3-10 慟哭
彼女の言っていた機会は、思った以上に早く訪れた。
中嶋さん、――じゃなくて裕香が姿を現してから3日後くらいだったと思う。
彼女の姿に勇気づけられて、奮起させられた思いがしたのは紛れもない事実だったけれど、その後の実験はそれ以上に応えた。
連日のように投与される薬物はオウガの力を抑えるためのもので。それはつまり、本来は活動停止しているはずの体細胞を再び殺すようなもので。そんな薬の仕上がりが日々向上しているようで、それに比例して私の身体は重くなっていった。
こんなんじゃ、いざってときに役に立てないじゃない。彼女の思いに、負けちゃうじゃない……。
口惜しくて、ほとんど意地で意識を繋ぐ。オウガとしての力の残滓をつかみ取る。
そんなときだったから、(間に合った……)私は少しだけほっとして裕香を見上げ、思わず目を見張ってしまった。
彼女の着衣は乱れていて、そこに飛び跳ねた血糊と血臭に、――瞳に宿る狂気に、何が起こったのかを瞬時に理解した。
「これで、貴方は動けるようになるはずだから」
そう言って、私に何かを投与する。
「これでどう?」
確かに、身体の痺れはすぐに消えた。力はさすがに、すぐに戻る気がしなかったけれど。
裕香が手早く私の拘束を解いて、上半身を起き上がらせてくる。そのまま、私の手を掴んで目を瞑った。
「この情報、何のことか分かる?」
裕香が何かを念じるようにすると、私の中に映像が駆け巡った。
これはきっと、ここで開発された対抗薬の解毒剤、その製法が眠る地下施設。
「うん、伝わったわよね? なら、急いでこの解毒剤を盗みだして。そうすればきっと貴方たちは助かるわ。貴方ならやれる。そうでしょう?」
まるで挑発するように言われて、睨みながらも頷いてやる。
「ええ。それは裕香もね……!」
彼女の手を取るように立ち上がる。
大丈夫、身体は動く。これならいけるわ。
そのまま、裕香の肩を支えるように腕を差し入れようとして。思いきり手を弾かれた。
「その前に、すべきことがあるでしょう?」
言って、胸元のボタンを外そうとする。
やると思った……!
その手を渾身の力で抑え込みながら、私は怒鳴った。
「馬鹿なことしてないで、さっさと行くわよ!」
「――真帆さん」
彼女が真剣な目で私を見つめる。
「分かっているんでしょう? 本当は」
眩暈がした。一瞬、彼女の顔がシンシアと重なって。
ぎゅっと唇を噛む。それくらいしかできない自分が憤ろしくて。
だって、裕香のお腹からは止めどなく血が溢れ出していて、本当は今にも理性が飛びそうだったから。
ここを抜け出してワクチンを奪取するにはオウガの力がいる。そんなことは分かっていたけれど。
できるはずない。だってそうでしょう。ばかにするんじゃないわよ、後輩の分際で……!
「貴方を食べたら、矢吹に合わせる顔がないでしょう……! いくら恋敵だからって、させていいことと悪いことの区別くらいつかないの!?」
久しぶりに怒り心頭になって、その勢いで吹っ飛びそうな理性を必死の思いで押さえつける。
裕香は意地悪く笑うような目をした。
「あら意外だな。私のこと、恋敵だと思ってくれるの……?」
思わず張り倒してやりたくなった。
「知らないわよ、譲らないわよ! だけど、あんたが勝手にいなくなったら、寝覚めが悪いじゃない。悪いなんてもんじゃないわ、最悪よ! でも大丈夫、馴らし用のオウガウィルスを投与すれば、そんな傷くらい、あっという間に治るから」
彼女がくすりと笑う気配があって。その手から、徐々に力が抜けていく。
「んー……、でも私、あんまり適性なかったからなぁ……」
私は裕香の頬を叩いた。勢いで噛みつきそうになる自分を抑えるのが、死ぬほど大変だったけれど。
「ちょっと! あんたは矢吹を私に取られて、大泣きする様を私に笑われるんだから。それまで、くたばるんじゃないわよ……!」
彼女は笑う。
「真帆さん、涼司君と約束したんでしょう? 最後まで付き合うって」
なんでそれを……!
目を見張る私に、裕香は少女のように笑った。
「悔しいけど、先にいってる。あなたは生き延びて、涼司君を守ってあげて」
そのまま、血濡れた手を私の口元を押しつけて来て。
裕香……っ!
理性が砕けた。
気付いた時には、裕香の姿は跡形もなくなっていた。
*****
暴れ出しそうになる激情を押さえつけて、その部屋を飛び出して。
解毒剤を盗み出すために、またどれだけか組織の奴らと殺り合って。
「この化け物め……」
呟かれた声は、妙に胸を抉ってきた。
いつもはなんてことないのに、今日に限って胸が苦しい。だけど、そんなこと。
「化け物? そうよ」
だから何? だったら何なの。
――だけど、それでも。
裕香のおかげで少しは力が戻ったけれど、途中で補給もできたけれど、元々弱っていた体に、さらに対抗薬を撃ち込まれて。
滅茶苦茶に暴れてやったのに、結局また捕らえられて、どこかに運び込まれる。そのまま意識が沈みそうになったけれど。
でもダメ、ダメなの、このままなんかで死ねないの。
だって裕香が私に託した。これを矢吹に届けるまでは……!
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不意に意識が覚醒した。
無理矢理、現実に引き戻されたような感覚があって、けど。
現実……? 現実って……?
ぐわんぐわんと耳鳴りがした。
おれは一体、何を見たんだ……何を見せられたんだろう……。
目の前の結城の顔が、ふいに中嶋とダブって見えて。
吐き気が込み上げ、そのまま脇にぶちまけた。
こんなこと、オウガになってから一度もなかったのに。
なんでお前らは……どうして……。
『ごめ……なさい……』
ごめん……? ごめんって、何……?
責めることなんてできない。できるはずがない。どうしてお前らを責めたりなんて……。
視界が歪んで、息ができない。
おれは何をしてたんだ。こいつらに、こんな思いまでさせて、一体何を……。
結城が手を伸ばしてくる。
そんな力、もう残っていないはずなのに。
『約束、守れなくて、ごめ……なさ……』
そのままぱたりと落ちた手を、ただ見ていることしかできなくて。
ただただ、結城の体を狂ったように掻き抱く。
なんで……こんなああぁ…………!!!




