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慟哭の夜を笑っていけ  作者: 水城リオ
第2章 それぞれの選択
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2-7 中嶋 裕香

本章は視点が変わります。

 今は何時だろう……?


 夢うつつのまま、ぼんやり辺りを見回すと、辺りはまだ薄暗かった。

 夜中、なのかしら。


「結衣ちゃん、いる……?」


 習慣のように確認しただけで、特に返事を期待したわけじゃない。それでも、傍らに温もりを感じただけで、なんとなくほっとした。

 耳をすませば、規則正しい寝息が聞こえてくる。どこか狡いような気もしたけれど、ずっと人肌を感じられることがありがたかった。


 改めて周囲を見れば、部屋の明かりが控えめになっていた。壁に埋め込まれたデジタル時計は深夜2時半を指している。

 まだ夜中、なのね。


 監禁されてからどれほど時間が経ったのか、もう日付の感覚はさっぱり狂ってしまった。少なくとも、地下牢から出されたのは随分と前になる。

 それからは、もうずっと長いこと、隔離病棟のような場所にいた。一番最初に監禁された部屋とよく似た、ベッドが10台ほども入りそうな空間。そこに、私と結衣ちゃん用のパイプベッドが2台しつらえられていた。壁には黒板ほどの大きさの鏡が嵌め込まれていて、その他にはやっぱり見事に何もなかったけれど。 

 相変わらず、外に繋がるような窓もない。それでも、日中と夜中では照度が変わるようになっていて、数日に一度は女性兵士の監視下でシャワーを浴びられるようになっていた。しかも時折、フィットネスルームのような場所に連れ出されて、強制的に運動させられたりもする。

 ある意味で規則正しい生活を送れるようになっていて、そのせいか、未だ正気を失うこともできずにいた。


 ただ、結衣ちゃんは……。


 あの地下牢から出されたのはいつだったのか、もう覚えていない。

 じめじめとした陰鬱な場所で、言葉にし難い腐臭にまみれて、(すぐにそれも分からなくなったけれど、)記憶が飛び飛びになっていた。

 気づいた時には、結衣ちゃんは歌うようになっていて、アイツはいなくなっていて、涼司君はずっと、変わらなかった。ただずっと、部屋の隅に佇んでいた。


 部屋を移されてからは、涼司君にも拘束具が付けられるようになっていたけれど。それはあくまで部屋から出られないようにするためのもので、同じ空間にいる私たちを手にかけようとすれば、できる状態だったのだけれど。

 それでもやっぱり、彼は決して、私たちに手を出そうとはしなかった。


 そのせいか、今では強制的な“食事”が定期的に行われるようになっていた。

 それはさすがに直視できなくて、いつも部屋の隅に逃げるけれど、それもただ習慣になってしまっただけかもしれない。涼司君が何かを口にする姿を見ても、余り心揺れることはなくなっていた。

 何だか無性に哀しくなる気もしたけれど、どこかで安堵する自分も感じていた。

 彼がまだ“居る”ことに。

 居続けてくれることに。


 始めの頃は、時折、無表情のアイツが視界に飛び込んでくることがあって、それにはひどく腹が立った。やり場のないモヤモヤに悩まされて、暫らくはずっと辟易していたけれど、いつしかそれも気にならなくなった。


 ……あぁ、と言っても、深く考えようとすると、やっぱりまだダメみたいだけれど。それでも、いつまでこんな生活が続くのとか、そんなことを考えるのは止めてしまった。涼司君が居る限り、このままなのだろうと思っていたし、いつか居なくなったのなら。


 思って、私は結衣ちゃんの手を握る。

 終わりになるだけ、だろうから。


 ぶり返した鈍痛を忘れようと再び睡魔に身を任せようとした私は、突き上げるような衝撃に目を開けた。


 ――何?

 何だか焦げ臭い気がした。いえ、それだけじゃなく。

 部屋の中に誰か、居る?


「矢吹! まだくたばっていないわね!」


 鋭く響いた女性の声に、私は今度こそ目を醒ました。



 ***



 体を起こすと、部屋の中には見知らぬ女性が立っていた。

 薄明りの中、白衣を着た女性の髪は真っ白で、その手に抱えているのは――


 思わず声を飲んでしまった。

 そんな私に、女性は冷たい視線を投げてくる。その瞳はやっぱり血のように真っ赤で、つい声を上げそうになったけれど。

 女性はすぐにふいと視線を移して、そのまま部屋の隅の涼司君の傍にしゃがみ込んだ。


「ほら、食べなさい!」


 上半身を抱え起こして、手にしたものを近づける。

 涼司君はぼんやりとした様子で目を開く。それからすぐに、目の前の獲物を食い入るように見つめた。瞳が揺らいで、口元が開く。

 聞き慣れた咀嚼音が響くのと、血の臭気が充満するのはほぼ同時だった。


 これは、何――?


 何が起こっているのか分からない。

 いえ、分かるけれど、分かりたくなかった。

 いつもそうだ。いつだって私は、ただ成り行きを見守ることしかできない――



 ふいに、涼司君の声がした。


「誰、だ……?」


 随分と久しぶりに聞いた声。敵意の滲んだ声であっても、少しだけほっとする。――けど、


「え、ユウ……キ!?」

 

 瞬間、胸が疼いた。

 涼司君の瞳がひたと彼女を見据えて、その名前らしき単語を口にしたことに。


 涼司君は上半身を起こして、彼女の肩をがっしりと掴む。そのまま凝然と彼女を見据えてから、


「あんたもやっぱり――……。すまねぇ」


 苦しそうに呻いた。


 息苦しさに胸が詰まった。

 あんな風に喋れたんだ……。そのことが意外だった。

 まるで昔みたいに。あんな風に、気遣うみたいに。


 女性は、大仰にため息をついた。


「あんたね、何を謝っているの?」

「いや、でも」


 涼司君が口ごもる。私にはもう、決して向けないような声音で――。

 女性が再びため息をついた。


「私がこの姿になったのは、別のあんたのせいでも何でもないわよ。ほら、時間がないんだから、さっさと立って」


 言われて、はっとしたように身体を起こす。


「そうだ。あんた、どうしてここに」


 周囲を見回し、私と寝ぼけ眼の結衣ちゃんが視界に入った様子で。涼司君は途端に険しい顔になり、そのまま困惑の表情を浮かべた。


「というか、今、どうなってるんだ……?」



 ***



 その女性によれば、今は敵対勢力が攻めてきている真っ最中だという。

 しかも、それを手引きしたのは彼女自身で、

「もちろん、あんたを助けに来たのよ」

 そう、あっけらかんと言い放った。


 涼司君は驚愕の表情を浮かべていたけれど、私も声を出せずにいた。

 彼女に、いないものとして扱われているせいじゃない。

 そんなことができるだなんて、思いもよらなかったから。


 だって、閉じた時間だと思っていた。

 このまま、終わりに向かう時間だと思っていた。

 その止まった時間が動き出すだなんて、どうして想像できただろう?


「さぁ、とりあえずここを出るわよ。余り悠長なことは言っていられない。どちらの勢力にも、捕まるわけにはいかないんだから」


 そう促した女性、――ユウキさんの手を借りながら、涼司君は「その前に」といって彼女を見返す。


「逃げた後は、どうするんだ……?」


 感情を殺したような、低い声。

 ユウキさんはただ肩を竦めた。


「あんたはどうしたいの」


 涼司君が戸惑うような顔をする。


「あんたが、決めなさいよ」


 絶句した彼に、ユウキさんはもう一度繰り返した。

「あんたは、どうしたいの?」


 しばらく黙り込んでいた涼司君は、やがて小さく呟いた。


「そんなの、決まってんだろ」


 ユウキさんは肩をすくめた。

「まぁいいわ。後のことはともかく、今はここを脱出すること。いいわね?」


 涼司君は、何かを飲み下すような顔で頷く。

 それから、固唾を飲んで見守っていた私に、ちらりと視線を投げてきた。


「あいつらは?」


 反射的に肩が震えた。

 彼とほんの少し、視線が交わったことに。その彼が視線をすぐに逸らせたことに。

 ただずきりと胸が疼く。


 ユウキさんは面倒そうにため息をつく。

「連れてはいけない、分かるでしょう?」


 わかっている、一緒に行けるとは思っていない。殺されないだけましだと思わなければいけない。でも。

 言いようのない不安が胸を占めた。


 行ってしまう。彼がまた、私の知らないどこか遠くに行ってしまう……。


 涼司君は一度目を閉じてから、再び小さく頷いた。

「わかった」


 ふいに視界が歪んだ。

 自分でもよく分からない。けれど、今度こそ最後なんだと思ったら、急に涙が込み上げてきた。


 これで終わりにはしたくなかった。

 どんな形であっても、彼ともっと一緒にいたかった。

 でも、そんなことを言えるはずもなくて、だけどせめて、彼に謝らなければいけないと思って。

 そう思うのに、やっぱり言葉は出てこない。


『……め……なさ……ぃ……』


 堪えた嗚咽とともに微かに吐息が漏れたけれど、多分、音にはなっていなかったと思う。

 彼がどんな表情をしているのかわからない。怖くて顔なんか見られない。

 ただ時が過ぎるのを待つだけの、不甲斐なくて大嫌いな私。


 ごめんね、涼司君。今までずっと、ずっとずっと……!




 そのとき、突然、視界が明るくなった。

 反射的に顔を上げると、涙で歪んだ視野に、誰かの姿が浮かび上がった。


『そう思い通りにさせると思うか?』


 ……この声、まさか。

 涙をこすり上げると、鏡張りの大窓に見たくもない人物が映っていた。


「仁、科ぁ――!」


 憎悪の籠った声が響いた。

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