3-8 血染めの抱擁
倉庫の扉を押し開けると、薄暗い階段がポッカリ口を開けていた。地下へと続く淀んだ空気。
こんなところに入口を隠してやがったのか……!
階段の先は折れ曲がり、先の様子は見通せない。
なぜだか、ひどい胸騒ぎがした。
階段の奥からは明らかな死臭が漂っていて、まるで底なしの沼におれを誘っているようで。
馬鹿な、死神はおれだ! 今さら何を怖がっている……!
降り積もった雪が周囲の音を吸収しているせいだろう。遠くから銃撃戦の音が断続的に響いてきたが、それ以外は奇妙な静けさが辺り一帯を支配していた。
まるで、ここだけ異界に繋がっているかのような、そんな馬鹿げた錯覚がこみ上げてくる。
ったく、いい加減にしろ……!
意識を集中させると、ほんの微かな呼吸音が伝わってきた。どこか断続的で、喘ぐような吐息。
まさか、結城か……?
とっさに駆けだしたくなった衝動を堪えて、おれはどうにか慎重に足を進めた。
大概のことになら、対処できる自信はあった。それでもこの先、何が待ち受けているかは分からない。だからこそ逸って自滅、そんな笑えない結果だけは避けようと、神経を尖らせながら先を急いだ。
**
階段は幾重にも折れ曲がっていた。寒く乾いた時期のはずなのに、重く淀んだ空気が次第に肌に纏わりついていく。これには嫌な記憶が呼覚まされた。
オウガにされる直前の、うだるような始まりの夏。地下深くへの階段を辿った時の、あの途方もない息苦しさを――
おれはぎゅっと目をつむり、頭を振った。
歩みを進めるほどに微かな吐息は大きくなって、それに比例するように、言葉にし難い不快感も増していく。
ちきしょう、無事でいてくれよ……!
祈るような気持ちで、曲がりくねった階段を百m近くも歩かされただろうか。ふいに、だだっ広い場所に出た。
体育館ほどの広さだろうか。仄暗い灯りに浮かび上がったそこは、ひどく殺風景な空間だった。
壁際には、むき出しの棚に乱雑に置かれた重火器の類いが見えて、中央に倒れていたのは戦闘服姿の男たちだった。
まるでひしめき合うように折り重なった兵士たち。一見しただけで、数十人はいるだろうか。
もしかしてこれ……、結城が一人でやったのか?
相変わらず、肌をピリピリと刺すような感覚がある。だが、弱々しい吐息以外に、生物の気配は感じられなかった。
「どこだ結城! いるなら返事してくれよ!」
その空間に踏み込み、中央付近まで来たときだった。
男たちの間で埋もれるように倒れていたのは――
結城っ!!
転げるように駆け寄り、男どもの死体を跳ね除ける。そうして露わになった姿を見て、全身から血の気が引いた。
結城の身体は穴だらけだった。
数センチほどの穴が無数に穿たれ、そこから血濡れの臓器と、骨が露わに――
「結城っ!!」
上半身を抱え起こすと、彼女はわずかに呻きながら、そのままぐったりと腕の中に倒れ込む。よく見れば全身が紫色に変色し始めていて、体組織の再生が全く追いついていない。
「……や…ぶき……?」
それでも微かな声が返ってきて、不覚にも涙が零れた。
「おれだ! 矢吹だ! 迎えに来たぜ……!」
「……やっと、会えた……」
薄っすらと瞼を開けた結城は、おれを見て安堵したように微笑んだ。
その姿に胸が詰まって、今すぐ自分をぶち殺してやりたくなった。
「結城、どうしてこんな……」
結城は震えながら手を差し伸べてくる。慌ててその手を握ると、少しだけうれしそうな顔をして、だけどすぐに、苦しげに言葉を紡ぐ。
「気をつけて、あいつらは新薬を開発したの。私達の体の再生を抑える薬……」
知っている。分かっている。だから助けに来たのに、これじゃあ、全然間に合っていない……!
暴走しかけた衝動を抑え込むのに、注意が削がれた。
「矢吹……っ!」
気づいた時には遅かった。背中に鋭い痛みが走る。
ちきしょう撃たれた! けど、これは……。
違和感には、すぐに気づいた。
傷の回復する気配がまるでなかった。
やけに重い頭を振り仰ぐと、男たちと目が合った。全て、床に倒れていたはずの戦闘服姿の男たち。
な……。
それが今や、次々に起き上がっておれたちを取り囲んでいる。
……罠か!
頭を殴られた気がした。
さっきまで、確かに人の気配はなかったのに。ただの死体で、生き残っている奴らなんて一人もいない。だけどそれが罠だったのか。意図的に、仮死状態にでもなっていやがったのか……!
あれだけ異様な気配を感じていたのに。まんまと引っ掛かった自分を、滅茶苦茶に殴り飛ばしてやりたかった。
だけど今は、この場を離脱するのが先だろう。泣き言なら、後でいくらでも聞いてやる!
そう思うのに、身体は痺れて動かない。指先すらも動かせない。
ちきしょう、ふざけんな……!
そんなセリフしか出てこない自分が死ぬほど腹立たしい。
いや、てめぇは死んで来い。百万回死んで来い!
「矢吹……!」
結城が震える手でおれの顔をさする。
「大丈夫だ、結城」
全然、大丈夫じゃなかった。
やられた。失敗した。大失態だ。
でも、だからって、こんな体たらくをいつまでも見せているわけにはいかない。
おれは結城に笑ってやる。それから意識を身体に向けて、異物を灼き殺すイメージで力を籠めた。
何を投与したのかは知らねぇが、クスリは邪魔だ。引っ込んでろ……!!
そう強く念じると、最低限の力は戻ってくる感覚があった。
だけど、身体は鉛のようで、まるで人並みの体力に堕ちて、その上、高熱にでも浮かされたような気分だった。
――くそったれが!
「その薬は不完全だが、明日には全身を侵すだろう」
ふいに日本語が聞こえた。
男たちの中にアジア系の奴でもいたらしい。そいつがおれの鼻先に立ち、歪んだ笑みを浮かべてきた。
「これで貴様も、明日にはそいつと一緒になれるさ。つまりは仲良く、死体に逆戻りってわけだ」
ふざけろ、一緒に生きるんだよ!
睨み上げると、恰幅のいい禿げ頭の欧米人が鷹揚に笑う。聞き取れない言語で何かを話すと、アジア系の男が眉を顰める。それから、おれに向かって何事かを吐き捨てた。
「おい喜べ。貴様らみたい化け物にも、せめて別れの時間をやるってさ。5分だけ待ってやる」
――なんだそりゃ。なにを博愛主義を振りかざしてやがるんだ?
暴風のような反抗心が頭をもたげる。
だけど、本当は分かっていた。
結城を抱えて、オウガの力が使えないこの状態で、たった一つの出口を目指すのは余りに厳しい。
このままでは本当に……くそ……くそっ、どうしたら……!
突然、結城がおれの顔を引き寄せてきた。
ヒンヤリと冷たい、なのに、とても柔らかい何かが唇に触れて。
なっ……!?
目を剥くおれに、口の中で違和感がした。
何だか硬い、小さな異物。
……これ、カプセルか……?
そのまま、唇を奪い続けてくる。どこにそんな力が残っていたかと思うような、舌を絡める濃厚なやつ。こんな時なのに、全身がカッと熱くなる。
男たちの嗤い声が辺りに響く。
結城はおれにカプセルを飲み下させると、そのままそこに崩れ臥した。
「結城? おい、結城……!」
肩を掴んで揺すると、微かに目を開ける。
『……その中に忍ばせたのはね、新薬に対するワクチンの製造法よ。あいつらから盗み出した……』
突然、頭の中に声が響いた。
「な、結城……?」
『喋らないで、手を触れて念じれば聞こえるから』
おれは目を瞬いた。
『何だよそれ。そんな能力、あったのか……?』
『ふふ、びっくりしたでしょう? シンシアから教わったのよ』
念話から聞こえる結城の声は、いつもと変わらず、どこか飄々とした調子で。
なのに、身体は息をするのも辛そうで、無茶苦茶キツそうなままで、
『無理してんじゃねぇよ……』
『それがあれば、あなたはきっと助かるわ。だからそれを持って、ここから逃げて……?』
だから、お前さ……!
『おれが助かるなら、お前もだろう?』
言いながら、おれにだって分かっていた。
結城の命が消え入りそうなことくらい。今にも光を失いそうで、ほんの少しの猶予もないって。
そんなこと、分かりたくもねぇのに!!
全身が震える。息が苦しい。
なんでだよ、どうして今……!
猛烈な後悔が押し寄せる。
あと一日早かったなら、そうしたら間に合ったのか? こんなことにはならずに済んだ? そうなのか?!
『ばかね、違うわ。あんた達の来るのが今日だったから、罠も今日になっただけ』
……何の、話だ?
『互いにスパイを紛れ込ませていたのね。遅かれ早かれ、あんた達が来ることはバレていた。それが昨日でも同じことよ。私達もそれを利用しようと動いただけ。……あんたの来るのが遅かったとかじゃ、ないからね』
声はどこかエラそうで、メチャクチャ上から目線なままで。
なのに結城の瞳からは、どんどん光が失われていって。
いや、違うだろ? 遅かっただろう? 一日二日なら大して違わなかったかもしれねぇが、おれがお前を待たせたから。もうずっと数カ月も前から、だから……!!
視界が歪む。目の前がぼやけて、結城の顔が上手く見えない。
目元を刷り上げ、結城を見つめる。血に染まってなお、綺麗な顔を。
前髪をそっと掻き分けてやりながら、おれはなんとか笑いを浮かべた。
『お前もばかだな、一人は寂しいんだろ……? おれだけ助けてどうするんだよ』
結城も小さく笑い返す。
『そうね。でも、……』
どこか虚ろで、掠れた笑顔で。
『そうしないと、中嶋さんに赦してもらえそうにないもの……』
『――中嶋?』
なぜ突然、その名前が出てくるのか分からなかった。
黙り込んだ結城に、胸の中を不吉な予感が満たしていく。
もうこれ以上、悪いことなんて無いはずなのに。
『中嶋がどうかしたのか? おい、結城?!』
『……彼女は、私が食べたの』
――……っ!!




