5-16 了承の意味
血飛沫を上げながら、弧を描くように空を舞う。
『真帆っ!』
このままじゃあ、あいつ等が――!
思った瞬間、叫んでいた。
――頼む、久瀬!
切断したばかりのラインを繋ぐ。余りにも虫がいい。手のひら返しも甚だしい。
笑っちまう。おれは本当に下らねぇほど身勝手だ。
だけど、それでも――……
頼む、久瀬! お前の力を貸してくれ!!
『――了解』
すぐに短い応答が返ってくる。
『思う通りにしたまえ。後は私が引き受けよう』
迷いのない返答だった。余りにも。
とっさに込み上げてきた感情は、自分でも理解できない。
唇を噛む。ただこれだけしか言葉にできない。
頼む――……
**
久瀬のウィルス適性はそう高くない。
あいつの言葉は真実だった。油断を誘うブラフだなんてオチはなかった。
だから本来、こんなことはあり得ない。久瀬とおれとの間にだけ、ホットラインが繋がるなんて。
――きっかけだけなら、すぐに分かった。
あのときだ。久瀬を本気で殺しかけたあの時に。
結城と中嶋を失って、ほとんどぶっ壊れていたおれは、全身全霊で憎悪をぶつけた。掛け値なしに潰す気だった。
だから、だろう。
思念波に抉られて、無理やり道が通っちまったのは。まるで大電流が短絡するみたいに。
はじめは、上手く制御できなかった。する気もなかった。
暴れる思念波を激昂するまま放ってやれば、近くにいる適性者――久瀬や朝倉に伝わるらしいことはすぐに分かった。相手が隔壁の向こう側に行っちまえばさすがに難しくなるが、なぜか久瀬には届き続ける。ざまぁみろと思った。気にせずに放った。
やがて、少しずつ意識がクリアになっていることに気づいた。比例するように、久瀬の顔色が悪くなっていく。どうやら、おれの悪意の塊みたいなモンがあいつに流れ込んでいるらしい。そうしてその分、おれは正気に戻っていく。
唖然とした。何だよそれは。
久瀬も恐らく想定外だったんだろう。機械みたいに怜悧な顔に苦渋の色が滲んで見えて、ざまぁみろと思った。思って、それ以上に戸惑った。
なぜ、おれを始末しない? こうなったおれは、負担以外の何ものでもないだろう。メリットなどない。リスクだけだ。
けど、久瀬から漏れ出る思念で分かった。さすがにこいつも迷っているらしい。おれを消すか、完全に自我を殺し切るかで。ははっ、そりゃそうだよな。
別に何でも構わなかった。好きにしろよ、どうせ全部がめちゃくちゃだ。生きて復讐を果たして、それで何が変わる。多少、気が紛れる程度だ。意味なんてない。
――ほらほら、早くしないとおれがお前を殺しちまうぜ?
そんな中で彩乃が現れて。
それからだった。おれが暴走しそうなると、あいつがおれの狂気を引き受けるようになったのは。
おれが意図した訳じゃない。わざわざ、そんなものを送り付ける趣味はない。――今はな。
けど、激昂しそうになるとダメだった。勝手に流れ出て行っちまう。それを止める方が難しかった。止めるには結構な集中力が必要で、そんな余裕があるなら激昂なんかしやしない。
でも、あいつなら拒絶もできたはずなのに。電撃のような一瞬の思念波ならいざ知らず、断続的な悪意の塊なんてもの、今の久瀬なら遮断するのは容易だろうに。
……実際、遮断されたことがなかったわけじゃない。そんな時は、決まってあいつが実験場にいやがった。一瞬、意識が飛んでいて、我に返ると必ずあいつと目が合った。
冷淡な目に酷薄な笑み。おれにだって嫌でも分かった。
この野郎、力の塩梅を図ってやがるな――……
――だから、結局。
おれが最近、容易に自我を保てていたのは、おれ一人の力じゃなかった。狂気を散らす奴がいたから。
さすがに距離が離れ過ぎたら無理だが、あいつは今、ここから近い沖合いにいる。だから届く。あいつさえ了承すれば。あいつからラインを遮断したりしなければ。
それでも、これは。これまでとは訳が違う。
おれは今回、全ての箍を外す気だった。力を完全に暴走させる。そうでなければ、おれはあいつ等を助けられない。
けど、一度箍を外したら。おれは自分で自分を止められない。助けたはずのあいつ等だって、おれはきっと平気で殺してしまうだろう。
だから、頼んだ。暴走を止めて欲しいと、おれの狂気を引き受けてくれと。
今度のこれが流れ込んだら、いくら久瀬でも身体が保たない。それを承知でおれは頼んだ。
――馬鹿みたいな話だった。
普通ならあり得ない。あいつにとっては何の利もない。
例えばこれが、久瀬自身の激情だったら。あいつは何とかしてみせるだろう。忌々しいほどの余裕がそれを物語っている。
だけどコレは、あいつにとってはただの異物だ。本来は他人の感情。例えて言うなら、頭の中に無理やり手を突っ込まれて、脳みそを掻き回されでもしているような、最低のシロモノのはずだった。
実際、今までだって万全じゃなかった。
おれの暴走を抑える度に、久瀬の纏う空気が気怠さを増していく。ふとした隙に無感動で酷薄な態度を覗かせる。あいつの脇を固める部下が顔を曇らせる姿なんて、今まで目にすることはなかったのに。
今でさえ、その状態だ。箍の外れた狂気なんかが雪崩れ込んだら、あいつも間違いなく無事では済まない。あいつ自身がぶっ壊れるか、紛うことなき悪魔に堕ちる。
だけど、殺すことならできるから。
ぶっ壊れようが何になろうが、殺すことならできるから。
つまりこれは、おれの代わりに死んでくれと頼む行為だ。普通に考えて、受け入れる要素がない。……微塵もあるはず、ないんだが。
――そもそも、おれは恨まれている。
ここまで来ればさすがに分かる。おれが久瀬に狙われたのは、親父に対する報復だけが理由って訳でもないんだろう。おれに対しても、何か特別な恨みがあった。そこのガードは恐ろしく固かったから、何がそこまで恨みを買ったのかは分からないが。
多分、おれの記憶が曖昧な時期、親父が組織から抜けた頃に何かがあった。おれにも何か、復讐される理由があった――
だけどそんなの、知ったことかよ! 本当はそう言いたかった。覚えてもいねぇことで復讐されても困る。というより、どんな理由があろうと、久瀬が今までおれ達にしてきた行為を赦せるはずもなかった。
ただ、これは久瀬も同じなんだろう。
久瀬が今でも、おれや親父をひどく憎んでいる、という気はしなかったし、自身の行為が非道だという自覚もあるようだが。それでおれ達への扱いが変わる様子はないし、詫びる気など毛頭ないに違いない。
例え、おれに対する贖罪の念が頭の片隅にあったとしてもだ。罪の意識なんかで動く男じゃないし、他者への同情などもっての外だ。目的のためなら、いくらでも悪辣になれる人間。それがこいつ、そのはずなのに。
もちろん、この場限りで了承して見せて、おれを裏切るという選択肢があり得ることは分かっていた。おれと仁科をぶつけて、上手くすれば共倒れ、駄目でもどちらか消えることを狙うという手が。
おれが仁科を殺して、そのまま真帆まで殺しちまっても、久瀬にとっては痛くも痒くもないはずだ。世界をぶっ壊そうとおれが暴れ回っているうちに、久瀬はゆっくり、おれを消す算段でも立てればいい。
――けど。
あいつは了承した。好きにやれと。
このホットラインで嘘は付けない。久瀬は本気だった。
自分だけは大丈夫だとか、そんな根拠のない自信をあてにする男でもない。
つまり確実に、自身の死に直結すると分かった上での即答。
分かってる、応えてくれるだろうと思っていた。
そういう奴だ。そんな奴だからこそ、おれも――……
けど、あんたには謝らない。礼も言わない。
ただこれだけしか言葉にできない。
――……頼む。
もう一度どこかで、静かに笑う気配がした。




