は半分もの兵達を、無駄死にさせた。せっかくゴルディウム軍をほぼ無傷で叩いたのに、これで振り出しに戻ってしまった。……いい、カクラ、パイスン子爵、私はこんな悔しい思いをする為に皇帝を名乗った訳じゃないの。この借りは必ず返すわ。例えその敵がカクラの兄弟子だったとしても――私は彼を絶対に許さない」

「………」

 こうしてマイナム一党は、再び歴史の表舞台に立つ。

 カクラ達はセイリオ軍に同行して――イスカダルを目指す形となった。


     ◇


 その道中、馬上にあるセイリオは、同じく馬上にあるカクラに問う。

「で、ここだけの話、勝算はあるの? アナタなら、兄弟子であるクロウゼにも勝てる?」

 最も肝心な部分をセイリオは訊ね、カクラはただ事実だけを告げた。

「果たしてどうでしょう? 私と彼が初めて戦ったのは〝カシャンの動乱〟です。ですが、正直、ビルデ王を五年以内に退位させる事を条件に和睦したあの戦は、半ば私の敗けだった。加えて七対三ほどの戦力差がありながら、クロウゼは私と互角に戦ってみせました。但し、それは私が彼の参戦を知らずに油断していたから。今回もその所為で後れをとりましたが、ここから先は私に油断はありません。陛下のお役にたてるよう、誠心誠意努力する次第です」

「……何か今一パッとしない答えね。ま、いいわ。セイリオ軍の大敗北は、既に噂になっている筈。つまり私に後は無く、次の戦で負ければ立て直しは難しい。ここは是が非でも、パイスン一党に奮闘してもらう他ないわ」

 そう謳いながらセイリオは馬の足を速める。その後ろ姿を見送りながらマイナムは呟いた。

「……いや、寧ろ問題なのは――俺がインデルカ・ヤルカに勝てるかという事。恐れていた事態が、現実の物になった。俺は恐らく、彼女と戦わなくてはならないだろう。彼女に勝利しない限り――クロウゼ軍を打倒するのは難しい」

「ええ、或いはそうかもしれません。ですがいかにマイナム様が恐れる女傑であろうと、一人で五万人分の働きは出来ないでしょう。マイナム様がインデルカ・ヤルカと戦う状況に追い込まれるかは、たぶん私次第です」

〝なので、それほど気負わない様に〟とカクラは励ます。ソレを聴いてマイナムは苦笑した。

「何にしても万が一に備えて、ウルヴァルで待機していた意味はあったな。コレが今度こそ本当に、最後の戦いになるだろう。それはつまり、絶対に負けられない戦いという事。セイリオ陛下の仰る通りだ。俺達には――もう後が無い」

 マイナムがそう決意を固める中、セイリオ軍はイスカダルを目前にする。

 だが、その正面の門から五キロ離れた平地には――既にクロウゼ軍が陣取っていたのだ。


     ◇


「と、まあ、カクラにとっては思わぬ展開といった所だろうね。勝利を確信して身を引きながら、私の登場で再び戦場に戻された。私としてはこの時を待っていた訳だが、彼女はどんな心持でこの戦に臨んでいるのか? そこら辺も、興味が尽きないな」

 軍の後方で指揮を執る馬上のクロウゼが、他人事のように告げる。ソレを耳にして、インデルカは口角をつり上げた。ソレは獲物を前にした肉食獣を彷彿とさせる、猛々しい笑みだ。

「それで、肝心の策は? 貴方のご希望通りカクラ・ハヤミテは参戦してきた訳だけど、彼女に勝つ手段は本当にあるの?」

 ついでクロウゼは、キッパリと言い切った。

「ああ――ソレはぶっちゃけ無い。幾つか策は考えたけど、どれもカクラには読まれている気がする。どの手を使おうとも、裏をかかれて窮地に陥りそうなんだよ。けれど、ソレは向こうも同じだろう。同じ師から学んだ私相手では、何をしても通用する気がしない筈。よってこの戦は敵の動きに合わせて、その場しのぎで行おうと思う」

「……一応訊いておくけど、それって本気?」

 さすがに呆れるインデルカだったが、クロウゼは平然としている。

「もちろん本気さ。故に――まずは後の先をとる。敵が動き次第、こちらも兵を進める事にしよう」

 一方、敵軍から一キロ離れた陣地に居るカクラも、ここにきて眉を曇らせる。

(やはり、クロウゼは動かない、か。それも当然。何しろ私達は、互いの手の内を知りすぎている。下手な策を用いれば、カウンターを食らって再起不能になりかねない。しがって私達の戦いは、不動のまま互いの思惑を探る事に忙殺される。クロウゼが何を考え、どう動くか。ソレを見切らない限り――此方に勝機は無い)

 故に、セイリオ軍もクロウゼ軍も横陣を敷いたまま、互いに睨み合う。セイリオに軍の全権を委任されたカクラは、そのまま一時間ほど動きを見せなかった。

「いえ、何にしても、敵が固まったままでは勝負にならない。先ずは、あの陣形を崩すところから始めないと」

 だが、自軍がそう行動した時、敵軍はどう動くか? クロウゼ相手では、それさえ見通せないカクラだった。それでも彼女は――敢えて先手を取る。

「先鋒隊一万を、敵軍に突撃させて下さい。そのまま敵を足止めし、その間に一万の別部隊が敵軍を迂回してイスカダルへと進撃する。そうなれば、敵は部隊を二つに分けるしかなくなるでしょう。その分散を行う時、敵陣の陣形に僅かな隙が生じる筈。ソコに縦陣を敷いた三万の部隊を突撃させ、敵の司令部を一気に叩きます」

 が、クロウゼはセイリオ軍が兵一万を動かした時点で、カクラの作戦を看破する。

「なので、我が軍は迂回部隊を無視して縦陣を敷き、全軍を以てセイリオ軍本隊を叩く」

 となると、手薄になったセイリオ軍の本陣は容易に突破される事になるだろう。クロウゼ軍が縦陣を敷いた時点でその事に気付いたカクラは、作戦の破棄を決断する。

「……やはり、やり難い。兵を少し動かした時点で、此方の思惑は全て読まれている。正攻法で攻略できる相手ではないわね、やっぱり」

 その後もカクラは何度か作戦を練って実行し様とするが、それに合わせてクロウゼも動く。その対処の仕方が余りに的確だった為、カクラはその度に作戦を破棄していく。そんな鍔迫り合いは、五時間以上続いた。

「……本隊そのものを迂回させて、イスカダルを攻める? いえ、駄目ね。移動する途中で、側面か後背を衝かれるのがオチだわ。なら一時撤退して敵を誘いだし、包囲、殲滅する? まさか。そんな手を見抜けない、クロウゼじゃない」

 口に手を当てながら、カクラは作戦を考えては破棄していく。その最中、セイリオが問うてきた。

「というか、先の戦と同じ手を使っている可能性はないの? 敵陣の周りには落とし穴があるとか、そういうオチなんじゃ?」

「いえ、恐らくソレは無いでしょう。クロウゼの目的は、互角の戦力を以て、私と正面から戦う事です。彼はこの戦いを玩具にして楽しんでいる。よってそう言った手は使ってこない筈」

 ならば、どうする? いや、そうこうしている間に日は傾き始め、気が付けば夜の帳が周囲を被っていた。

 結局この日は決着がつかず――両軍は申し合わせた様に後退を始めたのだ。


     ◇


「やはり――何か策を考えなければ話になりませんね。問題はどうすれば勝てるかという事」

 平地に天幕を張って、その中でカクラ達は軍議を行う。カクラは開口一番問題提起を行い、マイナムとエイジアは顔を見合わせた。

「と言われてもね。軍師殿でさえ、手をこまねいている状況なのだろう? なら、俺達が力になれそうな事は殆ど無いと思う」

 カクラの立案能力の高さを知っているエイジアは、そう言うしかない。先の戦いで大敗したセイリオも口をつぐみ、マイナムも腕を組んだまま黙っている。それは他の貴族や騎士達も同じで、彼等は難しい顔つきのまま首を傾げていた。

 要するに、打つ手は無いという事だ。ゴルディウム軍をアレほど鮮やかに撃破したカクラ・ハヤミテが、今は深く思い悩んでいる。

(それ程までに、クロウゼ・ヴァーゼは強敵という事。本当に、これほど悩んでいるカクラは初めて見る)

 マイナムが内心でそう感じていると、カクラは天幕の中を行ったり来たりし始めた。

「……クロウゼの意表をつく策。……クロウゼの意表をつく策。何かないの、カクラ・ハヤミテ? いえ、絶対に何かある。あの男と言えど、万能である訳がない」

 片やクロウゼ・ヴァーゼといえばミルデガル城の客間に居て、ソファーで寝そべっている。彼はブツブツと呟きながら、何かを考えている様だった。

「というか、貴方、セイリオ軍を罠にはめたとき手を抜いていたでしょう? あの時セイリオ軍を全滅させる事は可能だったのに、わざと彼女達を見逃した。その所為で貴方はこうも頭を悩ませているわけだけど、今になって後悔しているんじゃない?」

 インデルカの言っている事は、事実だ。彼はあの時セイリオを殺そうと思えば、殺せた。

 が、ただ一点、間違っている部分をクロウゼは修正する。

「まさか。逆に私は今最高の娯楽を得て、悦に浸っている所さ。よもやカクラと戦うのが、こうも楽しいとはね。さてはて、どうした物か? どう攻めれば、彼女に勝てる?」

 カクラは頭を悩ませ、クロウゼは戦い自体を楽しむ。前者に余裕は無く、後者にはまだ余裕が残されている。両軍に差があるとすればそれ位で、今の所、両者を分かつもう一つの要素にカクラは気付かない。そのまま夜は明け――セイリオ軍とクロウゼ軍は再び睨み合いを始めたのだ。


     ◇


 未だに動きを見せない、両軍。その時、マイナムは意を決してカクラに進言する。

「カクラ、手が無いなら俺を使え。ゴルディウム軍を叩いた時と、同じ策を使おう。俺がインデルカ・ヤルカと一騎打ちをして勝てば、軍に勢いがつく筈だ。その勢いに乗れば、勝機も見えてくるだろう?」

 けれどカクラの返答は、何時かの様ににべもない。

「ええ。マイナム様が本当に勝てれば、有効な手かもしれません。ですが、あなたもまたインデルカ・ヤルカの実力を知りすぎている。正直いえば、勝てる気がしないのは、今も同じなのではないのですか?」

「………」

 ソレは、虚勢を許さない鋭い声だった。それもその筈か。逆にマイナムが負ければ、セイリオ軍は総崩れになりかねない。ゴルディウムに勝利したマイナムは、今や騎士達の間では英雄扱いされているのだ。その英雄が名もなき傭兵に敗れたとなれば、皆色めき立つだろう。

 士気は大いに下がり、その時点で逃げ出す兵さえ出てくるかもしれない。カクラとしては、そんな危うい賭けに乗る訳にはいかなかった。

 だが、ソレは転じて、まだセイリオ軍には余裕がある事を意味している。その余裕を自ら手放す手段を、カクラはとらない。

(なら、どうする? どう攻めれば、彼に、クロウゼに勝てると言うの? ……いえ、ちょっと待って。――そう、か。私達にあって、彼にはない物が一つだけあった――)

 カクラにしてみれば、自身の迂闊さを認めるしかないミスである。

 故に、カクラはこう命じた。

「縦陣を敷いた状態で、全軍を四つに分けます。そのまま敵陣へと突撃し、四方から敵陣を切り崩してください。そうしようとすれば、敵方も軍を四つに分けて対応する筈。そうなれば――恐らく私達が勝ちます」

「ほう? その根拠は?」

 エイジアが訊ねると、カクラは敵陣を見据えながら答える。

「戦闘指揮能力は、此方の方が上だからです。敵の主立った将軍達は先の戦で全滅している。けれど我が軍はエイジア殿をはじめ、多くの将軍が生き残っています。その差を以て敵軍を攻めれば、必ず優劣がつきはじめる。敵の指揮官がクロウゼ・ヴァーゼ一人なら――私以外に多くの将軍を抱える我が軍の方が有利でしょう」

 即ち、ここから先は、カクラ以外の指揮官の手腕によるという事。クロウゼは一人で、セイリオ軍が抱える将軍全てに対応しなければならない。だが、混戦になればそれは凡そ不可能といえた。

 混戦になれば、現場の判断が物を言う。総司令官が指示を送る頃には、戦況は変わっているだろう。よって、この戦いでは現場で事にあたる将軍達の指揮能力が、勝敗を分かつと言っていい。

「分かりました。我が軍は――その策を以てクロウゼ軍を攻める事にします」

 セイリオが了承すると、カクラは各隊に指揮官である将軍を宛がっていく。それが済んだ途端、セイリオ軍は縦陣を敷いて進軍を始め、クロウゼ軍を強襲した。

 対して、クロウゼはソレを見てほくそ笑む。

「やはり、そうきたか。カクラにしては、気付くのが遅かったな。それだけ彼女もこの戦に関しては、プレッシャーを感じているという事か?」

「って、呑気に構えている場合じゃないわよ、クロウゼ。貴方の言う通りだとすれば、確かにクロウゼ以外指揮能力を持つ将軍が居ない我が方は圧倒的に不利だわ。その策を見抜いていた貴方は、もちろん対処法も考えてあるのでしょう?」

 クロウゼの答えは、こうだ。

「一応、ね。上手くいくかは分からないが――試す価値はあると思う」

 そう謳いながら――クロウゼ・ヴァーゼも作戦を開始した。


     ◇


 四つに分けられ、進軍を開始するセイリオ軍。一方、クロウゼ軍はカクラ軍の接近に合わせて、遠距離から矢を放ち始める。放物線を描いて、上空から降ってくる無数の矢。その猛攻をセイリオ軍は盾を構えて何とか受け止めていく。この時、カクラはこう感じた。

(やはりクロウゼも、当然自軍の弱点には気付いている。私達を近づけまいとしているのが、その証拠。問題は――彼がそれ以外に何らかの対策を考えているかという事。仮にそうだとしたら、私達は何としてもその対応策を打ち破らなければならない――)

 既に作戦は決行され、引き返す事は出来ない。カクラとしてはクロウゼ軍と混戦をして、指揮能力の差を以て勝利する以外無いのだ。

 だが、果たして本当にクロウゼ軍にとりつく事ができるか? 全ては――ソコにかかっていた。

 そのカクラの思いが、セイリオ軍の足を速める。カクラは降りしきる矢を盾で防ぎながら、軍の足を速めるよう命令を下す。

 縦陣の長所は、機動力が高い事。その機動力を以て、セイリオ軍は確実にクロウゼ軍との間合いを詰めていく。

 その時カクラが恐れていた事態が起こる。縦陣を敷いたクロウゼ軍は後退を始め、イスカダルへと逃げ込もうとしたのだ。

 少なくともカクラの目にはそう映り、彼女は顔を曇らせる。

(やはりクロウゼは、混戦になる事を嫌がっている。混戦になれば、勝機が無い事を知り尽くしているから。故に我が軍が全軍をあげて近づこうとすれば、当然彼等は後退する。でも、そんな弱腰では一生セイリオ軍には勝てないわよ、クロウゼ?)

 けれど、カクラはクロウゼの思惑を感じ取る。

(……まさか、敵の狙いは持久戦に持ち込む事? 長期戦になれば、勝つのは自分達だとクロウゼは確信している?)

 それはカクラ達には無く、クロウゼ軍にはある物が関係していた。セイリオ軍は先の戦いで兵糧の殆どを失ったのだ。兵糧は万が一に備えて、ウルヴァルに貯蓄していた物しかない。

 後一月兵を食べさせる分の食料しかなく、ソレを使い切ればセイリオ軍は食料が無くなる。

 そうなれば戦どころではなくなり、セイリオ軍は苦渋の選択を強いられるだろう。大義名分を捨てて、ニルバルカの町々から物資の略奪を余儀なくされるのだ。

 仮にそうなれば、セイリオ軍は大義名分を失い、人心を失うだろう。ニルバルカの市民が敵に回れば、セイリオ軍は敵地に放り出された孤立無援の軍と化す。

 となると、セイリオ軍とサイバリオン軍のどちらに勝利が傾くかは余りにも明白だ。クロウゼがそこまで考えて撤退するつもりなら、カクラの危機感は増す一方である。

 カクラはこの時、クロウゼ軍を決して逃がしてはならないと感じた。

(持久戦に持ち込まれれば――負けるのは私達の方。けれど反対に混戦に持ち込めたなら――私達が勝つ。ならば――絶対にクロウゼ軍を逃すわけにはいかない)

 よってカクラは、全軍にこう命じる。

「全軍――全速前進。何がなんでも――クロウゼ軍にとりついて下さい」

 ここでクロウゼ軍を逃せば、彼等はもうイスカダルの城下町から出てこないかもしれない。クロウゼ軍はイスカダルに籠城し、ただ時が過ぎるのを待つ。そして互角の戦力では、城を落すのは難しい。逆にクロウゼ軍は、一月持ちこたえれば勝利が見えてくる。

 そう言った未来を連想するが故に、カクラは僅かながら焦燥する。彼女はただ、クロウゼ軍への接近を急いだ。

「敵軍、更に進撃してきます。やはりこのままイスカダルまで逃げ込みますか――ヴァーゼ殿?」

 兵の一人が、クロウゼに訊ねる。イスカダルに向けて軍を進める彼は、一笑した。

「流石は、カクラだね。此方の動きを見ただけで、最悪の事態と言う物を看破してきた。その所為で彼女は焦り、何としても我が軍にとりつこうと必死だ。そう。カクラの恐ろしい点は、敵に優勢だと思いこませる事が出来る所だ。その実、彼女は裏で敵以上の利を得て作戦を実行している。だが、今彼女はそういった策はとれず、自身の有利だけを武器にして私と戦っている。私達は――そんな彼女の心の隙を衝く」

「へえ? つまりクロウゼは――やはり籠城策をとるという事?」

 インデルカが問うと、クロウゼは肩をすくめた。

「ああ。その手も十分有効的だろう。けど――私はやはりこの策でカクラ・ハヤミテを討ち取る事にするよ」

 よってクロウゼ・ヴァーゼは――次にこう命じたのだ。


     ◇


 尚も後退するクロウゼ軍と、ソレを猛追するセイリオ軍。が、セイリオ軍の方が、僅かに足が速く、彼女達はクロウゼ軍に肉薄する。だが――後二百メートルでクロウゼ軍に追いつけると言う所でカクラはその光景を見た。

「――つっ? 不味い! 全軍停止……!」

 咄嗟にカクラはそう命じるが、セイリオ軍の進軍速度は余りに速すぎた。それこそ後方に居る指揮官の命令が、浸透するより速い速度で彼等は移動していたのだ。

 その為、セイリオ軍は簡単には止まらず、カクラは息を呑む。何故ならクロウゼ軍は申し合わせた様に反転して、セイリオ軍に奇襲をかけてきたから。

 この瞬間――カクラは自身の迂闊さを初めて知った。

(――敵の狙いは私を焦燥させて、進軍の勢いを速める事! セイリオ軍の先鋒部隊はまさか敵が反転攻勢にでるとは思っていないから、その分対応が遅れる!)

「正解だ、カクラ。したがって――君達にはコレも躱せない」

 クロウゼ軍が、隠し持っていた大木の枝に火をつける。五万個に及ぶ木の枝は燃え盛り、絶え間なく煙を上げる。ソレを――あろう事か彼等はセイリオ軍に投げつけた。

「――煙幕! 敵の狙いは此方の視界を奪う事かっ?」

 エイジアがそう危機感を募らせた時には、戦況は一変していた。煙にまかれたセイリオ軍は視界を奪われたまま、未だに進軍を続けている。

 クロウゼ軍は、そんな彼等に手痛いカウンターを食らわせた。彼等は馬を捨てて歩兵となって、屈みながらセイリオ軍に近づく。

 彼等はセイリオ軍の先鋒隊の騎馬兵に斬りつけ、彼等の足を止めたのだ。

「そう。縦陣の弱点は、頭を押さえられる事。加えて、長所である機動力を奪われた時、縦陣の更なる弱点が露わになる」

 クロウゼは冷静にそう言い放ち、カクラは奥歯を噛み締めながら戦況を見つめた。

(――やられた! クロウゼの狙いは、私の焦燥を引き出す事! それに乗じて――反転攻勢に出るのが彼の策!)

 だが、カクラがそう気付いた時には、クロウゼ軍の反撃が始まる。彼等は足が止まったセイリオ軍を包み込む様に陣形を変えていく。

 一方、先鋒隊の足が止まった事で、セイリオ軍の縦陣は完全に崩れていた。後衛である彼等は前に進まない先鋒隊と合流してしまい、一個の丸い人の塊へと変化する。

 ソレを包みこもうとするクロウゼ軍の用兵は、正に絶妙と言えた。兵を左右に分けたクロウゼは、そのままセイリオ軍を包囲し様とする。

 これが完成すればセイリオ軍は逃げ場を失い、或いは全滅するかもしれない。

 そう感じた時、カクラは全軍に命を下す。

「――何とか正面突破してください! 敵陣の包囲が完成すれば、私達の被害は甚大な物になります!」

 しかし依然煙幕で視界を奪われている兵達は、どちらが正面なのかも曖昧だ。カクラの命令は、兵達の混乱を生むだけだった。

 この危機的状況を前に、最前線から一キロ離れた自陣で戦況を見ていたセイリオが呼吸を乱す。

「……不味い! このままでは本当に全滅しかねないわ! やはりクロウゼ・ヴァーゼは化物だった! 彼には――カクラでさえ勝てないというのっ?」

 その危惧が、今まさに現実の物になろうとしていた。全周包囲を終えたクロウゼ軍は、完全に包囲されたセイリオ軍に向け攻撃を始めたのだ。

 彼等は実に用意周到で、火をつけた木の枝に糸をつけていた。全ての準備が整った時点で、彼等は糸を手繰り寄せて火のついた枝を回収する。

 そのままソレを遠方に投げ捨て、視界がクリヤーになった所で、総攻撃を始めたのだ。

「全軍、突撃。標的は――カクラ・ハヤミテとマイナム・パイスンにしぼって良い。彼女達さえ討ち取ればセイリオ軍の士気は一気に下がり、此方の勝利は確実な物になる」

 クロウゼは、セイリオ軍の急所を的確にとらえる。一方セイリオ軍はといえばそうはさせまいと正面の敵に対し、必死に抵抗する。敵陣の後方から放たれる矢の群れを盾で防ぎながら、敵軍の歩兵部隊が繰り出す長槍を受け流す。

 だが、全周包囲されたセイリオ軍は味方と味方の間合いが余りに狭まっている。敵方に押し込められた彼等は、満足に剣を振るう事さえ出来ない。

 この絶対的な窮地を前にして、カクラはひたすら指示を出し続けた。

「皆、各々正面の敵にだけ意識を集中して下さい! 何とか時間を稼いで、敵が消耗するのを待って!」

 けれど、そう言った作戦さえクロウゼは読んでいた。彼は嘗てエイジア・ヨルンバルトが行った策を使う。味方が消耗したのを見計らい、その兵を後退させて、後方に居る兵を前方に出す。攻撃する兵を入れ替えさせ、万全の状態の兵に攻撃を再開させたのだ。

 この波状攻撃を見て、エイジアも舌を巻く。

「……やってくれる! 完全に、俺のお株が奪われた! どうする――軍師殿っ? このままでは本当に不味いぞ――!」

 それもその筈。依然密集隊形を余儀なくされているセイリオ軍は、だからクロウゼ軍の様に兵の入れ替えは出来ない。前面に立つ兵が延々と敵兵にあたるしかなく、そのぶん疲弊していく。

 事実、攻撃から三十分経ったところで、彼等の疲労は限界に至った。セイリオ軍の先鋒隊はほぼ全滅し、クロウゼ軍は更なる獲物を求めて前進してくる。

 全周包囲をされたセイリオ軍は、ただクロウゼ軍の攻撃に晒されるしかない。

 だが、敵軍の先鋒隊が全滅し、敵が更なる混乱を見せた時、クロウゼは作戦を変える。彼はこのままでは、自軍もまた危ういと見たのだ。

「だな。これ以上敵を追い詰めれば、敵軍は死兵と化すだろう。死に物狂いで戦う様になり、その分此方の被害も甚大になる。ソレを避ける手は――一つだけだろうな」

 既に敵兵は、混乱の極みにある。死の恐怖が身をすくませ、剣を持つ手も震えている。もう彼等には戦意が無いと見たクロウゼは、そのため次の手を打つ。

 クロウゼ軍は意図的に一ヵ所だけ包囲網に穴をあけ、ソコに敵軍を誘導したのだ。

 ソレは――囲師必闕と呼ばれる包囲戦の奥義。死に直結した兵達は、包囲した状態なら戦意を保って死に物狂いで戦う。

 だが、一度逃げ道を示されれば、戦意を失ってただ逃げるだけの人間になる。兵では無くただの人となった彼等は、その分、容易に仕留める事ができるのだ。

 実際、唯一の逃げ道を示されたセイリオ軍は必死の形相で、ソコから逃走を始める。戦意を失ったであろう彼等は、最早戦う為の兵では無く、ただの逃亡者に成り果てていた。

 少なくともクロウゼはそう考え、その逃亡者達を背後から襲うよう自軍の兵に命じる。コレが成功すればクロウゼ軍は一兵も失う事なく勝利するだろう。

 そして、ソレは現実の物となる。セイリオ軍は秩序を無くして逃亡を始め、クロウゼ軍はそんな彼等を追おうとする。セイリオ軍に残されているのは――最早死しかない。

 いや、そう思われた時――ソレは起きた。

「――なに?」

 秩序を失い、ただ逃げるだけの逃亡者に成り果てた筈のセイリオ軍が、立ち止まる。彼等は時間を追うごとに一ヵ所に集まり始め、手にした武器を決して手放さない。

 彼等は誰に指示を受けるでもなく、自然に縦陣に移行して――あろう事か息を吹き返したのだ。

「まさか――これは?」

「ええ、そういう事よ、クロウゼ・ヴァーゼ! 私達が徹底して訓練した事は三つ。一つは――ヨルンバルト戦術。もう一つは――分散した軍の再集結。そして最後の一つは――囲師必闕を逆に利用する事!」

「つまり、包囲されれば敵は囲師必闕を使ってくると事前に見通していた? そうなった時どう動くか――兵達に教え込んでいたという事か?」

 そう。万が一全周包囲をされても、決してパニックにならないようカクラは兵達に教えていた。仮に包囲殲滅されかけても、敵は必ず逃げ道を開けてくる。

 その逃げ道を冷静に通って、後は少し離れた所で陣形を再編する。カクラは兵達に徹底してそうするよう訓練させたのだ。

 クロウゼがそう知った時、セイリオ軍は縦陣を敷いたまま、今度こそクロウゼ軍に突撃をかける。

 ここに混戦は始まり――両軍は最後の激突を始めた。


     ◇


 混戦を始める、両軍。その瞬間、クロウゼ・ヴァーゼは両軍の戦力を測る。

(敵の先鋒隊を潰した分、数的には此方が有利か。恐らく五万対四万と言った所。勢いはまだ此方にあり、僅かに優位でもある。だが、長期戦になれば指揮官クラスの人間が私以外居ない我が軍が不利になっていく。敵の将軍は此方の部隊を各個撃破してやがて劣勢を覆すだろう。ソレを食い止める手段は――一つしかないね)

 囲師必闕を破られた彼は、それでも冷静だった。クロウゼは淡々と自分がするべき事を見出し、ソレを実行しようとする。

「各々、全力を以て敵兵にあたるべし。その間に私達は――敵の頭と最大の武器を狩り取る」

 あろう事かクロウゼはインデルカを伴い、二人だけで戦場を大きく迂回する。敵陣の後方へと向かい、彼等は自身の標的を発見した。

「――クロウゼ・ヴァーゼ!」

「インデルカ・ヤルカ――!」

 彼等の姿を視界に収めた、カクラとマイナムが同時に叫ぶ。

 そのままクロウゼ達は二人に接近し、カクラは内心舌を打つ。

(――やはり、クロウゼは此方の頭と最大の武器を潰しに来た! 彼は私達が倒されれば、セイリオ軍は総崩れになる事を熟知している!)

(ま、そういう事だね。尤も、ソレは此方も同じだが。私とインデルカが敗れた時点で、我が軍もまた総崩れになる)

 よって、コレは一種の賭けだ。自軍が劣勢になる前に、クロウゼはカクラ達を屠らなければならない。

 でなければ、今は押しているクロウゼ軍は何れ追い詰められる事になるだろう。

 ならば――ここはリスクを冒してでも敵将であるカクラとマイナムを討つ。

「上等! だったらこちらも――それに応えるのみ!」

 敢えて自分達を囮にして、カクラ達は自軍から離れる。インデルカの実力を知っているカクラは、このままインデルカ達に後衛を衝かれれば軍が混乱すると看破したのだ。

 いや、それ以上に――彼女はクロウゼと一対一で決着をつけたかったのかもしれない。それに巻き込まれた形となったマイナムは、ただ苦笑する。

「やはりこうなったか。思った通り――俺はインデルカと戦う運命にあったらしい」

「ええ、それも全ては私の力不足です。どうかご武運を、マイナム様。生きて帰れたら――この埋め合わせは何れ必ずしますから」

 珍しく屈託なく微笑み、カクラはマイナムとわかれる。カクラを見送ったマイナムは、そのまま馬をおり、やはり馬からおりたインデルカ・ヤルカと対峙する。

 その頃にはカクラもクロウゼと戦闘状態になり――ここに四者の戦いは幕を開けた。


     ◇


 だが、軍師であるカクラ・ハヤミテやクロウゼ・ヴァーゼに戦闘能力はあるのか? マイナムがそう疑問に思っている頃、両者は円を描く様に馬を走らせる。カクラの愛馬バイケルはクロウゼの愛馬メグマの後を追い、メグマはバイケルの後を追う。

 円を描く両者の距離は、直径にして十メートルは離れているだろう。その間合いを埋める様に、カクラは吼える。

「やはりこうなったわね、クロウゼ! 貴方は劣勢だったサイバリオン派に味方をして、私達を玩具にし、自分の趣味を満足させている! その所為でどれだけ多くの人達が死ぬ事になったか、今こそ思い知りなさい!」

「それはお互い様だよ、カクラ。君は自身の大義名分を果たす為に、大勢の人々を殺めた。私達の間では既にどっちが悪でどっちが正義とかそういう話は成り立たない。君の持論通りだ。この場合――勝利を掴んだ者が正義となる。その一点だけは――私も認めよう」

 喜悦しながらカクラに答える、クロウゼ。途端、彼は馬の腹に設置されている槍を取る。あろう事かソレをカクラに向けて投擲し、彼女はこの時その速度を前にして息を呑んだ。

(つっ! くっ……!)

 時速三百キロで迫る、黒い槍。ソレを見て、カクラは咄嗟に身を屈める。槍は彼女の背中を掠めながら通り抜け、その痛みを受けカクラは顔を歪めた。

「やってくれるわね――クロウゼのクセに! 妹弟子を本気で殺そうとするとか、どんな兄弟子よっ?」

「そうだね。正直、戦場で誰かが君を討ち取った方が、抵抗はなかった。まさかこの手で君を殺さなければならないなんて、実に悲しい話だ。人はこういうのを、悲劇と言うのかな?」

「悲劇を撒き散らす事しか出来ない人間が、何を偉そうに!」

 ついで、カクラが攻撃を開始する。彼女は服の袖に忍ばせていた投擲用のナイフを取り出しソレをクロウゼに向けて放つ。

 だが、時速三百キロで放たれたソレを、クロウゼは完全に見切っていた。彼は瞬時に身をかわし、すぐさま体勢を整える。ソレを見て、カクラはマイナムが言っていた事を思い出す。

 ネルガ・テイゼと戦った時、マイナムはこう語っていた。才能が同格なら、一年早く生まれた自分の方が、一日の長があると。

 ソレが事実なら、カクラの勝算は実に僅かだ。カクラより十二年も早く生まれたクロウゼとの差は、一日の長どころではない。或いは、子供と大人ほどの差があるだろう。

 そう理解しながらも、カクラは自軍の勝利の為に尚も戦い続けるしかない。

(――勝機があるとすれば、一つだけ! ソレが破られた時、私だけでなくセイリオ軍その物が滅び去る!)

 しかし、それは転じるとクロウゼ軍も同じだ。今ここでクロウゼが敗れれば、彼の軍は完全に総崩れになるだろう。総司令官が討ち取られれば、今は優勢なクロウゼ軍は完全に指揮系統を失い、瓦解する。

 それが分かっているからこそ、クロウゼも決して負けられない。

「だな。私はこの負け戦を勝ち戦に変える為にも、敗北は許されない。ここで敗北する様では私が雇われた意味が無い。しかし、残念だよ。師は私達に戦術論と戦略論は教えてくれたが、結局武術までは教えてくれなかった。仮に彼女の手ほどきを受けていたら、私達はどれほどの高みに達していたか? それこそマイナム君やインデルカさえも、雑兵に思えていたかもしれないな」

「だから――二度とあいつの話題は口にしないでって言っているでしょうが!」

 更に槍を投擲してくるクロウゼに向け、カクラが謳う。槍が腕を掠めた彼女は、それでも怯まない。手にしたナイフを投擲して、尚も反撃する。けれど、クロウゼはやはりソレを鮮やかに回避する。

「大体、その白尽くめの姿は何? それってやっぱり、あいつを意識しているから? なんで貴方は――あんなやつにそこまで拘るのよ?」

 クロウゼの答えは、分かり切っていた。

「それは――私が彼女を愛しているからに決まっている。彼女ほど素晴らしい人は居らず、彼女以上に私を変えた人間はいない。私は彼女に出逢った事で――この上なく救われたのさ」

 三度放たれる黒き槍。ソレは容赦なくカクラの心臓へと向かい、彼女はソレを躱そうとしない。カクラは手にしたナイフを投げて、槍の先端に命中させ、その軌道をずらす。だが、軌道をずらしきれなかった槍は、やはりカクラに腕を掠めていた。

「それってつまり……あいつが敵ならとても殺意は湧かないって事? 私は殺せても、あいつは殺せないって言うの……?」

 クロウゼの返事は、いかにも酷薄だ。

「彼女を殺すよりは、抵抗が無いのは確かかな? いや、そもそも私達に彼女は殺せまい。私が殺せるとすれば――それは君達ぐらいだ」

 黒い槍が、四度放たれる。ソレをやはり投擲したナイフで、軌道をずらして防ぐカクラ。だが軌道をずらし切れなかった槍は、やはりカクラの腕の肉を抉っていく。

 既に満身創痍であるカクラは大きく息を吐いた。

「……そう言えば、まだ私の最終目標を言っていなかったわね。それはあの女を――『勇者』と名乗るあの怪物を打倒する事よ――!」

 言いつつ――カクラは力を込めてナイフを投擲した。


     ◇


 クロウゼとカクラが死闘を繰り広げる戦場から五百メートル離れた場所にはマイナム達が居た。インデルカ・ヤルカとマイナム・パイスンは十メートルほど間合いをとって対峙する。

 最初に口を開いたのは、今日も軽装であるインデルカだ。

「こうして戦うのは、二度目になるわね。噂は聞いているわよ、パイスン子爵。なんでもネルガ・テイゼと、ゴルディウム・シトラを一騎打ちで屠ったとか。でも、正直驚きだわ。まさかあなた程度の使い手に、オリハルト三騎衆が敗れるなんて。どうやらオリハルト三騎衆といっても、たかが知れていたようね。それなら私が彼等を討ち取って、名をあげたかった」

 手にした矛を構える、インデルカ。ソレを耳にして、マイナムは初めて恐怖以外の感情を彼女に抱く。

「――冗談。あの二人はその名に恥じない、強く、高潔な騎士だった。今の暴言は取り消してもらおうか――インデルカ・ヤルカ」

 抜刀したマイナムが、ロングソードを構える。ただ今日の彼は、装備が違っていた。普段は軽装で戦に臨むマイナムだが、今は鎧を纏い、巨大な盾を携えている。それをインデルカに向けながら、マイナムは大きく息を吐く。

「へえ? 私に対する恐怖を拭いきれないあなたが、そう言い切るの? 確かにその二人は、あなたに何らかの影響を与えているみたいね。あなたは今、その二人を侮辱されて怒りを感じている。その怒りを胸に抱きながら死ぬまで踊り狂いなさい――パイスン子爵」

 地を蹴る、インデルカ。ソレを迎え撃つ、マイナム。彼はインデルカの矛を盾で受けながら一歩踏み出す。

 彼はロングソードを薙ぎ払うが、インデルカはソレを事もなく回避していた。だがソレは並みの剣士には不可能な動きだ。今のは、正に野生の獣でさえ一撃で葬りさるだけの一撃。ソレを造作もなく避けてみせたインデルカとは、一体何者か? 

 マイナムにはそう言った邪念が過り、インデルカは嬉々とする。彼女はマイナムの颶風とも思える攻撃を避けながら、こう告げた。

「そうね。では、少しつまらない話でもしましょうか。なぜ私がクロウゼ・ヴァーゼを相棒に選んだか。それは彼が――この私を捕えてみせたからよ」

 然り。貧しい田舎から都会にやって来た彼女には、活動資金がなかった。そのため食い逃げや、畑の作物を持ち逃げして彼女は食い繋いでいたのだ。クロウゼは、そんな彼女を貴族の依頼を受けて捕獲した。ソレは凡そ不可能とも思える事だったが、彼はその不可能を可能にしたのだ。

 その時――インデルカは初めて他人に興味を持った。

「そう。私を捕えるなんて神技は、誰にも出来ない筈だった。それを成し遂げた時、私は初めて他人に対して悦を覚えたのよ。ああ、こういう人間も居るのかと言った感じで」

 尚もマイナムの攻撃を避けながら、インデルカは微笑む。その微笑に怖気を覚えながら、マイナムは攻撃を繰り返す。

(確かに彼女の回避力は凄まじい。本当にこれほど並はずれた女傑を、あの男が捕えたと?)

 けれど、その回避能力はゴルディウムのソレとは何かが違っている。彼は反射で全ての攻撃を見切っていたが、インデルカの回避能力は或いは次元そのものが違う。

 マイナムはそう直感して、インデルカは矛を突き出す。ソレをやはり巨大な盾で受け止めながら、マイナムは攻防一体の業を為す。インデルカの矛を受けつつ剣を突き出し、彼女の頸動脈を狙う。

 軽装である彼女がこの一撃を食らえば、間違いなく仕留められるだろう。正に、達人の域に達した攻撃。

 しかしインデルカは、鼻で笑いながらマイナムの攻撃を避ける余裕があった。息を呑むマイナムを余所に、彼女はそのまま一気に間合いをとる。

 再び十メートルほども離れ、あろう事かインデルカは矛を捨てた。

「なぜ私がこうもあなたの攻撃を避けられるか、疑問に思っている顔ね?」

「………」

 内心ではそう思いながらも、マイナムは頷く事なく盾を構える。いや、現在二人の戦力はほぼ互角と言って良い。

 確かにマイナムの攻撃は、インデルカに当らない。けれどインデルカの攻撃も、またマイナムに掠りもしないのだ。両者の力量は拮抗していて、クロウゼとカクラほどの差は無い。

(ならば、このまま押し切るのみ。装備は此方の方が上。いざとなればこの鎧を盾にして、相討ち狙いで彼女の心臓を狙う)

 そうなれば、インデルカの攻撃はその鎧で防がれ、マイナムの剣は軽装である彼女の胸部を貫く。ソレは正に、立場は逆だがゴルディウム戦の焼き直しと言って良い戦力差だ。

 聴覚で〝物を視る〟マイナムは、インデルカの攻撃を全て防ぎ切る自信があった。

 けれど、インデルカ・ヤルカはこう告げる。

「そう。そもそも私とあなた達では、見ている景色が違うのよ。――これだけの速度で動ける私には、本来誰も追いつけない」

「……な、にっ?」

 その時、マイナムはインデルカから感じていた畏怖の正体を知る。インデルカは腰にさしていた剣を抜き、ソレを構えて、再び地を蹴る。その時、マイナムは呆然とした。

(まさか――〝視えない〟っ?)

 視覚よりはやく彼に情報を与えてくれる聴覚が、役に立たない。それもその筈か。何故ならインデルカ・ヤルカは――いま音速で動いているのだから。時速約千二百キロで移動するその人型は――紛れもなく生きた弾丸だった。

「ぎっ……ぐぅ――っ!」

 ならば、その一撃さえ盾で防いでみせるマイナム・パイスンとは何者か? 彼はインデルカが地を蹴った瞬間、防御にのみ集中して、盾を手にした腕に力を込める。

 結果、その盾は上部が両断される事になったが、彼は何とかインデルカの一撃を躱していた。

「――何だ、今の動きはっ? 君は本当に人間か――っ?」

「へえ? 盾が両断されるタイミングで頭を倒して、私の一撃を避けてみせたか。そっちこそ本当に人間?」

 マイナムは盾と剣が衝突した音を頼りにして、ギリギリの所でインデルカの攻撃を躱す。それもまた人間業ではないと認めるが故に、インデルカは前言を撤回する。

「ええ。私は見誤っていた。〝あなた程度〟と言ったアレは撤回する。アナタは大した使い手だわ――マイナム・パイスン子爵」

 再び、インデルカが剣を構える。

 ソレを見て、マイナムは勝機という物を完全に見失っていた。

「……待て。人間が、音と同じ速さで動ける筈が無い。それこそ本当に人間離れした化物だ。なぜ君は、そんなバカげた真似が出来る――っ?」

 インデルカの答えは、シレっとした物だった。

「それは簡単。私は単に、物心がついた時から馬と一緒に大地を駆け回っていただけ。私の師はイカれた人でね。初めは足が遅い子馬の体にヒモをつけて、ソレを私に繋いで、その馬と一緒に走らされた訳。やがてその馬より私の方が、足が速くなったら、更に足が速い馬にひきずられる形で私は走らされた。そんな事を十八年も続けている間に、私の足はみるみる速くなっていったわ。時速三百キロで走る馬さえ追い抜く様になって、一秒未満なら音にさえ追いつけるようになった。私がアナタ達の攻撃を避けられるのは、その為。私の感覚器官とアナタ達の感覚器官では――そもそもレベルその物が違いすぎるの」

「なっ――はっ?」

 マイナムがその意味を理解する前に――生きた弾丸であるインデルカはまたも地を蹴った。


     ◇


 迫る、インデルカという名の生きた凶器。何も知覚できないマイナムは、ただ盾を正面に構えて彼女の到来を待つしかない。

 やがてインデルカの剣と、マイナムの盾は再び衝突し、凄まじい衝撃音を発する。その音だけを頼りにして、マイナムは首を横に倒し、盾を貫通してきたインデルカの剣を避ける。

 それから彼は逃げる様に後退して、乱れに乱れる呼吸を整えた。

(――化物だっ! ゴルディウムやネルガも怪物だったが――彼女は度を越えているっ!)

 正直言えば、今も自分が生きている事が不思議な位だ。疾うに心臓か頭を串刺しにされている筈の彼は、今も紙一重の所で生き長らえる。ソレを見て、インデルカは喜悦した。

「私の一撃を受けて生存している人間は、今まで居なかった。なのにアナタは二度も私の必殺を躱している。本当に見くびっていたわ。或いは、アナタはクロウゼに次ぐ怪物なのかもしれない」

「………」

 が、今のマイナムには、彼女の軽口に答える余裕は無い。彼はオリハルト三騎衆と戦った時でさえ感じなかった、死の恐怖を感じていた。

 それも当然か。

 誰が音速で動く事が出来る人間に勝てると言うのか? インデルカの能力は人を大きく超越していて、既に彼女は人間では無いとさえ言える。

 そう痛感した時、マイナム・パイスンは初めて戦場から逃げ出したいと思った。

(……ああ。できれば、本当に逃げ出したい。だが、俺がこの場から逃げれば――インデルカの標的はカクラに変わる。そうなれば、カクラは間違いなく殺されるだろう。それだけは――絶対に避けなければ)

 今となっては、カクラあってのセイリオ軍である。彼女が居なければ、そもそも自分は途方に暮れるばかりだっただろう。味方はヘイゲンだけで、エイジア達を仲間にする事さえ出来なかった。兵糧も集められず、セイリオを救出する事も出来なくて、兵も集められなかった。

 だがその状況を覆し、今日までの道筋を示してくれたのは、皆あのカクラ・ハヤミテなのだ。彼女が居なければ、自分は未だに何一つなし得ないまま野に埋もれていたに違いない。

 カクラはマイナムを雇主だと立ててくれたが、彼にとって本物の英雄とはカクラ・ハヤミテだった。

(なら――絶対に彼女を死なせる訳にはいかないよな、マイナム・パイスン)

「へ、え? アナタ、この状況で笑うわけ? それは、ただ開き直ったから? それとも、何か策でもあって?」

 マイナムは、平然と答える。

「もちろん前者だ。俺には君に勝つ手段という物が、皆目見当がつかない。だが、一つだけ分かった事がある。君はその業を使った後、動きを止めなくてはならない。何故ならソレが君の肉体的限界だから。音速で動くという事は、それだけ体に負荷がかかる。その為、例え僅かでも体を休めなければ、君の肉体は相応のダメージを受けるのだろう。今も連続して俺に件の業を使ってこないのは、恐らくその為」

 ソレを聴いて、インデルカはキョトンとする。

「さすが、オリハルト三騎衆を倒しただけの事はある。大した洞察力だわ。その事を見破ったのは、今までクロウゼだけだった。彼は私が休息をとる一瞬の隙をついて、とりもちを使い私を捕えてみせた。その時、私は迂闊にも感動してしまったのよ。私の非常識とも言える力を、彼は人の業を使ってやぶってみせた。人の英知とはそこまで大した物かと、私は思わず歓喜したの。でも、アナタはきっとそこまでだわ、パイスン子爵。アナタには、クロウゼの様な芸当は決して出来ない」

 そう。あの時、彼女は確かに感動した。自分という化物を、ただの人間である彼は、人の最大の武器である知恵を使って制したのだ。

 言わば自分と言う獣は、力で劣る人間に敗れたという事。獣の獰猛さを、人の英知が上回った。そう痛感した時、彼女は自分を使いこなせるのは彼だけだと思った。彼だけが、自分を最期まで英雄にしてくれる。彼ならきっと十倍の戦力差さえ撥ね退けて勝利し、彼女をその勝利の立役者にしてくれるだろう。

 英雄になる事をユメ見て都会にまでやって来た彼女は、だからこそ彼を、クロウゼ・ヴァーゼを相棒に選んだ。

 そんな自分達が――こんな所で負けられる筈がないではないか。

(そう。故に、私は勝つ。パイスン子爵に勝ち、カクラ・ハヤミテに勝ち、セイリオ・ニルバルカを討ち取って完全勝利を遂げる。その時、私とクロウゼの名は歴史に残り、英雄ともてはやされる事になるの。本当に分かっている? 私はともかく、貴方はそれだけの器なのよ、クロウゼ)

 よってインデルカは剣を構え直し、マイナムの心臓に狙いをつける。きっと今度こそ殺されると思いながらも、マイナムは盾を構えて、まなじりを決した。

 いや、彼は自分に勝ち目は無いと言ったが、一つだけ勝機はあるのだ。ただ、本当にソレが出来るのか、彼には全くわからない。

(だが――やるしかない。俺の敗北がカクラの死に直結しているなら――俺は勝利する以外道は無いのだから)

 ついで――両雄最後の激突が始まる。

 インデルカは三度地を蹴り、音速を維持したままマイナムに接近する。ソレを知覚する術を持たないマイナムは、ただの直感で盾を構える。彼女の突進力を前にしては、一瞬の隙を衝く事さえ不可能だ。体を休める間に攻撃を繰り出せば、恐らく無理に体を動かした彼女のカウンターを食らうだろう。

 つまり常識的に考えるなら、マイナムには勝機など皆無という事。

 よって――彼は些か非常識な手を使う事にした。

「ぐっ……ちぃ……っ!」

 三度、ボロボロになったマイナムの盾にインデルカの剣が衝突する。仮にここでマイナムが剣を突き出しても、彼女は余裕で彼の攻撃を回避するだろう。マイナムが幾ら攻撃しても、インデルカの回避能力には決して敵わない。

 だが――そこに一つだけ盲点があった。

 マイナム・パイスンは剣で地面を擦り、ある音を発てて、ソレをインデルカに浴びせる。音速で動ける彼女も、音だけでは躱せないから。だが、ソレが一体なんだと言うのか? インデルカが眉をひそめた時――ソレは起きた。

「な、に――っ?」

 一瞬、彼女の心臓が鼓動を止める。

 その不調が彼女の動きを止め、マイナムとインデルカは吼えた。

「インデルカ――ヤルカっ!」

「マイナム――パイスンっ!」

 それは――共振という現象だった。主な例を挙げると、声の音波だけでガラスのグラスを割る現象だ。ガラスの固有振動に外力の振動を一致させ、グラスを破壊する現象。声の音波だけでグラスを割るソレは、だからオカルトと思われがちである。

 だが、どうも科学的な根拠もあるらしい。前述通りグラスの固有振動に外力の振動――即ち音波を一致させればグラスは割れる。

 なら、仮にインデルカの心臓の固有振動さえわかっていれば、同じ事が可能なのでは? 音を視る事が出来るマイナムなら、インデルカの心臓の固有振動を解析できる。その固有振動に外力の振動――つまり何らかの音波を一致させればインデルカの心臓は僅かな間停止する。

 要するにマイナム・パイスンは――〝音でインデルカ・ヤルカの心臓を刺した〟のだ。

 インデルカの剣は彼の頬を掠めるが、その隙を衝き――マイナムはインデルカの右胸部に剣を突き立てる。ここに両者の戦いは決着し――彼女は呟く様に告げた。

「負けた……? この私が、こんな所で、負けると言うの? そう。そうだった。結局、彼は私を見てくれなかった。彼が何時だって見ていたのは、私以外の、誰か。私は、ソレが、悔しくて、悔しくて、しかたがなかった。私にとって彼は相棒でも、彼にとって私はただの同僚でしかなかったのよ……」

 だが、今も震える手で剣を掴むマイナムは、首を横に振る。

「いや、それはきっと違う。貴女はきっと、彼の英雄だ。例え誰が何と言おうと――インデルカ・ヤルカはクロウゼ・ヴァーゼの英雄なんだ。だから貴女は――どうか胸を張って」

 そして、インデルカは心から微笑んだ。

「……それは、貴方の英雄がカクラ・ハヤミテだから? 貴方だけは、私の気持ちを分かってくれるとでも言うの? だとしたら、これほど皮肉な話はないわ。私のユメを摘み取った大敵だけが、私の気持ちを分かってくれるというのだから……」

 それから、三歩後ろに後退したインデルカ・ヤルカは地面に倒れ伏す。

 ソレを見届け――マイナム・パイスンは瞳に涙をにじませた。


     ◇


 自分に向かい、突き進むカクラのナイフ。けれど、ソレをクロウゼは事もなく躱す。やはりカクラの業はクロウゼに見切られていて、彼女は彼を傷付ける事さえ出来ない。

 この圧倒的な戦力差を前にして、カクラは僅かに呼吸を乱す。

 だが、彼女は今も馬を走らせながら、彼に問い掛ける。

「……最後に一つだけ教えて、クロウゼ。貴方はなぜ、あの戦から手を引いたの? あいつはなぜ貴方にあの戦から身を引くよう、指示を出した? 貴方達が彼等を見捨てなければ、彼等は死なずにすんだのに……」

 そう。全ての発端は、五年前に遡る。クロウゼ・ヴァーゼは、ある戦争に関与した。それは小規模な国内紛争で、貴族と貴族の権力争いである。

 彼は劣勢だった貴族に味方し、その奇策を以て戦況を有利に進めて、やがて形成を逆転させた。だが、クロウゼはその貴族が勝利し切る前にその戦から手を引いたのだ。

 結果、その貴族は最後の詰めを誤り、敗北する事になる。仮にクロウゼがあのまま参戦していたなら、間違いなくその貴族は勝利していただろう。

 もしそうなっていれば、自分はこうも道を踏み外す事はなかった。カクラ・ハヤミテは彼等と言う敗者の末路を見て――勝利こそが全てだと認識したのだから。

 彼等が無残な最期さえ遂げなければ、自分はここまで極端な偏りは見せなかっただろう。

「そうか。やはり君は知っていたんだね。あの貴族が、フェルグ・ヒグマンが――君の本当の父親であると。だが、彼は君を身籠った君の母親を認知もせずに、屋敷から追放した男だ。そんな彼に、君は人としての情を感じるのか?」

「それはわからない。でも、それでも彼は私の父親だった。あいつがそう教えてくれた。だからクロウゼなら彼を助けてくれると言っていたのに、貴方達は彼を見放した。その所為で彼の一族は皆殺しにあって、私は分からなくなった。今まで私を助けてくれた、あいつや貴方がわからなくなった。その所為で私は貴方さえも憎む様になって、あいつにも怒りを感じている。もう私にはそんな資格さえ無い筈なのに、どうしてもこの気持ちは消えてくれないの。この苦しみから逃れるには、貴方達を倒すしかない。だから、私は貴方達を倒さないと」

 その告白を聴いて、クロウゼは表情を消す。彼は彼女に、思わぬ事を告げた。

「それは、その感情は、今も君が私達を家族だと認めている証拠だ。私達を家族だと認めるが故に、君は私達に甘えている。駄々っ子のように駄々をこねて、私達に怒りをぶつけているのだろう。だが、私はいいから彼女はもう許してあげて欲しい。君も本当は心の何処かで、そう望んでいる筈だ」

「………」

 そう訴えるクロウゼだが、攻撃の手は緩めない。彼は五度目の攻撃を為し、その槍をギリギリの所で躱したカクラは、脇腹から流血する。カクラは反射的にナイフを投擲して、クロウゼはソレを悠然と避ける。

 両者の実力差はやはり歴然としていて、カクラには勝ち目という物がない。この絶対的な力の差を前にして、カクラは眉根を歪める。

「……確かに、そうかもしれない。私は私情を以て、今まで貴方と戦ってきた。けど――ここから先は別よ。私はマイナム・パイスンに雇われた軍師として――自軍を勝利に導く義務がある。その為の唯一の策が、貴方を倒す事。だから、最後に一度だけ言うわ。降伏して、クロウゼ。私はやっぱり……貴方を殺したくない」

「だから――その言い草が私情にまみれているというんだ、カクラ」

 再び口角を上げながら、クロウゼが吼える。彼は渾身の力を込めて黒い槍を投擲し、カクラはナイフを投擲して、槍の先端にぶつけ、その軌道をズラす。が、軌道をズラしきれなかった槍が、カクラの肩を抉っていく。

 ここまでやり合い、カクラは血まみれになって、もう一度だけ大きく息を吐いた。

「君は私を倒さなければ自軍を壊滅させられる。私は君を倒さなければ自軍を滅ぼされる。これはただそれだけの事だろう? それとも君は、そんな無残な未来を受け入れるつもりか?」

 その時――カクラの脳裏には自分の父の末路が過る。あの悲惨な最期をマイナムやセイリオに当てはめた時、彼女は心底から吼えた。

「クロウゼ――ヴァーゼっ!」

「カクラ――ハヤミテ!」

 そしてカクラは、奥の手を使う。彼女は渾身の力を込めてナイフを投擲する。ソレを目撃した時、クロウゼは目を見張った。

 何故なら彼女が投げたナイフの速度は、今まで以上の物だったから。時速三百キロと言う速度に慣れきっていたクロウゼには、その一撃は躱せない。彼は躱すのではなく、手にした槍でナイフを防ぐ。時速三百キロの速度に慣れきった所で、それ以上の速度でナイフを投擲し、彼を仕留める。

 そう計画していたカクラの計算は、ここで狂う。

 だが――彼女は尚も吼えた。

「おおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉ………っ!」

「くっ――つっ?」

 カクラはナイフを連続して投擲し、クロウゼの槍に刺さったナイフの柄にぶつけていく。その勢いに押されてナイフは槍にめり込み、やがて槍を両断して――クロウゼの胸部に刺さる。その様を見て、クロウゼは喜悦した。

「これで終わりよ……クロウゼ・ヴァーゼ」

 そうして最後の一刀は放たれ――彼女のナイフはクロウゼの胸に深々と刺さったのだ。


     ◇


 メグマが足を止め、クロウゼがメグマから落下する。ソレを見届けてから、カクラはバイケルからおりて、彼に近寄った。クロウゼは、囁く様に告げる。

「これは、師には決して言うなと言われたのだけどね。師が私にフェルグ・ヒグマンから手を引けと指示を出したと言うのは、嘘だ。私がフェルグから手を引いたのは、私のミスなんだ。私は戦況を見誤り、彼を死なせた。師はそんな私を庇っただけ。だから、私はこうしていたのかもしれない。君と同じ戦場で対峙し続ければ、何れ君は私を討つ好機に恵まれる。或いは、私はそう思ってカクラと戦っていたのかも。君に〝勝利〟という呪縛を与えたのは、他ならぬ私だから」

「……クロウ、ゼ」

「その所為で、君はもう引き返せない所まで、来てしまった。その所為で、私は君を見送るしかない。――本当に、すまなかったね」

 それから彼女は膝を折って屈み、サイゴに問うた。

「……ねえ、クロウゼ。今でもあいつを、孤児だった私達を育ててくれたあの彼女を、愛している……?」

「どうかな? 確かに私は彼女を愛しているけど、彼女はその気持ちに応えてはくれないだろう。だから、私は今から宗旨替えをしようと、思う。もしインデルカに会ったら、こう伝えてくれ。私の英雄は――君だけだったと」

「……そう。やっぱり貴方は私の事を、家族としてしか見てくれないのね……?」

 精一杯の強がりを込め、カクラは微笑む。冷徹である筈の彼女は、彼等の前ではただの少女だった。彼女は今――そんな自分を心から実感したのだ。

「ああ。残念ながら、きみは、わたしにとって……さいあいのいもうとだった」

 慈しむ様に彼女の頬に手を添えてから、彼の手は地面に落ちる。

 その様を見て――彼女は涙する子供の様に顔を歪めたのだ。


     7


 戦いは、終わった。

 カクラはクロウゼの体からナイフを引きぬくと、そのままメグマの背に乗せて、メグマを彼方に走らせる。奇しくも、マイナムもまたインデルカに対して同じ処置をする。インデルカを乗せ、彼方に向け走る馬を見送った後、マイナムはカクラと合流した。

 彼は血だらけになったカクラを見て息を呑み、カクラは五体無事なマイナムを見て安堵する。マイナムは彼女の頬が濡れている事に気付いて、全てを察した。

「……彼の事が、好きだったのか、カクラは?」

「ええ――初恋の相手でした」

 それだけ告げ、カクラは踵を返す。

 二人は馬に乗って戦場に戻り、声を張り上げてこう謳う。

「あなた達が頼りにしているクロウゼ・ヴァーゼとインデルカ・ヤルカはあなた達を見捨てて逃亡したわ! これ以上の戦いはただ無駄に命を損なうだけ! 降伏なさい、クロウゼ軍! あなた達の戦いは――もう終わったの!」

「――なっ?」

 戦場を馬で駆け巡りながら、カクラは訴える。けれど、クロウゼ軍の一人はこう告げた。

「う、嘘だ! クロウゼ殿達が我等を見捨てる筈ない! あの人達は落とし穴を掘る時も、自分達も土に汚れながら俺達と一緒にその作業に従事した! 他の将軍達はただ命令するだけなのに、あの人達は俺達と同じ目線に立ってくれた! そんな人達が――俺達を見捨てる筈がない!」

 が、カクラは眉根を歪めながら首を横に振る。

「いえ、事実よ。現に私達は戦場に戻ってきて、彼等は戻ってこなかった。それがあなた達の現実です」

「………」

 しかし、そこでセイリオが馬を走らせてかけつけてくる。

 彼女は鬼気迫る表情で、カクラに詰め寄った。

「なぜ勝手に降伏勧告をしているの、アナタは? 彼等は私の味方を、五万人以上殺したのよ? 彼等には相応の罰をくださなければならない。この戦で彼等は全滅させる。でなければ死んでいってあの人達が余りに報われないわ」

 けれど、カクラはもう一度首を横に振る。

「いえ、陛下、ソレは私達も同じです。私達は既に、サイバリオン派の兵を十一万人虐殺している。彼等もまた、私達と同じ無念を背負っているのです。ですが、戦況がここまで進めば、残った敵はサイバリオンのみ。今その兵達を手に掛けても、それは余りに無益という物です。戦で誰かが死ぬのは、変え難い宿命と言って良いでしょう。ですが、一つだけその業を断ち切る方法があります。その因果を断ち切れるのは、勝者の慈悲以外ないのです。陛下が彼等に慈悲をかければ、これ以上の悲劇は起きません。逆に陛下が徹底抗戦をお望みなら、彼等は死に物狂いで戦い、味方にも相応の被害が出るでしょう。そんな悲惨な状況を変えられるのは、陛下以外居ないのです」

「………」

 バイケルからおり、片膝を地面につけて、頭を下げてカクラは皇帝に直訴する。マイナムもそれに倣い、彼も頭を下げる。その光景を見て、セイリオは深く息を吐いた。

「本当に、貴女は冷酷なのか慈悲深いのか分からない人だわ、カクラ。……でも、私はそんな貴女に何時だって救われてきた。その働きに酬いる為にも、一度だけ私も敵に慈悲をかける事にしましょう。――いいわ。彼等が降伏すると言うなら、私は彼等を一切咎めません」

「ありがとうございます――陛下」

 もう一度深く頭を下げ、カクラは心から皇帝に礼を尽くす。ソレから直ぐにバイケルを駆って、彼女は降伏勧告を続けた。

 その努力はやがて実を結び――クロウゼ軍五万はセイリオ軍に降伏したのだ。


     ◇


 それからしばらくして、その一報は届いた。何とサイバリオンは――イスカダルをセイリオ軍に引き渡すと言うのだ。イスカダルの使者はそう告げて、彼は尚も続けた。

「はい。その代りサイバリオン陛下は、カクラ・ハヤミテとマイナム・パイスン子爵との面会をお望みです。その両名との面会が終わり次第、イスカダルはセイリオ様に譲渡するとの事」

 名指しされた両名としては、正に寝耳に水の話だ。なぜ自分達がサイバリオンと面会しなければならないのか、カクラでさえ分からない。

 しかし、その条件で平和的にイスカダルが開城されるなら、カクラ達に断る理由は無い。最悪、なにかの罠だったとしても、セイリオさえ無事ならイスカダルは必ず落せるだろう。

 カクラはそう判断して、マイナムの意見を求める。彼の答えは、決まっていた。

「君が行くなら、俺が行かない訳にはいかないだろう。君は知らなかったらしいが、俺はこれでもセイリオ軍の軍師を守る護衛官のつもりだったんだから」

 こうして二人は揃ってイスカダルに向かい、サイバリオンと面会する事になる。その道中、カクラはマイナムに告げる。

「マイナム様。もう伝えるべき本人が居ないので、あなたに伝えておきます。クロウゼ・ヴァーゼにとって英雄と呼べるのは、インデルカ・ヤルカだけだと彼は言っていました。その事を彼女に伝えて欲しいと、彼はサイゴに告げていた」

「………」

 ソレを聴いて、言葉を失うマイナムだったが、彼は直ぐに微笑んだ。

「そうか。なら――本当に良かった」

 それだけ言って、彼等は謁見の間に入る。

 そこで待ち構えていたのは――彼等がよく知っている顔だった。


     ◇


「やはりイルザ・トルトの正体は、あなただったのですね――サイバリオン・ニルバルカ」

 王座に座る彼と顔を合わせた時、カクラはそう納得し、サイバリオンは微笑する。

「セイリオ殿から、私の容姿をききましたか? それとも、あなたはソレを自力で見抜いていた?」

「答えは前者です。私もまさか皇帝が王宮から離れて単独行動をとっているとは、夢にも思わなかった。それで、私達に何の用でしょう? あなたは何をしたくて私達を招いたのです?」

 彼の答えは、要領を得ない。

「少し意外ですね。パイスン子爵は私の顔を見た途端、斬りかかってくると思ったのですが。思いの外、冷静だ」

「ああ、俺もそのつもりだったさ。だが、何故だろうな? 今は、そんな気になれない」

 それからサイバリオンは、もう一度微笑む。

「ソレはきっと、ゴルディウム将軍達のお蔭でしょうね。自分の復讐の為に見知らぬ他人を斬ったあなたは、その事に罪の意識を感じている。自分が行動を起こさなければ、彼等は死なずにすんだ。なら、自分も半ば私と同類だ。無意識にそう思っているからこそ、あなたはこうも冷静でいられる。それで――復讐を果たした気分はどんな感じですか、パイスン子爵?」

 ――復讐。確かに自分はその為に、皇帝に反旗を翻した。全ては、自分が皇帝を打倒する為に起きた事と言って良い。彼もまた、ミストリアの村々と同じ目にあったから。

 ニルバルカの田舎貴族だったパイスン家は、キクネウスを支持していた。真っ当な見識を持ち、賄賂を嫌った彼の父は、サイバリオンを悪だと思っていたから。

 彼の父は率先してキクネウスを支持すると表明し、キクネウスと共に政権争いを起こしたが、結果は無残な物だった。

 キクネウスはサイバリオンに暗殺され、皇帝になったサイバリオンは彼の父に目をつけた。領地を没収すると一方的に通達され、彼の父は徹底抗戦すると決めたのだ。

 しかし、彼の父はサイバリオンを見くびっていた。例え自分は罰しようとも領地の民衆にまでは手を出さないと思っていたのだ。

 だが彼がヘイゲンと共に所用で隣町に行っている間に、その惨劇は起きた。彼の領地の人々は――尽く何者かに虐殺され、完全に滅ぼされていたのだ。

 彼が自身の家に辿り着いた頃には彼の父は既に物言わぬ屍と化していた。彼の父は彼に何も言い残す事なくこの世を去り、その虚しさが彼の心を貫いた。

 父を慕ってくれた領民を全て殺されて、彼は生まれて初めて他人を憎んだ。

 この常軌を逸した蛮行を前にして――彼は復讐を誓ったのだ。

「そうだな。巷では、野党の仕業だと噂されていた。けど、あのタイミングで父の領地を襲う者がいるとすれば、それはおまえだけなんだ。おまえは自分の意に沿わなかったという理由だけで、父だけでなくその領民も殺した。そう直感した時、俺は初めて他人に殺意を覚えた。必ずこの件の首謀者に鉄槌を下すと誓ったんだ。なのに、何故か、今はそんな自分が虚しく感じる。一体何故だろうと自問してみて、直ぐに理由は分かったよ。結局、俺もおまえと変わらない。おまえが言う通り、俺は多くの死ななくていい人達を殺してきた。俺が行動さえ起こさなければ、彼等は今も人生を謳歌していただろう。そんな些細な幸せを踏みにじって、俺は今おまえの前に立っている。これほど虚しい話が、他にあるか? おまえという巨悪を憎んでいた筈の俺は、おまえに近づく度におまえの様にこの手を汚してきた。俺はおまえと同じ真似をしただけで、ただ多くの血を流してきた。だから、俺はインデルカを斬った時、泣いたよ。こんなはずじゃなかったと思って、領民を失ったとき以来、初めて泣いた。これが復讐という行為の正体かと痛感して、俺は泣く事しか出来なかった。その気持ちはおまえには分かるまい、サイバリオン・ニルバルカ――!」

 が、カクラは首を横に振る。

「ですがあなたが行動を起こさなければ、あの日あなたが私の家を訪ねなければ、もっと多くの血が流れていました。その証拠は、コルファの村。ケイリオ教徒の村だった彼の故郷を襲ったのもあなたですね、サイバリオン?」

 彼はやはり笑みを浮かべながら、頷く。

「ええ、そう。ケイリオ教徒の村がどれだけ金銭を貯蓄しているか知りたかった私は、彼等の村を襲撃した。村民をみな某所に連行して、その財産を没収したのです。本当にケイリオ教徒とはたくましい。彼等の財産は、私の予想を上回る物でした。彼等にはその後、みな死んでもらいましたがどうやら生き残りが居た様ですね。あなたの言い様から察するに、あなたはその人物を保護したのでは?」

 カクラは答えないが、ソレは事実だ。コルファ・トリアは、不審者が村の様子を窺っているとカクラに相談した。だが、自分を雇ったカシャンに従って行軍中だったカクラは、その事をなおざりにせざるを得なかった。

 結果、コルファの村の人々はある日連れ去られ、孤児だったコルファだけが、その村から逃げ出したのだ。彼はいい加減な対応をしたカクラを頼るしか無く、彼から事情を聴いたカクラは愕然とする。

 その後彼女は考えに考えて、その手際から皇帝が関与していると推理した。あの皇帝を放置すれば、多くのケイリオ教徒が迫害を受け、多くの死者を生む。コルファの村の様な悲劇が、繰り返される事になるかもしれない。

 けれど、そう考えながらも、彼女は行動を起こせなかった。自分が行動を起こせばコルファの身に危険が及ぶ可能性があり、加えて彼女にはもう一つ事情があったから。彼女は、自分が皇帝を倒す為に動けばどうなるか、熟知していたのだ。

「でも、私には分からない事もあった。あなたは何故、こんな事ばかり繰り返したんですか? なぜこんな悲劇を生む事しかしなかった? そんな自分を一度でも間違っていると思った事は無いの、サイバリオン?」

 そうして、彼はやっぱり微笑みながら謳ったのだ。

「ええ、残念ながら無いんですよ。何故なら――私の目的はニルバルカを敵視する者達を生みだす事だったから。私の人生はね、カクラ殿、パイスン子爵、ニルバルカ帝国を滅ぼす為だけにあったんです――」

「――な、にっ?」

 この時――マイナム・パイスンは確かに自分の耳を疑った。


     ◇


「おまえの人生は……ニルバルカを滅ぼす為だけにあった? それは一体何の冗談だ、サイバリオン……?」

「いえ、全て事実です。私が皇帝を目指したのは、全てその為。ニルバルカ帝国を、効率よく滅ぼす為です。というのも他ではありません。私の母の一族は、キース・ニルバルカに国を滅ぼされた者達なんです。キースに国を攻め滅ぼされた私の祖先は、だから地下に潜んで復讐の機会を窺っていた。けれど、ニルバルカは余りにも強大でした。仮にどこかの国が攻め込んでも他国が介入してその国を滅ぼすシステムを持っている。故に彼等も手をこまねいていたのですが、私の母は違っていた。母は外からニルバルカを攻めるより、標的の身内になった方が、仕事がしやすいと考えたのです。幸い母は器量がよく、苦心の末、何とか皇帝の側室になる事が出来た。私を生み、一族の悲願を私に託して、私が皇位に就く事を望んだのです。ならば私がするべき事は一つでしょう。私は皇帝の立場を利用し、数多の不幸を生んできた。そうすればニルバルカに対抗する勢力が現れると考えたから。けれど、露骨にソレをする訳にはいきませんでした。皇帝といってもソレは国を栄えさせるシステムの一部でしかない。その理から外れた真似をすれば、誰かが私を暗殺したでしょう。私は志半ばで死ぬ事になって、母の悲願は果たされない。だから私は国に利益がもたらされる形で、悲劇を生む事にしたのです。現に私と癒着する事で多くの貴族や商人達が利益を得て、私を支持する様になったでしょう? 仮にケイリオ教徒から財産を没収して、ソレを貴族達に横流しすれば彼等は喜んで私に尻尾を振った筈です。例え私がケイリオ教徒を何百万人殺そうとも、自分達の利益になるなら傍観する。権力を持つ人間とは、概ねそんな感じだとあなた達も知っている筈です。そして全ては――私の計算通りに進みました。セイリオ殿というエサに食いついたあなた達は、彼女を旗頭にしてニルバルカに反旗を翻した。私は私でそんなあなた達に呼応し、内側からニルバルカを切り崩した。あの将軍達を全て戦場に送った一件も、その為です。ゴルディウム将軍には悪いと思ったのですが、私は私の目的を遂げる為に――ああするしかなかった」

「……なっ、は――っ?」

 よって、マイナムは震える声で、こう言うしかない。

「……じゃあ、俺達はおまえの望みを叶える為に、今まで戦ってきたって言うのか? 俺達はおまえの掌で踊っていただけだった? 俺が今日まで奪ってきた命は、皆、おまえの願いを果たす為にあったと、そう言うのか? だとしたら、俺は、今までなんて事を―――」

「そうですね。確かにあなた達は、私の為によく働いてくれました。ですが、ソレを悔やむ事はありませんよ、パイスン子爵。カクラ殿が言う通りあなたが行動を起こさなければ、数年後には数百万ものケイリオ教徒が虐殺されていた筈ですから。それを未然に防いだあなたの功績は、とても無視できた物ではない。そう。私がいくら内側からニルバルカを揺さぶろうとも――あなた達という外敵がいなければニルバルカは滅ぼせなかった」

「………」

 ソレを聴いて呆然とする、マイナム。彼は今心から戦慄し、心底から打ちのめされていた。

 追い討ちをかける様に、サイバリオンは続ける。

「故に帝国の崩壊はあなた達の功績でもあり、大罪でもある。カクラ・ハヤミテ殿、ミストリアの村々の内情を私にリークしたのは――あなたですね?」

「――な、にっ?」

 もう一度愕然としながら、マイナムは横に居るカクラに目を向ける。

 彼女は、無表情で頷いた。

「ええ。全てはあなたを倒す為の大義名分を得るために、した事。実の所、私はパイスン領の悲劇を知っていた。加えてコルファの村であなたがした事を思えば、ミストリアの村々にどんな報復をするかは分かり切っていたわ。あなたは――必ずミストリアの村人達を虐殺してソレを見せしめにすると思っていた。私はソレを利用したつもりになっていたけど、どうやら私は本当にあなたに騙されただけみたいね」

「……カク、ラ」

「そう、そうです、マイナム様。私はミストリアの人々を、間接的に手にかけました。私が彼等を死に追いやったと言っても、過言じゃない。それで得た物が、サイバリオンの望んだ通りの現実だったなんて、本当に誰も救われない」

 だからこそカクラは、ニルバルカの討伐を躊躇った。彼女の考えでは、誰かを犠牲にしない限りニルバルカ帝国を打倒する事は不可能だったから。

「ですが、あなた達がニルバルカを倒す方法はそれしかなかったでしょう。あの悲劇があったから、あなた達は十万もの兵を集める事が出来た。そこまで計算して事を起こしたあなたは、本当に大した軍師です、カクラ殿」

 言ってサイバリオンは立ち上がり、壁まで歩を進めてその壁を叩く。途端、その壁は扉の様に開いて、彼は悠然と告げた。

「私があなた達に言いたかった事は、以上です。後の事は、全てあなた達が対処して下さい」

「後の事、ですって? あなたは、まさか――?」

「はい。先ほど他の国々から預かっていた人質全員を――処刑しました。そうなった以上、他国の王達は怒り狂い、ニルバルカを憎んで滅ぼそうとするでしょう。あなた達は、これからそんな彼等に対応する必要がある。私は本当にニルバルカが滅びるまで、高みの見物をさせてもらいます」

「――ふ、ふざけるな! 今更――おまえを逃がす俺だと思うかっ?」

「どうでしょう? できれば、逃げ切りたい所なのですが」

 言いつつ、サイバリオンは壁に置いてあった容器を足で倒し、油を床に流す。それに火がついたマッチを投げ入れて、謁見の間を火の海にしていた。

 その間にサイバリオンは隠し通路に入り、扉を閉めて内側から鍵をかける。その様を呆然と眺めながら、マイナムは息を呑んだ。

「……なんだ、これは? 俺は復讐を遂げたつもりだったのに、その実、その仇に良い様にされただけだって言うのか? 俺は、本当に、今まで何をしてきた? 多くの人々を殺して、その果てに得た物は、更なる火種だというのか? 俺達はこれから、全ての国を敵に回して、戦わなくてはならない……?」

 そう絶望するマイナムに対し、カクラは跪く。そのまま、彼女は頭を下げた。

「それも全ては、私の力不足が招いた事です。私は最後まで、サイバリオンの思惑を見抜けなかった。そして何より私には、ミストリアの人々を殺戮した大罪がある。こうなった以上は、あなたの手で私を処刑し、せめてもの罪滅ぼしにしてください」

「……なっ?」

「ええ、本当なら『勇者』を倒すまで、私は死ねないと思っていました。でもクロウゼを倒した時、私の中から全ての憎しみは消えました。もう思いのこす事は、何も無い。マイナム様、私が勝利に拘るのは、戦に負けた父が無残な死を遂げたからなんです。一族郎党皆殺しにされた彼の最期を見た時、私は決して誰かに負けてはならないと思った。勝者だけに発言権はあって、全てを支配し、何もかも変える事が出来る。そんな考えが私をつき動かし、ニルバルカに勝つ為にあんな凶行に及んだ。でも、もう良いんです。もう、私の長い旅は終わった。無関係な人達を巻き込んだ時点で、私もあなたが憎んだサイバリオンと一緒です。なら、サイバリオンを討てなかった代りに、私の首を斬ってください。それが、それだけが、貴方の軍師である私の最後の役目です」

「………」

 その時、マイナムの脳裏には、虐殺されたミストリアの人々の姿が過った。彼等がどれほど無念な想いで亡くなっていったか想像した彼は、だから無意識に剣を抜く。半ば呆然としながら彼は剣を振り上げ、今日までの道程に思いを馳せながら、彼は最後にこう告げた。

「それでも……君は俺にとって最高の軍師だった。君は、俺の救世主だったんだ……カクラ」

 対してカクラ・ハヤミテは心から微笑みながら、こう答えた。

「はい。本当に――私の様な女には勿体ないお言葉です、マイナム様」

「………」

 そうしてマイナム・パイスンは――手にした剣を彼女の首目がけて振り下ろしたのだ。


     終章


 それから彼はセイリオに、サイバリオンが逃走した事を報告する。

 ただ彼はカクラがミストリアの件に関与していた事は、話さなかった。同じ様にサイバリオンがニルバルカの滅亡を計画していて、セイリオ軍を利用した事も伝えない。

 理由は単純に、そんな事を説明する度胸が彼にはなかったから。一連の話を聴いて、セイリオは納得した。

「確かに、イスカダルは譲渡すると言っていたけど、自分は投降するとは言っていなかったものね。全くあの叔父らしいやり口だわ。本当に腹立たしいけど、今はイスカダルが無事開城された事を喜ぶ事にしましょう」

 が、彼はその喜びに水をさす様な事を告げる。イスカダルに住んでいた各国の人質が皆サイバリオンに処刑されたと聴いた時、セイリオは愕然とする。

「……は? じゃあ、各国の敵意は、ニルバルカに向けられるという事? 下手をすると、私達は全ての国を敵に回して、戦争をしなければ、ならない?」

 恐らくソレはニルバルカの外交官の手腕によるだろうと、彼は口にする。上手くその外交官達が交渉をすすめれば、或いは戦争は避けられるかもしれない。

 それは可能性が低い未来だったが、彼はそう言うしかなかった。

「……そう。叔父も……とんでもない置き土産を残した物だわ。本当にあの人はお伽噺に出てくるキロ・クレアブルにも似た、最低最悪の疫病神。もしもう一度会う事があったなら、必ずこの手で処断してやる」

 心底から憎々しげにセイリオは謳い、彼はサイゴにもう一つだけ彼女に問うた。

「んん? 叔父の母親について訊きたい? 変な事に興味を持つのね、アナタは。そうね。一度しか会った事がないから詳しくは知らない。ただ、美人は美人だったけど、それ以外に強く印象に残る事はなかったわ。あの人は、極めて普通の人だったと思う。けど、その普通の人だった筈の彼女は、或る日、何故か自殺したらしいわ。それも、実子である叔父の目の前で。……もしかしたら叔父が歪んでしまったのは、その所為なのかもしれないわね。目の前で最愛の母親を失った事が、彼に強すぎる影響を与えた」

 恐らく、ソレは正しい。サイバリオンの母はその身を犠牲にする事でサイバリオンを追い詰め、復讐に駆り立てたのだ。そんなサイバリオンを、彼は一度だけ哀れだと感じた。それから彼は、セイリオの天幕から出ていこうとする。

 そんな彼に、今度は彼女が問うた。

「で、この一大事に――どうしてカクラは姿を見せないの?」

「ええ。本当に……何故でしょう?」

 そう答えながら、彼は淡く微笑んだ。


 外に出て、それから彼は剣を抜き、自身の首に当てる。後はソレを横に引けば、その剣は彼の命脈を断ち切るだろう。彼はどうするべきか考えた後、直ぐに答えを出した。

「そうだな。ここで君と同じ目にあうのは、簡単だ。けれど、ソレは止めておくよ、カクラ。だって、そんな事は無意味なんだし」

 言って、彼は自身の剣を鞘に戻したのだ。その時、背後から聞き慣れた声が響く。

「って、何をしようとしていたんですか、貴方は? 貴方が死のうとして、一体なんになるんです――マイナム様?」

「ああ、そうだな。確かにそれは、本当に意味が無い」

 彼――マイナム・パイスンは、カクラ・ハヤミテに目を向ける。彼はあの時、確かにカクラの首目がけて剣を振り下ろした。

 だがソレは彼女の命を奪う為では無く、あて身を食らわして彼女の意識を奪う為だ。彼は意識を失ったカクラを連れて燃え盛るミルデガル城を後にした。

 意識があったままでは、彼女はあの場に残ると言いかねなかったから、彼はカクラの意識を奪ったのだ。現にカクラは、こう文句を漏らす。

「……で、何で私はまだ生きているんですか、マイナム様?」

「それは、決まっている。君や俺には、まだやるべき事が残っているからだ。仮に各国がニルバルカに対し兵を挙げるなら、ソレに対応しなければならない。本当の事情を知らないセイリオ様を守る責任が俺達にはある。死んでその責任から逃れようとするのは、どう考えても間違っているだろう? 第一、俺も君と同じ罪人だ。俺が君にミストリアの人々を殺させたような物だ。そんな俺に、君を裁く権利は無いよ。でもきっと大丈夫。世の中はそんなに甘くない。何れ俺達を裁く人間が、必ず現れるだろう。それまでは、俺達は俺達にしか出来ない仕事をこなすべきだ。ヘイゲンが言っていたよ。それが本当の――責任のとりかただって」

 そこまでマイナムが真顔で口にすると、カクラは顔をしかめた。

「……もし私が生きているだけでソレを非難する人が現れても、私は生き続けるべきだと、そう言うんですか?」

「ああ。そう非難される事もこみで、罪滅ぼしになる。俺達は一万二千五百人もの何の罪もない人々を、死に追いやった。なら、たった一度死ぬだけで、その罪が全て帳消しになる筈がないだろう? 俺達は誰かが俺達を裁くその日まで、自殺する事だけは許されないのさ」

「………」

 マイナムが苦笑いをすると、カクラは黙然とする。

 だが、ソレも束の間の事で、彼女は直ぐに口を開いた。

「私、思うんです。イルザが言っていた事は、全て本当だったって。彼はサイバリオンという己を心底から嫌っていた。ただその嫌悪を受け入れなければ、自身の目的を果たせなかった。ソレが憎しみを引き継ぐという事。その為に、彼は自分自身を蔑にしてきた。そして、マイナム様もそれは同じなのかもしれない。貴方の中にも、彼の様な復讐心が息づいている。なら、私は貴方がサイバリオンの様な間違いを犯さないよう、見守る責任がある。確かに、私はバカでした。私は貴方が何を成し遂げるか見届ける義務があるのに、ソレを途中で放棄しようとしたのだから」

 ついで、マイナムは心から微笑んだ。

「そうだな。それに俺には――恋をしている女性を手に掛ける趣味は無い」

「……はっ? 今、何て……?」

「さてね。ただ俺の英雄は君だけだって――そう言ったのさ、カクラ・ハヤミテ」

「………」

 が、マイナムはその事はそれ以上何も語らず、カクラもそれ以上追及しない。

 彼女は、話題をガラリと変えた。

「確かに、本当に大変なのはこれからです。何せ『勇者』の弟子は私とクロウゼを除いて、後十五人も居ますから。仮に彼等が各国に雇われたとしたら、ニルバルカが苦戦するのは間違いないでしょう」

「……十五人? 君やクロウゼみたいのが、後十五人も居るのか……? ソレは、確かに大事だ」

 半ば絶望しながら、マイナムは天を仰ぐ。カクラも同意する様に空を見て、これから先の事に思いを馳せる。その一つが、これだった。

「はい。多くの犠牲を生んだニルバルカという名称では体裁が悪いので、国名を変えてみては如何でしょう? 焼石に水かもしれませんが、何らかの効果はあるかもしれません」

 カクラがセイリオに面会してそう進言すると、皇帝は一考した。

「成る程。サイバリオンと共にニルバルカは滅びたと、各国に思わせる事は出来るかもしれないわね。良いわ。では、こうしましょう。ここは私の母の旧姓から拝借して、今後ニルバルカ帝国は――スオン皇国と名称を改めます」

 こうしてニルバルカは滅び、スオン皇国が誕生して、スオン歴元年を迎える。

 この先、何が待っているかは、カクラさえハッキリとは分からない。ただ今の彼女は自ら死ぬ事だけは許されなかった。

 自分が担ぎ上げたセイリオを補佐する責務があるし、マイナムの今後を見守る責任もある。それで自分の大罪が無くなるとは思わないけど、彼女はミストリアがある方角に向け、ただ頭を下げる。何時しかマイナムもソレに加わり、彼はカクラに微笑みかけた。

 その笑顔を見て、カクラは苦笑する。

 彼女は、全てはここから始まるのだと、死より辛い覚悟を決めていた。

「……ええ、見ていて、クロウゼ。私はまだ、貴方の所に行く資格さえないみたいだから」

 かくして長かった序章は終わりを告げ、今スオン戦記が幕を開ける―――。


                スオン戦記・後編・了       


 ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました。

 作中にあるように、どうやら本編はまだ序章らしいです。

 ですが、現時点ではこの先の展開は全く決まっていません。

 もしかしたら、あの人とあの人がさっさと結婚したりするかも?

 セイリオ「いえ、貴女の発言力を高める為にも、さっさとかの子爵殿と結婚しなさいよー」

 みたいな?

 そして、いよいよ長編は次作で一先ず最後となります。

 それはある少女×少女の冒険譚。

 どうぞご期待ください。


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