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慟哭の夜を笑っていけ  作者: 水城リオ
第2章 それぞれの選択
24/87

2-5 転機

「矢吹を助けなさい」


 凛とした女の声。

 突然、背後からかけられた声に、俺は驚いて振り返った。


 ***


 仁科に請うて、牢を出てから約1年。

 はじめは、山ほどの雑務を押し付けられた。

 だが、そういったことは得意な方だ。手早く雑務を処理していれば、やがてそれなりに重宝がられるようにもなってくる。


 とはいえ、もちろん監視の目は張り付いていた。どこに行くにも兵士が同伴し、何か挙動不審な真似をすれば、即座に殺され、奴らの餌にされるであろうことは容易に想像がついた。


 曲がりなりにも監視の目が緩まったのは、化け物どもの餌の準備を手伝うようになってからだろう。

 つまり、アレだ。

 どこかの誰かを被検体に、オウガを生み出す実験に手を貸すこと。

 見ているだけでなく、実際に手を下すこと。


 ……初めてのときは、吐きそうになった。

 実際に吐いた。

 あてがわれた自室で、胃の中が空になるまで吐き出した。

 そこにも監視カメラはあったから余り意味はないのだが、少なくとも奴らの前で吐くことだけは避けた。その方が奴らにとっては使える駒と言えるだろう?


 それを2度、3度と繰り返すうち、次第に心も動かなくなっていく。ただのルーチンとしてこなせるようになっていく。


 自分の非情さに今さらながら苦笑した。

 時折、兵士の奴らと談笑なんかもしたりして、俺って本当に根は悪党なのだなと思い知る。

 ただまぁ、奴らの卑劣な実験に手を貸す度に監視の目が緩くなっていくのは、狙い通りだったと言えるだろう。

 少しずつ、収集できる情報も増えていく。

 あいつらを救い出す可能性が増えていく。


 だけど、余り悠長なことは言っていられなかった。

 涼司や中嶋たちの様子は、稀に同伴させられる涼司の食事の際に、窺い知れた。

 涼司はやはり、あくまで中嶋たちには手を出さず、このままでは本当に干からびると思われたのだろう。定期的に外部から食事が与えられていた。だから問題は、中嶋や水野たちの方だった。


 はじめの方こそ、仁科の背後に控える俺を見る度、燃えるような憎悪と侮蔑の眼差しを向けてきた中嶋も、今では全く顔色を変えなくなっていた。ただ無機質な光を宿して、興味なさそうに俺を眺めるだけ。

 一方の水野は、何かを口ずさみながら、ずっと笑い続けている。まるで小さな子供か何かのようだった。


 ……まずいな。

 俺は内心で臍を噛んだ。発狂して手が付けられなくなるよりはマシだが、これでは例え救い出しても、正気には戻れないかもしれない。

 何よりまずいのは、生きた被検体としての価値を失いつつあることだった。このままいけば、他所で殺され、他のオウガの餌になるか、十中八九、失敗に終わるオウガ実験の被検体にされるかだろう。なぜ、今でもそうされずに養われているのか、不思議なほどだった。


 ちなみに、他の奴らを犠牲にしておいて、こいつ等だけ助けよう、などと考えている矛盾は百も承知だ。

 それでも、俺は決めたんだ。涼司だけは助け出す。

 そうしてやっぱり、出来ることなら、こいつ等も助け出してやりたかった。


 だが、組織の手先として働くようになって早1年。知れば知るほど、ここから逃げ出すのは至難の業だと実感させられる。涼司を、ましてこいつら全員を助け出す手立てなど、容易に構築できなかった。急いて事を仕損じれば、一貫の終わりだ。


 ……そう、涼司や池田とは違う。お前等にも責任はある。だから耐えろ。もう少しぐらい、耐えて見せろ。


 逸る気持ちをなんとか押さえつけ、俺は機会を得るための画姿の構築に勤しんでいた。

 そんなときだった。再び、オウガどもの暴走が起こったのは。


 どこかで生じた爆発らしき衝撃の後、一斉に警告アラームが鳴り響く。

 1年前の暴動を踏まえて強化されたはずのオウガ鎮圧システムが作動する。

 だが、一向に事態が収集する気配はない。

 やがて、兵士たちの怒声に交じって、何者かが外部から侵入したことが伝わってきた。それも、複数の侵入者――


 チャンスだと思った。

 侵入者が誰かなど知る由もないが、この組織の敵対集団であることは間違いない。

 このまま研究が進み、オウガを実戦に投入されたら、その脅威は相当なものとなるだろう。もし、すでに情報が外部に洩れているのなら、きっと妨害工作や開発競争は熾烈を極めているに違いない。


 結局のところ、侵入者はこの組織と似たようなロクでもない集団かもしれないし、その可能性の方が高いのだが。さらには、今や組織の末端である俺が捕まったらどうなるかなど想像に難くないのだが、そんなリスクはこの際、無視することにした。


 今を逃したら、次の機会がいつになるか分からない。恐らく全員を助ける機会など、もう二度と訪れないだろう。きっとまた、誰かが失われる――


 俺は騒ぎを収集させようと奔走する振りをして、システムを遠隔コントロールできる小部屋に紛れ込み、脱出ルートの構築に着手した。


 そのときだった。突然、背後から呼びかけられたのは。



 ***



 目に飛び込んできたのは、色の抜けた白銀の髪に、真紅の瞳。

 通気口に嵌められていた格子状の金属板が床に落ち、その傍らに女が立っていた。


「貴方は……」


 涼司ではない。女のオウガだった。

 だが、その姿になってまともに意思疎通可能なのは、いまだに涼司を置いて、他にはいなかったはずだが――


「あんたは知らなくとも、私はあんたを知ってるわ。何度も矢吹を裏切った、屑みたいな人間だってこともね」


 思わず目を見開き、それから苦笑してしまった。

 言われたことに驚いたせいでもあるし、その言い様のせいでもあっただろう。


「貴方が私の、――俺の死というわけですか」


 外面向けの一人称を、最も言いやすい形に置き換えて言葉を紡ぐ。

 俺はきっと、この女に殺されるだろう。

 なぜだか、そんな予感があった。


「だが、涼司を救えと言う。一体何をして欲しいんです? ……餌になれというのは、願わくば、涼司を助けた後にして欲しいのですが」


 女は胡乱な目を向けてきた。

「あんた、何を考えてるの」


 俺は肩を竦めて見せた。


「俺の望みを叶えてくれる者がいるのなら、それでもいいという話です。まあ、贅沢を言えば、良くはないんですが。――ただまぁ、突然、人生を終了させられることへの文句は、言える立場にないですからね。俺はもう立派な犯罪者だ」


 女はさらに眉を顰めた。

「あんた、何なの」


 繰り返された問いに、俺は顔を上げて女を見つめた。


 整った顔立ちの女だと思った。年は……恐らく、俺達より少し上だろう。

 中嶋と似た雰囲気を纏っていたが、ぞんざいな命令口調で話す辺り、彼女より豪胆な気性の持ち主かもしれない。


「貴方こそ、涼司とはどういう関係なんです?」


 俺を知っているということは……。


 羽織っている真新しい白衣は、誰かの者を拝借したように見えるが、もしかするとこの女は、本当に研究所の人間だったのかもしれない。

 だとしたら。


 胸元まで伸びた白銀の髪を無造作に耳元に掻き上げて、女は射抜くように俺を見据える。それから、口早に言い捨てた。


「矢吹には借りがあるのよ。だから返す。端的に言えば、あいつを牢から連れ出したいの」


 言い終わるや否や、すぐ目の前に女がいた。

 一瞬のことで、反応することもできなかった。

 首筋がチリチリと痛む。見れば、女の腕がおれの首元に突き出されていた。


「さあ、さっさとシステムをダウンさせなさい。あんたがやらないなら、私がやってもいいんだから」


 おれの首など、いつでも掻き切れるという訳か。

 俺は両手を上げて見せた。


「もうやりましたよ、可能な範囲でね。まだ生きているのは、ここからでは切断できないシステムと、ただの監視システムです。勝手が分からないと、適切な対応も取れないでしょう?」


 女はさっと計器に目を走らせ、それが嘘でないことを理解したようだった。

 この理解の早さ、間違いなく研究所の人間だろう。

 それが今や、オウガに身をやつしているということは――


「ひょっとして、貴方が涼司を導いていたのですか」


 女はびくりと俺を振返った。その途端、首筋に小さな痛みが走る。


「何の、話」

 酷く冷たい、真紅の瞳。


 何だろう。

 何か、この女の琴線に触れるようなことでも言ったんだろうか?

 俺は肩を竦めてみせた。


「生前の涼司は、誰かの助けを借りていたようでしたので。誰かに手当されたり、どこからか情報を仕入れていたり。それが、貴方だったのかと思いまして」


 女は俺を射るように見つめ、それからようやく、首筋から手を離した。

 どうやら、すぐにどうこうしようという気は失せたらしい。

 思わず、吐息を漏らしてしまった。


 何せ相手はオウガだ。何がきっかけで豹変するか分かったものじゃない。

 涼司にしても、そう思わせる何かがあった。

 やはり、人とはもう相容れない存在なのかもしれない。

 だけど、それでも――


 女は再度、監視モニターに視線を向けた。

 画面の向こうで、オウガたちが順調に施設内を混乱に陥れる様子を確認し、改めて不審そうに俺を見る。


「随分と手際が良いのね。まるで私達が行動を起こすのを待っていたみたい。それとも、これも罠なのかしら?」


 返答次第では、今すぐ殺してやると言わんばかりの殺気だった。

 苦笑する俺に、女は首をかしげてくる。


「本当を言うと、あんたはぶち殺してやろうと思っていたんだけど」


 値踏みするような目で俺を眺めつつ、


「でも、このまま殺したんじゃ、何だか釈然としないわね。ねぇあんた。あんたは単に、生き汚い蝙蝠野郎ってことでいいのよね?」


 ――それをわざわざ本人に聞くか?


 どうやら、返答を間違えると即死コースになりそうだった。

 この女なら、冗談抜きでそうするだろうことが分かるのに、なぜか、余り恐怖を覚えなかった。


 正直、この女の存在は、俺にとっても想定外だった。

 涼司と同じく、理性を残したオウガ。こんなオウガが自由にこの島を闊歩していると知っていたなら、もっと別の計画を練っていたんだが。


 いや、涼司を助けるという目的を果たすだけなら、結果は上出来かもしれない。単に、俺の命が危険に晒されているだけだ。


「まぁ、生き汚いというのは否定しませんよ。ただ、あいつを助けたいと思っているのも嘘ではないのでね。信じてもらえるかは分かりませんが」


 我ながら、馬鹿正直な返答をしていると思った。もう少し言い様があるようにも思ったが、なぜか余り取り繕う気になれなかった。

 死んでもいいと思っているわけではなかったが、この女になら仕方がない、という奇妙な感覚があった。それは涼司に相対するときと、ひどく似た感覚だった。この女なら、きっと涼司を救い出してくれるだろう。そんな気がしたせいも、あったかもしれない。


 幾分投げやりな俺の回答に、女は眉を顰める。

 直後、喉が強烈な痛みを訴えた。


 すごい力だった。

 女とはいえオウガだ。話にならないほどの力量差がある。

 反射的にその手から逃れようとしたが、まるで鋼鉄で押さえつけられたかのようにビクともしない。


 ……これはダメだ。


 抵抗は全くの無駄だと思えたことが、反って良かったのかもしれない。

 全身から力が抜けた。


 俺を殺す気なら、とっくにやっているだろう。

 こんな回りくどい真似をする辺り、まだ何か聞きたいことがあるに違いない。

 そう思っていると、案の定、女が最後通牒のように尋ねてきた。


「ねぇ、一つ聞きたいんだけど。もし、自分の命と矢吹の命、どちらかしか救えない状況に陥ったら、あんたはどうする?」


 思わず、目を瞬いてしまった。


「自分の命を優先しますよ」


 普通に考えれば、大多数はそうするだろう。

 涼司ならいざ知らず。

 そのくらい、貴方も既に知っているのでは?


「ただまぁ、一度くらいは、あいつに借りを返したいと思っているんですよ。思っているだけかもしれませんがね」


 言いながら、この以上ないほど、いい加減な答えだと思った。

 自分でも少し呆れる。これでは、殺してくれと言っているようなものかもしれない。

 だけど、これで死ぬことになっても、知ったことかという思いがどこかにあった。


 自分は取るに足らない人間だ。それは嫌というほど思い知らされた。

 今更それを否定する気もなかった。卑小な人間で結構。だから何だと、そう思う。


 ……ただ、もしも過去に戻れるのなら。

 あいつがまだ、生きていた時間に戻れるのなら。

 俺は今度こそ、あいつを助けるだろう。絶対に裏切ったりはしないだろう。


 でも、それは今の記憶があるからこそだ。今を知っているから、あいつを助けたいと思うのであって、もしも全てを忘れて過去に戻ったら、俺はきっと同じことを繰り返す。何度でもあいつを裏切るだろう。だから、俺は……――ッ!


 首筋が猛烈に痛んだ。

 視界の端に、歪んだ笑みが映る。

 本能的に爪を立てると、ふっと体が解放された。


 助かった、と思う間もなく下腹部に激痛が走り、間髪をおかず、全身が激しく打ちつけられる。

 ぶわっと錆びくさいものが込み上げ、それを吐き出すと同時に、顔面にも激痛が走った。

 ついで、体が浮くような感覚。

 次の瞬間、腹や背中にも形容しがたい衝撃が走った。


 どうやら、裁可が下ったらしい。

 一息で殺す気はないようだが、かといって、見逃す気もないようだった。


 やっぱり、こうなるか――

 激烈な痛みと共に、骨の折れる嫌な音がする。

 これは……肋骨いったかな……。

 半ば朦朧としながら、そんなことを思った。

 全身を襲う衝撃は変わらないのに、痛みだけが、だんだんと鈍くなってくるようで。


 このまま、死ぬのか……?


 ふと、目頭が熱くなった。

 このまま死んだら、余りにも中途半端だ。

 涼司を殺して、他人を巻き添えにして、そして最期がこのザマか? こんな風に死ぬために、俺はあいつを裏切ったのか……?


 不覚にも涙が零れた。


 こんな風に死ぬのなら、さっさと死んでしまえばよかったのに。

 あいつを裏切るべきじゃなかった。

 あいつが死ぬことはなかった。

 すまない、すまなかった、涼司――……


 悔しくて情けなくて、だけどその一方で、これも報いだと思う自分がどこかにいる。俺だってこんなふうに、幾人もの命を奪ってきたんだから。


 ……あぁ、本当に馬鹿みたいだ……。

 俺にできることはもう何一つ残されていなくて、意識も曖昧になりかけた頃。


 全身がカっと熱くなった。


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