5-18 憎悪の残骸
<矢吹 涼司>
鼻腔を芳しい香りがくすぐる。
同時に、ひどい頭痛がした。
何だよ、くそ……。
胃がキリキリと締め上げられ、口の中が粘りつく。
呻き声が脳裏を引っ掻き、それで意識が覚醒した。
目の前で、土埃が盛大に舞っていた。
………?
状況が理解できない。
どうやらおれは、仰向けに寝ていたらしい。
身体を起こそうとして、そこでようやく、胸の上の重みに気づいた。
結城……!
すぐ目の前に結城が――いや、真帆がいた。
飛び起きそうになって、ずり落ちてくる華奢な身体を抱き止める。
ぐったりとして意識がない。胸元を染め上げるのは真っ赤な鮮血。脂汗で額にべったり髪を張り付けたまま、苦悶の表情そのままに浅い吐息を繰り返している。
それでも、生きてる……!
むせ返るような血の芳香に、飢餓感が脳天を突き上げる。だけどそれは、ゴミ箱にぶち込む思いで捻じ伏せた。
ちょっとくらい、てめぇはどいてろ……!
一目見て、浅い傷ではないと分かった。放っておいたら、あと少しだって保たないだろう。だけど、今すぐ治療すれば間に合うはず。
死なせてたまるか、こんちきしょうが……!
何があったかは思い出していた。
仁科とやり合って、身動きを封じられたこと。
久瀬に願って、力を解放したこと。
だけど、力を暴走させた後の記憶はなかった。
あのときおれは、突き上げる衝動に全てを任せた。
途端に身体が熱くなり、ドロドロの思考が押し寄せてくる。
壊す殺すあははははぁっ!!
その後のことは、これっぽっちも憶えていない。
それでも、腕の中には真帆がいる。
おれも多分、――おれのままだ。
だからきっと、久瀬がやってくれたんだろう。約束通りに。
チリ、と胸が疼いた。
すでに久瀬の気配はない。今までだったら、ラインを遮断しているときも、遠く離れたときですら、微かに繋がっているような忌々しい存在感があったのに。
今はただ、プツンと途切れたような感覚だけが伝わってくる。
訳の分からない息苦しさが込み上げたが、それは無視した。
今はとにかく、こいつの治療が最優先だ。
真帆をそっと脇に横たえ、自分の身体に爪をあてがう。脇腹の、少し上のあたりだったか。
めり込ませると、微かな痛みと飢餓感が増す。それを無視して、指を動かす。
と、指の先が何か硬いものに触れた。
――そう、これだ。
つまみ出すと、目の前に万年筆サイズの容器が現れた。細長いカプセルのような筒状の容器。この中に納まっているのは、何種類かの治療薬だ。おれ用のじゃなく、人間用の。
いつ何があるか分からないからと、持たされていたものの一つ。まさか、本当にこれに頼る日が来るとは思わなかったが。
ったく、震える手が忌々しい。――そう、確かこれだったはず。
最もキツイ効果と即効性をもつ薬剤を選び出す。
どれも細くて掴みにくいことこの上ないが、ここでミスったら笑えない。上着の残骸で滑った手を拭き、慎重に薬剤を小型の注射器にセットする。
真帆の腕の静脈を探りあて、祈るような気持ちで針を打ち込みんだ、その直後。
真帆の身体がビクンと跳ねた。ついで口から迸り出たのは絶叫だ。まるで身体の奥から搾り出すような。
いやあああぁあっ!
変わってやりたい。けど、出来ない。
だからおれは、真帆の身体を抑え込む。
お前なら耐えられるだろ。てか、これくらいじゃないと助けられねぇんだよ。もう少しだけ我慢しろ……!
と、抉れた傷が徐々に盛り上がってくる感触が伝わってきた。
慌てて身体を離すと、傷口がみるみる塞がっていく。次第に呼吸も安定してくる。
あぁ………。
知らず緊張していたらしい。気づくと頭が垂れていた。
おまけにおれは、何かに祈っていたらしい。
笑っちまうよな。今さらおれが、何に縋ろうとしてたんだろう。
それでもやっぱり、何かに感謝した。誰かに、天に?
……。
そのまま、真帆が目を覚ますまで待ちたかったが、そうも言っていられない。
正直、気が気でなかったもう一つの懸念材料。
仁科だ。
あいつの気配が、まだ周囲に残されていた。今にも消失しそうなほどではあったが、それでもまだ消えてない。このまま放っておいたら、いつまた蘇ってくるかしれない。
だけど、そんな真似はさせねぇよ。久瀬に命を賭けさせたこと、忘れたわけじゃないからな。約束は必ず果たす。だから――
真帆を大木の根元に横たえ、土埃の舞う空き地に戻る。
空き地というか、そこは元々草原だった。だけど今は、巨大な竜巻でも通り過ぎたか、まるで隕石の堕ちた後か、という有様になっている。
その赤茶けた地面の中央、窪みの底に仁科はいた。
正確には、仁科の残骸。左肩より上だけの。それも頭蓋の半分は、きれいさっぱり無くなっている。
それでもほんの微かな吐息が聞こえて、思わず嘆息しちまった。
オウガって奴は本当に、こんなにもバケモノなんだな……。
「……やる……ねぇ……」
近づくおれに、奴はすぐに気づいたらしい。異様な光がおれを見上げる。
揺らめく淀んだ狂気の炎。それはおれと同じものか。おれを映した光だったか。
「……ま……なかなか、愉しかった…さ……」
不思議と心は静かだった。冷たく凍って、何の感慨も湧いてこない。
「――じゃぁな」
叩き潰す寸前に、仁科の顔を見ちまった。
いつも通りの、愉悦に満ちた嗤い顔。
そこに苦笑の色が滲んで見えたのは、きっとおれの願望だろう。
周囲が陥没し、砂塵が舞う。
今度こそ、微かな気配は霧散した。
***
『政之、待ちなさい! またそんなことして!』
『やだね! おれが稼いでやるって言ってんだろ!』
声が聞こえる。
まだ幼い少年と、諫めるような母親の。
『だからって、アンタ――』
『あんな屋敷でおふくろが、いつまでも媚びなんか売ってるからだろ!』
『またアンタはそんなこと! 生きてくためには母さんね、何だってやるんだから! ちょっとはアンタも協力し―――』
『おれは自力で這い上がってやる! だから少しは黙って待ってろ、邪魔すんな!』
――こんなドブネズミみたいな生活、今におれが何とかしてやる。
だからさっさと、あんなところ辞めちまえ!
***
ジェットコースターで振り回される感覚がした。
息が乱れる。鼓動がうるさい。何を見たかは分かってる。
これは仁科の、過去の記憶――……
ふいに込み上げてきた感情は、何だったろう。
……おれもやっぱり、仁科とそう違わねぇよな。
ただ今さらのように、そんなことを思っちまった。
もしおれが、こいつと似た境遇で育っていたら。
例え仁科のようにはならずとも、それでもやっぱり、碌でもない存在になっていたんじゃないだろうか。もっと早くに、箍が外れた……。
溜息が零れた。
意味のない行為だ。コイツの記憶を垣間見たから、そんなことを考えちまっただけなんだろう。
たられば、なんて意味がない。おれもこいつも、今が全てだ。
拳を握って瞼を閉じる。
意識を徐々に研ぎ澄ます。
……あと少し。あと少しで終わる。
それがあいつと交わした約束。
――いる。やはり、この気配は。
『そうだろ、そこで傍観者面してやがる創始者さんよ!!』




