4-10 狂気と正気の狭間で ②
「本当はそんなんじゃないんだ」
そう言って、彩乃はへらっと笑う。
自分でも何と言ったらいいのか分からなくなっちゃった、そんな顔で。
「ただ、もし、もしもだよ? このまま兄貴が居なくなって、お父さんとお母さんまで居なくなって、あたし一人だけ取り残されて、それでもお前は強く生きて行け、みたいなこと言われたら。もうこれ、一体どんな罰ゲーム? って感じじゃない? 絶対にごめんだからね、そんなの」
そんな風に憤慨して、それから急に息苦しそうな顔をする。
「だって、目の前で大切な人たちが酷い目に遭ってて、それが自分のせいだって分かってるのに自分は何にもできなくて、その人たちの犠牲の上に自分は生かされているんだって気づいたら、これって本当に、本当に最悪の気分なんだから……!」
そう言ってから、はっとしたようにおれを見上げる。
「ごめ……ごめん! 兄貴がどんな思いしたのか、あたし、分かってて――!」
何をそんなに慌てているのかと思う。どんな思いって、おれは別に――
言いかけて、ずきりと胸が疼く。べッドに手をつく。猛烈に頭が痛んで、
そうしてやっぱり、気づくと全部がどうでも良くなっていた。
でも、……あれ、ベッドが少しひしゃげてる。
彩乃が泣き出しそうな顔で立っている。
あー、なんかまた、馬鹿をやったらしい。
途端に胸の奥が冷たくなって、すぐにそれもどうでも良くなる。
まぁでも、やっぱり彩乃に泣き顔は似合わない。
せめてお前は、笑ってろよ。そうでなけりゃ、何のために――
「ごめんね兄貴、でも、勝手にするから」
大きく息を吐き出してから、気を取り直したみたいに宣言されて。
いや、だから、……何言ってんだ?
彩乃はもう一度、おれの隣に座り込んできた。
いや、近い。というより何だよ、おれの枷をいじりやがって。
「うん、だからね、あたしたちは兄貴の枷なんだ。勝手についた枷」
……は?
「兄貴が消えるときは、もれなくあたしたちもついてくる! みたいな、そんな枷」
何だそりゃ。押しつけにもほどがあんだろ。誰がそんなことを頼んだよ。
「え? そうだよ? 兄貴の意思なんておかまいなしだよ? 」
あまりに堂々と言われて、いっそ清々しささえ覚えかける。
……いや、んなわけあるか、ふざけんな!
そう思って、もう一度はっきり睨んでやったのに。
「だってさ、これって多分、自分たちのためなんだもん。こうして兄貴を繋ぎ留めようとしてるのだって、自分たちが生きたいためだったりするんだよ。だって兄貴が消えたら、やっぱりあたしたちも死んじゃうからさあ」
まだ言うか、お前。
無言の視線が痛かったのか、さすがにちょっとバツの悪い顔をして。
「うん、ホント厄介でごめん。でもみんな、それくらい勝手だよ。だからいいじゃん、兄貴も勝手して」
勝手って何だよ。だから、始めから言ってんだろうが。ケリがついたら消えるって。それでお前らも死ぬとか言ったら、全然意味がねぇだろう!
そう言ってやったのに。
「あー、希望を言えば、兄貴にはずっと生きてて欲しいんだけどね。あはは、矛盾してるね。うん、でも、矛盾だらけだからさぁ……」
さすがに喋り疲れてきたのか、そのままおれの肩に頭を預ける。目を閉じる。
おい。おいおいおい。
引きはがそうかとも思ったが、そのまま速攻で規則正しい吐息を漏らし始めて。
は? 寝息?! マジかよお前。そりゃ、余りに自由すぎないか!?
そう思ったものの、……あぁくそ、もういいだろう。
せっかく、彩乃がここまでしてくれたんだ。
腹にたまった空気を吐き出す。
硬く凍り付いていた感情が、少しだけ解けるのを感じながら。
あのとき、吹雪の中で砕け散ったはずの感情が、急にその存在を主張し始めたみたいに。
ああ、分かってる。
彩乃に、少しは自分を頼れと言われたときから、分かっていた。
この家に生まれたからこそ、狂気のおれがいるってことを。
この家で育ったからこそ、正気のおれがいるってことも。
どちらも本当で、嘘じゃない。
だから。
……この家にさえ生まれなければ、きっと、ここまでの目には遭わずに済んだ。
そんな思いは幾度も頭を巡っていた。
この家で育たなければ、きっと、こんなに悩まなかった。
だけど、それでも。
この家に生まれたことだけは、欠片も呪ってなんかいなかった。
神サマなんていないと、そう言っちまったけど。いるかどうかなんて、今でも分かりゃしねぇけど、でも。
家族と、……仲間だと思える奴らに出逢えたことは、少しだけ感謝していた。
ここに至るまでの最悪の状況があったからこそ、こんな風になれたのかもしれなくて、そう考えるとぶっ飛ばしてやりたい気もしたけれど、それでも。
誰かに、何かに、感謝したかった。
本当は今だって。
目を瞑れば、おれの殺した奴らが、恨みがましい目でおれを見てくる。おれが救われるのを咎めてくる。
へっ、わかってるさ。わかってるっての。赦される訳がないことくらい。
随分と長い間、それを苦しく思う自分がいた。
思うくらいなら、やらなきゃいいのに、気づけばいつも喰らってて。
だったらいっそ気にしなきゃいいのに、いつまでもグダグダと人の意識を引きずって。
苦しくて逃げ出したくて、でもそれは、微かな救いのようにも感じていた。
おれはまだ、完全な化け物じゃないと。母さんたちにも顔向けできない、どうしようもない存在じゃないと、そう思えたから。
だけどもう、最近ではそれも変わった。
誰かを喰い散らかしても、ほとんど心が動かない。
どうでもいいと、冷たく嗤ってしまえる自分がいた。
それが何より怖くて嫌だったはずなのに、今ではそんな声も小さくなって。
あぁ多分、おれはもう保たねぇなあと。だけど別にいいじゃないかと、どこかでそう思っていた。
おれも早晩、そっちに行くから。そうしたら受け止めてやるよ、お前らの恨みも辛みも全部まとめて。おれのそれと勝負しようぜ?
不幸自慢? ハッ、馬鹿馬鹿しくて下らねぇが、試しにやってみるのも悪くねぇ。拳突き合わせながら語ろうぜ?
そんなことすら思ってた。
亡者の群れが足元で蠢いている。足首を掴んで、だったら今すぐここに来いよと、おれを罵る。
どうせお前もこっち側だろ。狂気に呑まれた化け物が、今さら何をほざいてやがる。そんなふうに、おれを蔑む。
そうだな、そうさ。分かってるんだ。
おれはとっくに戻れない。
でもな、そっちに行くのはまだ早いんだ。
だってさ、今おれが消えちまったら、こいつ等、一緒に消えるとか言いやがるんだぜ。それは絶対、させられねぇだろ?
彩乃の温もりが暖かかった。こいつにだけは笑っていて欲しかった。
そんなふうに思えるほどには、まだ『まともな』おれがいるってことも自覚したから。
ああ、そうさ。きっちりケリをつけてやる。
後を追わせるだなんてふざけた真似は、絶対にさせたりしない。
彩乃も母さんも、オマケで親父もつけてやる。
だから、みんなで笑ってろ!
そこまで思って、おれはそれこそ笑っちまった。
ははっ、矛盾してるよな。矛盾してる、勝手してる、ただの傲慢なエゴの押し付け合いだ。
でもさ、ここはそんな奴らのぶつかり合いだろ? 強い奴が自我を通す。
だから、今はもう謝らない。
もう少しだけ、黙って待ってろ!
*****
おれは頭をあげた。
カメラを睨んで、その向こうにいるはずの奴らを睨み据える。
なあ、朝倉?……それに久瀬。
てめぇら、どこかで見てるんだろう?
おれを正気に戻したかったみたいだが、もういい加減、分かっただろう? せいぜいこれが限界だってな。
だけど、これでも十分だよな?
おれは嗤う。多分、わかる。
映っているのは、悪魔みたいな面した奴だろう。
嗤いが込み上げてきて、止まらなかった。
だけど、それでもいいよなあ? むしろ、これくらいの方が都合がいいってもんだろう?
はっ! 上等だ。改めて応えてやるよ。手を組んでやる。お前らの望む、唯一無二の切り札になってやる。だからお前ら、おれを上手く使ってみせろ!
そう、ここからが反撃開始だ。
今度こそ、決着をつけてやる……!
次から最終章に入ります。
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