4-4 狂人
最悪だった。
最低、最悪。
彼は見事に、転げ落ちた。
踏み留まって耐えるどころか、一足飛びに転がり堕ちた。
俺の声など届かなかった。
次に出会ったときには、既に。
彼は単なる狂人だった。
******************************
<涼司>
頭ん中で何かが喚いた。
誰かが、何かが、おれの中に入ってきやがる。
気持ちが悪い。気色が悪い。
やめろ、ざけんな、入ってくんな……!
もうこれ以上、おれに触れるな……!
どうやら聴こえちゃいないらしい。
代わりに鎖を打ち鳴らそうにも、生憎、手足も動きやしない。
あぁくそ、理由は分かってる。
何せ身体は、壁ン中。
想像するだに笑える画ずら。
胸まで壁に塗り込められて、頭一つが飛び出た形。
呆れて言葉も出やしない。いや、嗤い声しか出てきやしねぇ。
どうやら、おれを都合よく無力化する方法がなくなったらしい。
馬鹿か貴様ら。制御できてこその兵器だろうが。手に負えねぇバケモノ作ってどうする気だよ?
んん? 何ナニ、新型薬物、鋭意開発中だって?
あぁそう、ムダムダ、もう諦めろ。おれが全部をぶっ潰してやるからよおォ!!
大きく吠えると、壁も震える。瞬間、奴らも顔をしかめる。
はは、いたのか。いつからいたんだ。この暇人どもが。
さっさとこいつを外しやがれ。おれを使いに来たんだろうが!
ははぁ、涼しい顔したクソ野郎にも脂汗が滲んでやがるぜ。ざまぁみやがれ、死ねよボケ!
……ああ? 何を平然としてやがるんだ。つまらねぇなあ。弾けろクソが。
おれに臓物、晒してみせろ!
「――ずっとこの調子ですか」
「ああ。静かにしていたと思ったら、翌日からこんな具合だ。もう5日になるか」
おいおい何だよ。俺を無視して、何の話をしてやがるんだ。
聞いてんのかよ? このインテリどもが!
「露骨に、悪化しましたね……」
はあぁ? 何をため息ついてやがる。おれを見ながら、何様なんだよ、てめぇらは。
あぁそう、そうかよ俺様か。お前ら、昔から俺様だもんな。
ああ? まァた溜め息か? だから何だよ、おれを使いに来たんだろうが。
いいぜ、いいぜぇ? 喰らってやるよ、喰らい尽くしてやるからよ。
だからさっさと、こいつを外せ!!
******************************
<朝倉>
再度の強烈な思念波に、思わず顔をしかめてしまった。
頭の中で爆ぜる暴風。まともな意味など成さないのに、悪意と狂気は本物で。
突き抜ける敵意と愉悦に瞬間、意識を砕かれかけて、俺は辛うじて息を吐いた。
「ここを出て、話をしても?」
間近で何度も、この思念波を浴びるのは悪手だろう。
まるで頭の中にナイフを差し込まれて、ぐちゃぐちゃと掻き回されている気分になる。例えて言うなら、身体の中から凌辱されているかのようで。
その気分の悪さは、最悪だった。
「ああ。……これでは話にならん」
久瀬の冷たい双眸に、再び痛苦が過ぎった気がした。
***
「さて、君の見立ては?」
久瀬がそう口を開く。
ここは、涼司を隔離した場所から数フロア離れた手狭な監視室だった。せいぜい、ビジネスホテルのツインルーム一室程度といった広さに、最低限の監視モニターと操作パネルが据えられた造り。どうやら極秘の監視ルームといったところらしい。
ここには俺たち以外に誰もいなかった。そもそも、久瀬が涼司の様子を見に来たのも、相変わらずのお忍びのようだったから。事前に俺に打診したという違いはあったが。
懲りてないのか? この男は――
そう思いながらも、視線は涼司を追ってしまう。
モニター越しに見える涼司は、時折ケタケタ嗤っては、概ね腐った様子でつまらなそうに不平を漏らしているだけだった。
「想定以上なのは認めます。ただ――」
ただ、何だと言う気か。
あれではまるで狂人だ。どう取り繕っても、狂ってる。
先日はまだ、寸前で踏みとどまっているように見えたのに。
久瀬は抑揚のない言葉を吐いた。
「あれでは、自我を奪わざるを得ないな。……もしくは、永遠に眠らせるか」
とっさに、久瀬をねめつけてしまう。
「本気で、言っているのですか」
「私はいつでも本気だ。……だが、君はどうするね? あれを見て、まだ私を止めてみせるかね?」
ぎりっと拳を握り込みそうになって、俺はふと違和感に気づいた
いつもと変わらぬ風を装いながら、目の前の男が、ひどく憔悴して見えたことに。
まさかこの男に限って、とは思うのだが。
「……後始末が、大変だったのですか」
思わず、そう尋ねてしまった。
俺は施設の深部に身を顰めていたから、詳細までは分からなかったが。突然の施設崩壊に、涼司の変貌、その対応に追われていたのではないだろうか。まして、秘密にしなければならないことの多い事案だ。仁科や他の者たちに疑いをもたれず采配するのは、さぞや骨の折れたことだろう。
そんな唐突な俺の問いかけにも、久瀬は眉尻を上げただけで、すぐに小さく肩を竦めた。
「大したことではない。……が、そうだな、体調は少々優れないかもしれないな。まだまだ若いつもりでいたんだが、全く歳とは恐ろしい」
久瀬にしては珍しい自虐めいた軽口に、俺はむしろ驚いてしまった。この男がいよいよ疲れていると思い知らされた気がして。
だが、なぜそこまで――
思いかけて、俺はふと気がついた。
なぜ今も、微かに眉を顰めている。
涼司の思念波が届かないよう、分厚い隔壁の向こうに来たはずだろう。
瞬間、ふいに思い至った。
「まさか貴方、混じったのですか!」
「……混じった、とは?」
久瀬が全身で無理解を示す。けれど、どこかで苦笑していて。
「とぼけないで下さい。あのとき、貴方は涼司の血を口にしたのでしょう……!」
涼司を突き飛ばした後、久瀬の口元には血が滲んでいた。
襲われた衝撃で口を切ったのだろうと思っていたが、あれがもし、涼司の血だったなら……。
「だとして、何か問題が? ワクチンを投与済みの私が今さら血液感染など、するはずもないのだがね」
久瀬が嘯く。
「貴方はオウガ因子の保有者だ。それも恐らく、限界ギリギリの。そんな貴方が涼司の血液を口にしたら、何らかの活性化があってもおかしくない。まして、」
あのとき、涼司は久瀬の両手を抑え込み、馬乗りになっていた。その鋭い爪は久瀬の両手を深く抉っていた。
涼司なら、その手についた血肉を口にする機会もあったはず。恐らく俺が去った後、兵士たちが来る前に。
それが、何らかの契機になったんじゃないのか。
オウガの能力は、まだ未知数だ。研究の最先端を行くはずのこの研究所ですら、全てを掴んでいるようには見えなかった。
おまけに、今の涼司は規格外だ。驚くほどのスピードで、能力が進化していく。
そんな状態で互いの血肉を取り込んだなら?
『ウィルスとの相性はさほど良くない』
久瀬は常日頃からそう言っていたが、果たしてそれも、どこまで真実なのだろう。例え本当だとしても、何か因縁めいた繋がりを感じさせる二人だ。そんな二人が互いの一部を取り込んで、何の感応もしないでいられるものだろうか。
そもそも、このウィルスは、原理こそ不明だが、保菌者同士で一種のテレパシーが働くらしい。それも、力の強いほうが弱者を従わせる要素が伺える。死者の側から生者に対しては、一気にハードルが高くなるようだが、それでも。
あの時、あれだけの激情を直にぶつけられて、涼司と久瀬の間に、ダイレクトなホットラインでも形成されたんじゃないのか。だから、この男は今も痛烈な思念波に晒され続けているのでは?
そう詰め寄ると、久瀬は椅子に腰かけたまま、やれやれと大仰な溜息をついて見せた。
「まあ、概ね“当たり”かな。彼もとんだ復讐をしてくれたものだよ。全くもって、やってくれる……」
軽口が、反って不気味だった。
当たりだって? 本当に?
ならばなおのこと、久瀬にはもはや、涼司を“生かして”おく理由がない。戦力にもならず、ただの障害にしかならないのなら、早々に消して終わりではなかったのか。
なのになぜ、それをしない?
どうして、俺にだけ会いに来た?
「…………家族に、引き合わせてみましょう」
ふいに、そう言葉が漏れた。
あまりにも唐突だったかもしれない。
何を突然言い出すかのと、そう怪訝に思われてもおかしくはない。
だが、それでも久瀬は、興味深げに俺を見た。
「ほう?」
静かな目線が続けろと言ってきて、俺はそのまま話を進めた。
「そう、多分、妹がいい。まずは妹に引き合わせるんです。そうすれば――」
もしかしたら、戻ってくるかもしれない。正気の自分を、取り戻すかもしれない。
いや、きっとあいつは戻ってくる。
もう、俺の声では届かなかった。
でも、妹になら反応するはず。
それでだめでも、母親になら――
自分の思考の汚さに辟易する。
けど、恐らくあいつは、まだ中にいる。全てを棄ててしまったわけじゃない。
今なら、まだ――
「貴方は、あいつを戦力として使いたいのでしょう」
久瀬の希望は分かっている。
涼司を、理性を残した凶器として鍛え上げ、切り札に使いたいのだろう。
それは紛れもなく糞くらえな行為だが、目的を考えれば理解はできる。できてしまう。
そして恐らく、俺は涼司よりも久瀬に近い。非道も悪行も仕方がないと、それが理に適っているならと、そう割り切れてしまう人間だ。クソくらえなのは自分の方だと、本当はもう知っている。
「俺はあいつを救ってやりたい。我々の利害は一致しています。だから、」
嘘くさいセリフ。偽善者の言葉。
しかも、どれだけ上から目線の発言なんだ。
救ってやりたいというのは、単なる俺のわがままだろう。
狂えた方が、あいつはきっと幸せだ。そう願っていたことだって、あったはずなのに。
いざそうなったら『それは絶対、認めない』?
全く、自分でも呆れてしまう。ここまで俺は自己中心的な人間だったのか。
久瀬が俺を黙って見据える。感情を伺わせない、冷えた視線。
俺の思考など、とうにお見通しなのかもしれない。
だって、今日のあいつを見ただろう?
不満こそ漏らしていたが、どこか愉しそうだったじゃないか。
苦しくて苦しくて死にたそうで、今すぐ消えたいとでも言いたげな様子はなかったじゃないか。
そんなあいつを正気に戻す? それも、あいつの家族をダシにして?
それは間違いなく、あいつに殺されかねない行為だった。
でも、それでも。
「俺はあいつを、救いたい――」
我ながら情けない。後の言葉が続かない。
こんな様で、この男を説得するつもりだったのか。ばかな、俺はもう少し――
だが、
「いいだろう、手配しよう」
久瀬の言葉は、簡潔だった。
「やってみたまえ、君に任せる」
弾かれたように顔を上げると、久瀬は机をコツリと叩いた。
「ただし、期限は半月だ。その間に何とかしたまえ」
俺は思わず、頭を下げていた。
俺にとっても、この男は憎い復讐相手のはずなのに。
恨み辛みが消えたわけではなかったが、それ以上に、この男には叶わない。そう思わされる何かがあった。むしろ意外だったのは、こんな風に思う自分が、そう不快ではなかったことだ。
あぁくそ、この野郎。
それでも、ありがたく使わせてもらうぜ。
あいつを呼び戻す、そのためになら――




