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慟哭の夜を笑っていけ  作者: 水城リオ
第2章 それぞれの選択
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2-10 結城

<結城 真帆>

 ひどい耳鳴りがした。 

 瞼の奥が明滅する。全身を灼く痛みに、意識を持っていかれそうになる。

 何――……


 それでも、混乱したのは、彼を目にするまでだった。

 彼の姿をとらえた途端、記憶が一気に引き寄せられる。全ての痛みを一瞬忘れた。


 彼は放心して見えた。地面にへたりこんだまま、手は力なく地面を掻いて、時折、喘ぐように嗚咽を漏らす。


 矢吹……。


 思わず近寄ろうとして、猛烈な痛みがその存在を訴えてきた。

 少し離れて、下半身だったものが目に入る。――下半身?


 意識した途端、激烈な痛みが襲ってきた。

 意識が飛びそうになった。

 『あるはずのものがない』感覚は初めてではなかったけれど、さすがにこれは初めてで。喉元から熱い濁流が込み上げてきて、理性を根こそぎ持っていかれそうになる。

 ――でも。


 視線を感じて振り返ると、彼が虚ろな目で私を見ていた。

 慌てて声を出そうとしたけれど、ひゅぅと鳴ったきり、ちっとも音はでてこない。

 代わりに激しくむせ返って、思わず自分の身体に悪態をついてしまう。

 もう少しくらい、言うことを聞いてくれたっていいでしょう?


「――悪ぃ」


 ふいに声が聞こえた。

 彼はぼうっとした目で私を眺めながら、「……悪ぃ」そう言って口を閉ざした。

 その瞳が、焦点を結ばなくなっていく。


 ――だめ。

 とっさにそう思った。

 それはだめよ。


 自分のせいだということは忘れた。

 知っているけれど忘れた。

 それはだめ、とにかくだめよ!


「や、ぶ……き……!」


 何とか声を絞り出すと、彼はのろのろと私を見た。虚ろな視線が少しだけ焦点を結ぶ。


「矢吹!」


 ここぞとばかりに声を張り上げると、矢吹は力なく私を眺めて、それからようやく口を開いた。


「悪ぃ、女の顔……殴っちまって……」


 ――そこ?

 まともな第一声がそれで、気にするところが違う気がして、思わず突っ込みを入れたくなる。

 でも、そんな風にした原因は私にあるのだと思い直して、どうにか首を振る。


「平気。オウガの回復力、舐めないでよね?」


 多分、これくらいにならもう治っている。

 というか、顔の傷なんて気合いで直す!

 お腹の方は、さすがに変わっている気がしなかったけれど。


 途端に、猛烈な飢餓感が込み上げてきた。お腹を意識したせいで、

 やだ、意識が――


 視界が黒く沈みかけて、それでも、彼の自失したような顔が視界の端に映って、なんとか自我を繋ぎとめる。彼の意識がどこかに行ってしまわないよう、私が私であるうちに、お願いだから、


「あなたは、逃げて――」

「止めろ!」


 苛烈な視線に息が詰まった。


「そのセリフは、二度と口にするな!」

「ごめ――」

「その言葉もだ!!」


 全身が震えた。

 淀んだ殺気が彼を覆っているのが見える。


 ……ごめんなさい。

 脳裏に渦巻くその言葉を飲み込んで、私はただ唇を噛んだ。

 本当に……ごめんなさい……。



 *****



 あの夏の日、むっとするほどの熱さと草いきれの充満したあの場所で。

 私は、自分の思考が黒く塗り潰されるのを感じていた。


 このまま、彼を逃がして本当にいいの?

 彼がこのまま居なくなったら――

 もし、彼がこのまま、私と一緒にいてくれたなら――?


 彼ならきっと蘇る。その確信はあった。

 仁科は絶対に、彼を簡単に殺したりなんかしない。

 シンシアを開放され、さんざんコケにされたあいつが、彼を簡単に殺すはずがない。あいつなら絶対にオウガとして蘇らせる。そうして彼なら、ただのオウガで終わったりしない。あれほど相性の良い体なら、きっと――



 始めは、ただの気まぐれだった。

 矢吹のことを、始めから好ましく思っていたわけじゃなかった。

 ただ、何となく放っておけないと思っただけ。やることが危なかっかしくて、見ているとこちらまでやきもきしたけど。

 それでも、彼と一緒に施設を辿るうちに、私の中で凝り固まっていた何かが、だんだんと溶けていくのを感じていた。

 ――本当はもう、だめだったのに。

 堕ちるところまで堕ちていたのに。



 こんな私でも、始めの頃は思っていたから。

 皆を助けたい、だなんて、そんな出来もしない夢物語を。


 オウガとして蘇り、シンシア以外に自我を保ったオウガの第一号として、研究所の奴らも慎重さを期していた頃。私に対する扱いが、少しだけマシになった頃。

 研究所の奴らは、どうすれば私と同じようなオウガを大量に生み出せるのかに躍起になっていた。

 次々と連れてこられる生贄たち。私のときと同じように、身体を痛めつけて、憎悪を植え付けて、そんな拷問紛いの実験が繰り返し行われた。

 正直、怒りでもう一度憤死するかと思った。


 もういい、もう沢山よ! こんなこと、私が全部終わらせてやるわ……!


 でも、だめだった。

 誰一人助けられない、助からない。

 悲嘆はいつか、嘲笑に変わった。

 私を化け物呼ばわりして、罵って、蔑んでくる奴ら。助ける価値もない人たち。

 だったら、私が食べたっていいでしょう?


 ……都合のいい言い訳だった。

 本当は分かっていた。

 私も奴らと同じ。何も変わらない。


 ……。

 …………。

 ………………だから何? 何だっていうの?

 どうせこの世界は狂ってる。好きなようにして何が悪いの。皆そうしているじゃない。そうよ、せいぜい踊り狂って、そして皆で死ぬがいいわ!



 そんな頃に出遭ったのが矢吹だった。

 始めは笑えた。連れてこられたばかりのモルモット。何にも知らない、かわいい生贄。なのに、シンシアの声が聞こえるだなんて。


 ねぇ知ってた? ウイルスとの相性が良いほど、ウイルス投与時の反動は激しいのよ? 一気に、体組織の組み換えが進行するから。生きたまま、オウガへの変態を遂げようとするから。

 シンシアの声が聞こえる?

 それはさぞ、反動が激しかったんでしょうね?

 それはさぞかし、仁科には苛められたんでしょうね?


 ちょっと、からかってやろうと思った。このまま生き延びられるだなんて、到底思えなかったけれど。少し知識を与えて、どこまでできるか試してやろうと思った。

 好きに逃げてみなさいよ。どうせ死ぬだろうけど。

 せめて、私の目の前で死ぬのは止めなさい。目障りだから。



 でも、あいつは暖かかった。眩しかった。

 本当にいるんだ、こんな奴……。

 少なからず衝撃だった。

 これがいわゆるお人好しっていう奴なのね。きっと愛情に囲まれて育ったんでしょう。今までは運がよかったのね、おめでとう。


 口から皮肉が飛び出そうになって、自分でも苦笑してしまったことを覚えている。

 仕方がないなぁ、まあ、私だしね。


 それでも、こんな私でも。

 思えたのよ、こいつだけは助けてやりたいと。

 こいつは、ここには似合わない。こんな地獄みたいな場所。

 だから、とっとと帰ればいいわ。そうよ、それができたなら、少しは意味があったのかもしれないじゃない。

 私がこんな姿になった意味も!


 オウガにされて初めて、そう思えたはずの相手を。助けたかったはずの人間を。

 結局、私は引きずり込んだ。この先の見えない地獄に――



 彼が仁科の手に堕ちる前、あの爆破の寸前で見せた顔が忘れられない。

 彼は私を見つけて、昏い目を輝かせた。

 心底救われたような顔をした。


 その瞬間、後悔した。

 なんてことをしたんだろう? 私は何を――

 だめよだめ! お願い逃げて――!!!



 長く胸を蝕んでいた後悔。

 罪悪感なんて、オウガになってからずっと忘れていたのに。

 この1年、彼をオウガにしてしまってからは、どこかがずっと痛かった。

 飢餓に狂ってしまいそうなときも、恍惚に酔ってしまいそうなときも。

 どうしても忘れられなかった。


 だから、どうにかして彼を助け出したかった。何としてでも救い出したかった。

 その思いだけは、どんどん強くなっていって。


 どんな手段を使ってでも、他はどうなってもいいから。

 だからお願い、彼だけは助けて――



 *****



「なぜ、話した……」

 矢吹が呟く。

 何のことか、とは尋ねる必要もないけれど。


「ずっと黙っていることだって、できたはずだろ……?」


 むしろ、なぜ黙っていてくれなかった。そう言っているようにすら感じられた。


 ごめんなさい。

 とっさにそう答えそうになって、辛うじてその言葉を飲み込む。

 頭の中で別の答えを探してみたけれど、上手い言葉は出てこなくて。


「私の、勝手よ」

 そう答えると、矢吹は顔を険しくした。

 胸の奥が痛んだけれど、気づかない振りして口を開く。


「私だって、言うつもりはなかったの。でも、仁科にはもう見抜かれていたし。あいつに言われるくらいなら、私の口から言いたかった。――それに」


 ふと、脳裏に浮かんだ言葉が口をついた。

「これ以上、あんたを騙したくなかった」


 言ってしまってから、あ、と思ったけれど。

 急に、つかえがとれた気がした。


「今まで、ありがとう」

 この言葉なら、いいのよね……?


「今はちょっとアレだけど。もう少ししたら、奴らを足止めするくらいなら出来ると思うから。だから、あんたは――」


 言いかけて、ひどく剣呑な気配に息を飲む。


「ふざけんなよ。まだ何も終わっちゃいない。なのに、お前一人だけ退場するつもりか? えぇ?」


 ――でも。

 と思った瞬間、頭が揺れた。彼が私の胸倉を掴み上げたのだと理解して、


「勝手に要らねぇ話を聞かせやがって。自分一人だけすっきりして死のうだなんて甘いんだよ!」

「でもっ、でも、私にはもう……!」

「ごちゃごちゃ言ってんじゃねぇ!」


 矢吹の気迫に、体が震えた。


「てめぇはおれを地獄に引きずり込んだ。その責任は取ってもらうぜ。そのくらいの覚悟はあるんだろ!」

「……私に、どうしろと……」


「ここを脱出して奴らを追い詰める。そして全て終わらせる。――最後までおれに付き合え!」


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