5-8 彼女たちの揺り籠
『やぶきのことが、少しわかるの』
その言葉に妙に納得して、……おれはそのまま目を逸らしちまった。
やっぱり、あいつは死んだのか。そう思ったら、――……
「あ、待って!」
軽い衝撃に顔を上げると、真帆がおれに体当たりしていた。
彩乃の静止の声も聞かずにそのまま腕を回そうとして、すぐ、怪訝そうにおれを見上げる。
「どうして、何も見えないの……?」
おれは薄笑いでも浮かべていたんだろう。真帆はハッとした顔をした。そのままみるみる目を吊り上げる。
「ずるい! 自分だけ意識を閉じてるのね!」
ずるい、とは心外だが。
真帆が何も見えないのは当然だ。意識を勝手に探られないよう、心を閉ざす術をおれはすでに会得していたから。
といっても、誰かに教わったわけじゃない。色々と試していたら、何となく分かっただけだ。
「わたしの記憶だけ見てるの?!」
「お前のも見えてねぇよ」
心を覗かれないようにするのと同様、無意識に相手の記憶に触れないようガードする。それも今では、苦も無くできるようになっていた。
ただ、欲しい記憶のみを共有する。そんな芸当だけは、今でも到底できる気がしなかった。
何のガードもなく素質のある奴に触れちまったら。記憶の一部を共有しちまったら。いつだってあれは、最悪だった。
大量の情報を一気に頭ん中にぶち込まれて、まるで濁流にでも放り込まれた気分になる。意味なんて理解する間もなくて、上下左右の平衡感覚が崩れて、本当に吐きそうになる。まるでジェットコースターだかフリーフォールに連続で乗り続けた後みたいで、とても耐えられたものじゃなかった。
極めつけは、自意識の戻ってくる直前だ。真っ暗な宇宙空間にでも放り出された気分になって、そこから一気に、強く記憶に焼きついていたらしき感情の奔流が雪崩れ込んできやがる。
冗談じゃなかった。
それなのに、あいつ等は――……ッ。
身体の奥底にこびりついた黒い塊。それがまた蠢きそうになって、おれは頭を振った。
とにかく、そう。
彩乃が心配したようなことにはならない。
意図しない限り、互いに触れても感応したりしない。――させない。
おれは思っていた以上に、涼しい顔をしていたのかもしれない。
真帆はみるみる顔を歪めた。
「知りたいのに。貴方の知ってるわたしのこと、もっと知りたいだけなのに!」
声がどこか、悲痛な色を帯びた気がした。
「オリジナルのわたしからじゃ、少ししか分からなかった。やぶきへの想いだけが中途半端に強烈で、……だけどそれもぐちゃぐちゃでよく分からなくて、ずっとイライラしてたのに! 貴方の持ってる記憶に触れれば、それが分かるかもしれないのに!!」
思わず、唇を噛んじまった。
それで?
それをしたら一体どうなる?
おれの記憶を覗かせたなら?
選んで記憶を見せるなんて出来ない。どんな記憶がこいつに伝わるか分かったものじゃない。
それに。
仮に上手くいったとして、それでどうなる。
あいつが戻ってくるわけじゃない。こいつにただ、胸糞の悪い記憶を植え付けるだけだ。こいつが経験したわけでもないのに。
「……わたしじゃ、だめなの?」
ポツリと、真帆が呟く。
「貴方のこと、もっと知りたい。ちゃんと分かりたいって思うのに……」
気付くと、おれは真帆の頭を掻き混ぜていた。
「……やっ、ちょっと!」
「悪い。お前がどう、とかじゃないんだ。上手くは言えねぇけど」
こいつはもう、立派な一人の人間だ。クローンだろうが何だろうが、生まれ育った経過が違うなら、それはもう別の人間。
「結城の記憶なんて求めるなよ。そんなものに振り回されるな」
せっかく余計な記憶がないのなら、無理にそれを追う必要なんてない。
「お前はお前だ。それでいいじゃねぇか」
真帆はじっとおれを見つめる。
戸惑ったような、途方に暮れたような顔。
それから小さく俯いて。
「今日は帰る。突然来て、ごめんなさい」
そう言って出て行こうとする。
それが傷ついた小動物みたいで、
「――いいよ、それは! 構わねぇから」
思わず、声を上げていた。
真帆はビクリと肩を震わせ、不安そうな瞳でおれを見る。
「いつでも来いよ。待ってるから」
驚いたような顔がおれを見る。それは彩乃の分もあって。
おれも瞬間、しまったと思ったけど。口をついて出たものは仕方ない。
……というか、これはおれも望んでいたこと、な気もするし。
「おれが仕事をしていない間だけ、に限るけどな」
真帆が目を見開いて。
その隣で、彩乃がニヤニヤとおれを見てきやがった。
なんだよ、その眼は。
……あぁくそっ。言っとくけど、おれはロリコンじゃねぇからな!
だって気づいちまったんだよ。確かに、記憶を見るのは遮断したけど。
それでも、感情のカケラが伝わることは避けられなかった。
こいつはすでに、弱毒化したウィルスをかなり投与された後なんだろう。そんな奴に触れて、全てを遮断するのは難しかった。……というより正直、結城の面影に触れて、全てを拒絶することなんてできなかった。
だから、分かっちまったんだ。
こいつがずっと寂しくて心細くて、周囲の人間に憎悪を抱きながら過ごしてきたんだろうってことも。
自分が何者か分からなくて、不安でたまらなくて、だけどそれをぶつける先がなくて、ずっと苦しんできたんだろうってことも。余りに簡単に分かっちまったから。
「本当にいいの……?」
か細い声。何を急に、不安そうにしてるんだろう。さっきまで、あれほど傍若無人だったくせに。
……それがまた結城っぽくて、少しだけ胸が疼く。
多分こいつは、自我が育ちきる前に、身体だけ無理やり成長させられたんだろう。だから本当にただの子供で。
それが結城に触れて気づいちまった。寂しいって感情を。自分がどうしようもないほど、人恋しかったんだろうってことも。
だから、おれのところに来たんだろう?
「いいよ、お前が望むなら」
だったらせめて、付き合ってやる。おれがここに居られるうちは。
真帆に向けて笑ってやる。多分、ここ最近で一番マシに笑えたと思う。
例えお前自身じゃなくたって。少しくらいは付き合ってやる。
お前に詫びるのはその後だ。それでいいだろ、結城――……
真帆がはにかむように笑って。
心からうれしそうにするのを見ると、また胸が疼く。
でも、それは決して嫌な疼き方じゃぁ、なかった。
*****
――それから、うん。
ある程度、想像はついていたが。
割と頻繁に来るかなとは思っていたが。
まさか本当に、文字通りの連日連夜、押しかけて来るとは思わなかった。
「あ! ようやく返ってきたぁ」
ついには、おれが不在の時にも部屋に居座る始末だ。
いやお前、何でおれのベッドで昼寝してんの?
ここに来ていいのはおれがいる間だけ、って言わなかったっけ。
え? 言ってない? いや、そうか……?
おれは日中、戦闘訓練やら人体実験やらを受けることが多かったから。おれが部屋にいるのは早朝か夜が基本で。真帆や彩乃が来るのも、必然的に夜が多かった。
ただ、真帆だけは早朝にもちょくちょく顔を出してきて。果ては部屋で待ち伏せって、おい。
お前、普段はどこで何してるんだよ?
そんなことを考えていた矢先だった。
真帆が突然、おれの腕をむんずと掴む。
「一緒に来て!」
そう言って、ぐいぐいと腕を引っ張る。
……って待て。一体どこに連れてく気だよ。
一応、おれの存在は極秘だから、あまり動き回らない方がいいんだが。
まぁ、周囲に人の気配があればすぐに分かるから、突然、兵士や他の研究員とばったり、なんてことにはならねぇけど。ただ、至る所に隠しカメラもあるから、事情を知らない奴らに見つかると厄介なんだよな……。
例えそうなっても、久瀬か仁科が上手く揉み消すだろうけど。その揉み消し方がえげつなさそうで、何となく嫌悪感が先立って、今までは好き勝手に動き回ることを避けてきた。
だから、真帆が余りに縦横無尽に施設内を動き回っていると、ちょっと不安になってくる。
いいのか、こいつをこんな自由にして。
でもまぁ、彩乃には普段から色々と指導されているようだし。先ほどから周囲には恐ろしいほど人気がない。
だからきっと、この辺りは限られた人間しか入れない隔離区域なんだろう。それくらいは考えておれを連れ出した、と思いたい……。
微妙な気分で、真帆に促されるまま幾つものゲートを通過する。そのまま、無機質な廊下の突き当りまできて、真帆はニンマリと笑った。
「やぶき、ここに入って」
目の前にあるのは、何の変哲もない無機質な扉。
はいはい、何だよ。今度はここに何があるって?
そんな気分で両開きの扉の向こうに踏み込んで。
おれは言葉を失った。
そこは、やけに天井の高い、だだっ広い円形の空間だった。
壁は一面、色とりどりのパステルカラーで溢れていて。
降り注ぐ光は随分と柔らかな色合いをしている。
何だ、ここ……。
おまけに、中央には大きなクッションが幾つも乱雑に置かれていて、それに負けじと、どでかい熊の縫いぐるみやら、プラスチック製の小さな滑り台なんかが置いてある。
待てよ、これじゃあまるで……。
「そう、ここは保育ルームなの」
そう声を上げたのは、奥に座っていた女性。淡い緑色のエプロンを身に着けた若い女が、緩くウェーブのかかった髪がゆらしながら、にっこりと笑っていた。
ドキリとするくらい屈託なく。
お前は――……
「ちょっと、これ以上浮気しないでよ!」
真帆に突然、わき腹を小突かれたけど。
いや、浮気って何だよ。というより、彼女は――
「水野……?」
彼女は再び、ふんわりと笑う。
「久しぶりね、矢吹君。何だか思ったより、元気そう?」
込み上げてきたのは、何だったろう。
とにかく、こいつだけは無事だったのか。昔と変わらない姿で。いやむしろ、柔らかさが増したような……?
数か月前、組織の人間が水野を助け出したとは聞いていた。欧州の研究施設から、無事に連れ出せたのだと。
ただ、あそこかから戻ったばかりのおれは相当に狂っていたし、こいつもこいつで、落ち着いた精神状態ではないと聞いていた。
だから、今までは一度も姿を見ていなかった。というより、どこで、どうしていたかも知らなかったが――
「お前、ここで何やってんだ……?」
つい、呆れたような言葉が漏れる。
だってそれ、お前の腕の中にいるのって、赤ん坊だろ……?
おまけに、それ。
さっきからお前の膝元に纏わりついて離れない、その小さな女の子は何なんだ。
「まさかお前の子供、じゃ、ねぇよな……?」
水野はくすりと笑うようにする。
「残念だけど、まだお母さんにはなってないんだ。でも、お母さん代わり、ではあるつもり」
愛おしそうな目で赤ん坊を見て。それから、膝元の女の子に、優しく諭すような目を向ける。母親を取られて拗ねたようにしている子供に。
「ほらほら智ちゃん、お姉ちゃんでしょ。この子にミルクあげるから、少し待ってて」
智……って、待てよ。それってまさか……
水野はやんわりと微笑む。
「そう、智ちゃんなの。智ちゃんの――」
クローン、という言葉は呑み込まれる。
「そして、この子はね」
腕に抱き抱えた赤ん坊を、こちらに向ける仕草をする。
それで、赤ん坊の顔が見えた。つぶらな瞳が真っすぐにこちらを向いて、何やら良く分からない生き物がいる、とでもいうように、まじまじとおれを見つめる。
小さすぎて、誰の面影があるかなんて分からない。
――けど、まさか、
「中嶋、なのか?」
水野がこくりと頷く。
「そう。かわいいでしょ? これは美人になるわぁー」
そんな風に茶化されて、言葉に詰まる。
言葉なんか出るはずもない。
むしろこんなの、――けど!
どうしてだろう。
どうして、胸が熱くなる。
あいつ等がいた証、確かに存在したと言う証拠。それがこんな形で目の前に現れて。
酷い目に遭っているようには見えない。むしろ、曲がりなりにも幸せそうに見えてしまって。
ああ、くそっ……!
気づくと、視界が歪んでいた。
――ごめん、お前等。
ずっとそう思っていた。
助けてやれなくて、見殺しにした。
酷い目に何度も遭わせた。
死んだ方がマシな状況に追いやって、その果てがあんな終わりで……!
お前等は関係なかった。ただ巻き込まれただけなのに。
おれなんかと関わったせいで……!
もうどうやったって、詫びることなんてできない。
赦されるだなんて思っちゃいない。
だけど、それでも謝りたかった。
謝って、おれを責めて欲しかった。
……おれを殺して欲しかった。
それが、こんな形をとってくるのか?
こんな風にお前らをまた、巻き込むことになっちまうのか……?
口の中に血の味が広がる。
不味くて熱くて、クソみたいな味。
だけど、どうして。
どうして、思っちまうんだろう。
どうして、わずかでも救われた気がしちまうんだろう……!
おれは呻いた。
こんなの、全然ごまかしだ。
あいつらじゃない。あいつ等自身じゃないのに。
こんなことで、あいつ等の悲惨な最期がなかったことになる訳じゃない。
こいつ等も、これからどんな目に遭うかわからないのに……!
チビの池田が、身を硬くして水野の服にしがみつく。
怯えたようにおれを見る。
……あぁワリィ。どす黒いヤツ、出てたよな。
「悪い、すぐに――……」
気づくと真帆が、チビ池田に駆け寄っていた。頭を優しく叩いてやりながら、おれを指さして何かを言っているらしい。怖い奴じゃないから大丈夫、とか何とか。
チビ池田はおっかなびっくり、それでも『うん』と頷いて、真帆に促されるまま、こちらに駆け寄ってくる。
おい、ちょっと……。
真帆を睨むと、『へへーんだ』とでも言うように不敵に笑う。
それが妙に小憎らしくて、ずきりと胸が疼いてしまう。
……ん?
その隙に、気づけば、チビ池田がおれに何かを差し出していた。
戸惑っていると、おれにぐいぐい、何かを押し付けてくる。どうやら受け取れということらしい。
ともかくもそれを掴むと、チビ池田はぴゅーっと、あっという間に水野の方に逃げ帰ってしまった。
何だあれ……。
呆気にとられながら握ったものを開くと、目に飛び込んできたのは、フェルト製の人形だった。怖可愛くデフォルメされたお化けの人形。思わず、ぎょっとしてしまう。
「それ、この子のお気に入りの人形なの」
水野が言って、真帆がいたずらっ子のようにニッと笑う。
お気に入り? ……って、随分と変わったものが好きなんだな、池田……。
じゃなくて、なんで、そんな大事なものを。
「それあげるから、元気出してって。悪いお化けをやっつけてくれるんだって」
……!
とっさに目をそらしちまった。
お化けが急に、熱をもったように熱くなる。
くそっ、何だよこれは。どんな状況だよ……!
こんな小さな奴らにまで、励まされてやがるのか? おれが、こんなガキどもに?
アホかこんなの、ばかじゃねぇか。
……あぁああ! くそっ、このくそったれ野郎が……!!
――こいつらを守りたい。
その想いで全身が滾るみたいに熱くなったのは、おれのせいじゃないだろう。
分かってる、分かってんだよ!
今度こそおれがこいつ等を守り抜く……!
そう思って、強くそう思わざるを得なくて。
同時に沸き起こってきたのは、途方もない憤りだった。
これを仕組んでくれた野郎への。
こんなことを企んで、実際にやらかしてくれたクソ野郎への。
吐き気と眩暈で視界が霞む。
ぐわんぐわんと視界が歪む。
ふざけんな。ふざけんのも大概にしろ。いい加減にしろよ、久瀬……!!!




