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慟哭の夜を笑っていけ  作者: 水城リオ
第4章 混沌の向こう
54/87

4-4 狂人

 最悪だった。

 最低、最悪。


 彼は見事に、転げ落ちた。

 踏み留まって耐えるどころか、一足飛びに転がり堕ちた。

 俺の声など届かなかった。


 次に出会ったときには、既に。

 彼は単なる狂人だった。 



 ******************************

 <涼司>


 頭ん中で何かが喚いた。

 誰かが、何かが、おれの中に入ってきやがる。

 気持ちが悪い。気色が悪い。

 やめろ、ざけんな、入ってくんな……!

 もうこれ以上、おれに触れるな……!


 どうやら聴こえちゃいないらしい。

 代わりに鎖を打ち鳴らそうにも、生憎、手足も動きやしない。

 あぁくそ、理由は分かってる。

 何せ身体は、壁ン中。


 想像するだに笑える画ずら。

 胸まで壁に塗り込められて、頭一つが飛び出た形。

 呆れて言葉も出やしない。いや、嗤い声しか出てきやしねぇ。


 どうやら、おれを都合よく無力化する方法がなくなったらしい。

 馬鹿か貴様ら。制御できてこその兵器だろうが。手に負えねぇバケモノ作ってどうする気だよ?


 んん? 何ナニ、新型薬物、鋭意開発中だって?

 あぁそう、ムダムダ、もう諦めろ。おれが全部をぶっ潰してやるからよおォ!!


 大きく吠えると、壁も震える。瞬間、奴らも顔をしかめる。

 はは、いたのか。いつからいたんだ。この暇人どもが。

 さっさとこいつを外しやがれ。おれを使いに来たんだろうが!


 ははぁ、涼しい顔したクソ野郎にも脂汗が滲んでやがるぜ。ざまぁみやがれ、死ねよボケ!

 ……ああ? 何を平然としてやがるんだ。つまらねぇなあ。弾けろクソが。

 おれに臓物、晒してみせろ!



「――ずっとこの調子ですか」

「ああ。静かにしていたと思ったら、翌日からこんな具合だ。もう5日になるか」


 おいおい何だよ。俺を無視して、何の話をしてやがるんだ。

 聞いてんのかよ? このインテリどもが!


「露骨に、悪化しましたね……」


 はあぁ? 何をため息ついてやがる。おれを見ながら、何様なんだよ、てめぇらは。

 あぁそう、そうかよ俺様か。お前ら、昔から俺様だもんな。


 ああ? まァた溜め息か? だから何だよ、おれを使いに来たんだろうが。

 いいぜ、いいぜぇ? 喰らってやるよ、喰らい尽くしてやるからよ。

 だからさっさと、こいつを外せ!!



 ******************************

 <朝倉>


 再度の強烈な思念波に、思わず顔をしかめてしまった。

 頭の中で爆ぜる暴風。まともな意味など成さないのに、悪意と狂気は本物で。

 突き抜ける敵意と愉悦に瞬間、意識を砕かれかけて、俺は辛うじて息を吐いた。


「ここを出て、話をしても?」


 間近で何度も、この思念波を浴びるのは悪手だろう。

 まるで頭の中にナイフを差し込まれて、ぐちゃぐちゃと掻き回されている気分になる。例えて言うなら、身体の中から凌辱されているかのようで。

 その気分の悪さは、最悪だった。


「ああ。……これでは話にならん」


 久瀬の冷たい双眸に、再び痛苦が過ぎった気がした。



 ***



「さて、君の見立ては?」


 久瀬がそう口を開く。

 ここは、涼司を隔離した場所から数フロア離れた手狭な監視室だった。せいぜい、ビジネスホテルのツインルーム一室程度といった広さに、最低限の監視モニターと操作パネルが据えられた造り。どうやら極秘の監視ルームといったところらしい。


 ここには俺たち以外に誰もいなかった。そもそも、久瀬が涼司の様子を見に来たのも、相変わらずのお忍びのようだったから。事前に俺に打診したという違いはあったが。


 懲りてないのか? この男は――


 そう思いながらも、視線は涼司を追ってしまう。

 モニター越しに見える涼司は、時折ケタケタ嗤っては、概ね腐った様子でつまらなそうに不平を漏らしているだけだった。


「想定以上なのは認めます。ただ――」


 ただ、何だと言う気か。

 あれではまるで狂人だ。どう取り繕っても、狂ってる。

 先日はまだ、寸前で踏みとどまっているように見えたのに。


 久瀬は抑揚のない言葉を吐いた。


「あれでは、自我を奪わざるを得ないな。……もしくは、永遠に眠らせるか」


 とっさに、久瀬をねめつけてしまう。


「本気で、言っているのですか」

「私はいつでも本気だ。……だが、君はどうするね? あれを見て、まだ私を止めてみせるかね?」


 ぎりっと拳を握り込みそうになって、俺はふと違和感に気づいた

 いつもと変わらぬ風を装いながら、目の前の男が、ひどく憔悴して見えたことに。

 まさかこの男に限って、とは思うのだが。


「……後始末が、大変だったのですか」


 思わず、そう尋ねてしまった。

 俺は施設の深部に身を顰めていたから、詳細までは分からなかったが。突然の施設崩壊に、涼司の変貌、その対応に追われていたのではないだろうか。まして、秘密にしなければならないことの多い事案だ。仁科や他の者たちに疑いをもたれず采配するのは、さぞや骨の折れたことだろう。


 そんな唐突な俺の問いかけにも、久瀬は眉尻を上げただけで、すぐに小さく肩を竦めた。


「大したことではない。……が、そうだな、体調は少々優れないかもしれないな。まだまだ若いつもりでいたんだが、全く歳とは恐ろしい」


 久瀬にしては珍しい自虐めいた軽口に、俺はむしろ驚いてしまった。この男がいよいよ疲れていると思い知らされた気がして。

 だが、なぜそこまで――

 思いかけて、俺はふと気がついた。


 なぜ今も、微かに眉を顰めている。

 涼司の思念波が届かないよう、分厚い隔壁の向こうに来たはずだろう。


 瞬間、ふいに思い至った。


「まさか貴方、混じったのですか!」

「……混じった、とは?」


 久瀬が全身で無理解を示す。けれど、どこかで苦笑していて。


「とぼけないで下さい。あのとき、貴方は涼司の血を口にしたのでしょう……!」


 涼司を突き飛ばした後、久瀬の口元には血が滲んでいた。

 襲われた衝撃で口を切ったのだろうと思っていたが、あれがもし、涼司の血だったなら……。


「だとして、何か問題が? ワクチンを投与済みの私が今さら血液感染など、するはずもないのだがね」


 久瀬がうそぶく。


「貴方はオウガ因子の保有者だ。それも恐らく、限界ギリギリの。そんな貴方が涼司の血液を口にしたら、何らかの活性化があってもおかしくない。まして、」


 あのとき、涼司は久瀬の両手を抑え込み、馬乗りになっていた。その鋭い爪は久瀬の両手を深く抉っていた。

 涼司なら、その手についた血肉を口にする機会もあったはず。恐らく俺が去った後、兵士たちが来る前に。

 それが、何らかの契機になったんじゃないのか。


 オウガの能力は、まだ未知数だ。研究の最先端を行くはずのこの研究所ですら、全てを掴んでいるようには見えなかった。

 おまけに、今の涼司は規格外だ。驚くほどのスピードで、能力が進化していく。

 そんな状態で互いの血肉を取り込んだなら?


『ウィルスとの相性はさほど良くない』

 久瀬は常日頃からそう言っていたが、果たしてそれも、どこまで真実なのだろう。例え本当だとしても、何か因縁めいた繋がりを感じさせる二人だ。そんな二人が互いの一部を取り込んで、何の感応もしないでいられるものだろうか。


 そもそも、このウィルスは、原理こそ不明だが、保菌者同士で一種のテレパシーが働くらしい。それも、力の強いほうが弱者を従わせる要素が伺える。死者の側から生者に対しては、一気にハードルが高くなるようだが、それでも。

 あの時、あれだけの激情を直にぶつけられて、涼司と久瀬の間に、ダイレクトなホットラインでも形成されたんじゃないのか。だから、この男は今も痛烈な思念波に晒され続けているのでは?


 そう詰め寄ると、久瀬は椅子に腰かけたまま、やれやれと大仰な溜息をついて見せた。


「まあ、概ね“当たり”かな。彼もとんだ復讐をしてくれたものだよ。全くもって、やってくれる……」


 軽口が、反って不気味だった。

 当たりだって? 本当に?

 ならばなおのこと、久瀬にはもはや、涼司を“生かして”おく理由がない。戦力にもならず、ただの障害にしかならないのなら、早々に消して終わりではなかったのか。


 なのになぜ、それをしない?

 どうして、俺にだけ会いに来た?



「…………家族に、引き合わせてみましょう」


 ふいに、そう言葉が漏れた。

 あまりにも唐突だったかもしれない。

 何を突然言い出すかのと、そう怪訝に思われてもおかしくはない。

 だが、それでも久瀬は、興味深げに俺を見た。


「ほう?」


 静かな目線が続けろと言ってきて、俺はそのまま話を進めた。


「そう、多分、妹がいい。まずは妹に引き合わせるんです。そうすれば――」


 もしかしたら、戻ってくるかもしれない。正気の自分を、取り戻すかもしれない。

 いや、きっとあいつは戻ってくる。


 もう、俺の声では届かなかった。

 でも、妹になら反応するはず。

 それでだめでも、母親になら――


 自分の思考の汚さに辟易する。

 けど、恐らくあいつは、まだ中にいる。全てを棄ててしまったわけじゃない。

 今なら、まだ――


「貴方は、あいつを戦力として使いたいのでしょう」


 久瀬の希望は分かっている。

 涼司を、理性を残した凶器として鍛え上げ、切り札に使いたいのだろう。

 それは紛れもなく糞くらえな行為だが、目的を考えれば理解はできる。できてしまう。


 そして恐らく、俺は涼司よりも久瀬に近い。非道も悪行も仕方がないと、それが理に適っているならと、そう割り切れてしまう人間だ。クソくらえなのは自分の方だと、本当はもう知っている。


「俺はあいつを救ってやりたい。我々の利害は一致しています。だから、」


 嘘くさいセリフ。偽善者の言葉。

 しかも、どれだけ上から目線の発言なんだ。


 救ってやりたいというのは、単なる俺のわがままだろう。

 狂えた方が、あいつはきっと幸せだ。そう願っていたことだって、あったはずなのに。

 いざそうなったら『それは絶対、認めない』?

 全く、自分でも呆れてしまう。ここまで俺は自己中心的な人間だったのか。


 久瀬が俺を黙って見据える。感情を伺わせない、冷えた視線。

 俺の思考など、とうにお見通しなのかもしれない。


 だって、今日のあいつを見ただろう?

 不満こそ漏らしていたが、どこか愉しそうだったじゃないか。

 苦しくて苦しくて死にたそうで、今すぐ消えたいとでも言いたげな様子はなかったじゃないか。


 そんなあいつを正気に戻す? それも、あいつの家族をダシにして?

 それは間違いなく、あいつに殺されかねない行為だった。


 でも、それでも。

「俺はあいつを、救いたい――」


 我ながら情けない。後の言葉が続かない。

 こんなザマで、この男を説得するつもりだったのか。ばかな、俺はもう少し――


 だが、

「いいだろう、手配しよう」

 久瀬の言葉は、簡潔だった。


「やってみたまえ、君に任せる」


 弾かれたように顔を上げると、久瀬は机をコツリと叩いた。


「ただし、期限は半月だ。その間に何とかしたまえ」



 俺は思わず、頭を下げていた。

 俺にとっても、この男は憎い復讐相手のはずなのに。


 恨み辛みが消えたわけではなかったが、それ以上に、この男には叶わない。そう思わされる何かがあった。むしろ意外だったのは、こんな風に思う自分が、そう不快ではなかったことだ。


 あぁくそ、この野郎。

 それでも、ありがたく使わせてもらうぜ。


 あいつを呼び戻す、そのためになら――


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