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慟哭の夜を笑っていけ  作者: 水城リオ
第2章 それぞれの選択
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2-4 どん詰まりからの決意

 仁科は幾分、満足げな顔をしてその場を出ていった。

 涼司に食事をさせたことで、今日のところは良しにしよう、とでもいうつもりか。この分なら、そう遠くない未来、俺達を喰い殺してくれるとでも踏んだのか。


 ……それはあながち、間違ってはいないんだろう。

 ここまで耐えて見せた涼司のことだ。きっと理性の続く限り、俺達を喰おうとはしないだろうが。

 それでも、理性を無くすほど空腹に冒されれば、きっと涼司は俺達を襲う。

 そうしたら、どうなるだろう?

 俺はふと、そう思った。

 もし、俺たちまで手に掛けたなら。あいつは、あいつのままでいられるだろうか?


 それは何より恐ろしいことに思え、でも、とすぐに反駁する。

 本当にそうだろうか?



 一日経ち、二日経ち、ただ無為に過ごす日々が続く。

 何もすることがなく、何もできない。

 だからひたすら、堂々巡りの思考を続けてしまう。

 涼司はなぜ、俺たちを殺さないのか、と。



 はじめは堕ちたと思った。変わったと思った。

 オウガとして蘇り、確かにあいつは歪んで見えた。

 だけど違った。違うと知った。

 あいつの本質は少しも変わってなどいなかったのだと。


 仮に俺達があいつを非難したところで。

 こんな飼い殺しのような目に遭うくらいなら、さっさと殺してくれと頼んだところで、あいつはギリギリまで手を出さないだろう。それに対する言い訳など、始めからする気などないんだろう。


 ……あるいはこれが、涼司にとっての『自分のため』なのかもしれない。

 相手の心情などお構いなし。己の信念は曲げないという、ただ、その意地で動いているのかもしれない。

 考えてみれば実に迷惑な在り方で、聖人君子どころか、最も自分勝手な人間は、涼司なのかもしれなかった。


 ――ただ、それでも。


 その選択は、やっぱり自分を最後にしている。

 自分が楽になる道ではなく、ひたすら苦痛を我慢し続けるなど。

 自己犠牲。どうしてもそんな言葉が浮かんでしまう。……全く、どうしてこうも嫌味な奴なんだ。

 そうして同時に馬鹿だと思った。ただの阿呆だと。


 例えお前が俺達に手を出さなくても、いずれ仁科は俺達を殺すだろう。

 生かしておくはずが無い。今さら平穏無事の生活に戻れるなんて、どう考えてもあり得ない。そんな奴らを一時的に助けて、お前が苦しむなんて、本当に馬鹿だと思った。

 そうして、そんなあいつに勝手に嫉妬して、あいつを陥れた俺は、それ以上の馬鹿だった。

 本当に笑ってしまう。ここまできて、取り返しの付かないこんなところまで来て、ようやく気付くなんて。


 自分が苛立たしくて堪らない。

 いっそ意識を失っている涼司のそばに行って、自分の腕をあいつの口に突っ込んでやろうかとさえ思う。そうすれば多分、あいつは俺を殺してくれるだろう。自分が何をしているのか分からないまま、俺を喰い殺してくれるだろう。


 実を言えば、もう少しでそれを実践しそうになったこともある。

 思わず駆け出しそうになった自分に、自分でもぎょっとした。

 その度に、理性を総動員する羽目になった。

 

 いいか、それだけは駄目だ。

 涼司が自らの意志で襲ってこない限り、それをするのは余りに卑怯だ。これ以上、あいつを陥れるような真似だけは、絶対にしてはならない。

 そう自分に言い聞かせることで、何とか思いとどまってきた。

 


 ……本当は、もっと素晴らしい人間でいたかった。

 多くの人を引っ張っていける人間だと思いたかった。実際にそう思っていた。

 だけど結局、俺はどうしようもないほど他愛ない人間だった。

 全くもって笑ってしまう。

 こんなちっぽけな自分が、何を勘違いしていたんだろう。


 だけど、それでも。

 自分で自分の命を絶つのだけは駄目だ。

 あいつだけ地獄に残して、こっちは楽にリタイアだなんて、そんなこと、赦されるはずがないじゃないか。


 だから、俺は決意した。あいつがまだ、俺を殺さないと言うのなら。

 俺はあいつに借りを返す。

 遅すぎるかもしれないが。余計なお世話だと言われようが。

 少なくとも、あいつをこの地獄から解放してやる。

 それが俺の役割だと、そう思った。



 ***



 そっと涼司に目を向ける。

 死んだように動かない涼司。

 けれど時折、発作のように身悶えする。喘いで呻いて、獣のような咆哮を上げ、そうしてまた倒れ伏す。ピクリとも動かなくなる。

 食事をして一時の休息を得ただろう涼司は、1週間も経たないうちに、すっかり元の状況に戻っていた。


 どうすれば、あいつを解放できる……。


 あいつを助けようと思ったものの、正直、どうすればいいのか分からなかった。

 涼司の発作は唐突で、慣れたはずの今でも、身体はびくりと反応する。

 咆哮の度に、思わず逃げ出しそうになる本能には嗤うしかないが、それでも、地面を掻き毟る涼司を見ていると、居た堪れない気分になって来るから不思議だ。


 もう一度、殺してやったらどうだろう。

 何度となくそう思ったが、果たして、どうやったらあいつは死ねるんだろう?


 何と言っても、あいつはもう『死んで』いるはずなのだ。今がどういう状態かはイマイチよく分からなかったが、ピクリとも動かない時なんて、朽ち始めた死体以外の何物でもない。普通のことをしても、これ以上は死ねないんだろうし。今は酷く弱っている様子だったが、本来、力の差は歴然だ。迂闊に仕掛けて、返り討ちにあっては元も子もない。


 ――いや、本当にそうだろうか?


 あいつに返り討ちにあったら、それはそれでいいじゃないか。

 それは甘美な響きを持って俺を誘う。


 あぁ、くそ。

 それはだめだ。何度も言っているだろう。そんな風に、あいつに責任を委ねるような真似をしたんじゃ、償いにはならない。ただの逃避に過ぎないだろう。


 でも、だったら、どうすればいい?


 長く伸びた前髪がうっとおしい。ぐしゃぐしゃと掻き揚げてから天井を振り仰ぐ。そこに何かあるわけではなかったが、見るともなしに天井を振り仰ぐのが、すっかり癖になっていた。

 視野の端に中嶋や水野の姿が映る。彼女達も、もう何も喋らない。ただ身を寄せ合うようにして待っているだけだった。

 涼司が涼司でなくなる、その時を。


 ――くそっ。


 本当は、それも一つの選択肢だと思っていた。

 このままいけば、いずれあいつは俺達を喰い殺してくれるだろう。どんなに我慢しようと、いずれ空腹はあいつの理性を奪う。そして、俺達を喰い殺したことに気付いたら。

 きっと狂う。狂ってしまう。

 自惚れるわけじゃなく、涼司ならきっとその痛みに堪えかねると、そう思った。


 でも、本当はそれでいいんじゃないか。やはり、これしかないのでは。そんな思考が頭を掠める。

 我慢するから苦しむのであって、いっそ狂えば楽になるんじゃないか。それなら、自らあいつに殺されるよう仕向けるのも、そう悪くない手では?

 俺があいつを殺せるのなら、それもいい。それが叶わず返り討ちにあったとしても、それもまた、いいじゃないか。

 だったら、何を迷っているんだ。今さら、こんな命を惜しんで何になる。


 頭の奥がズキリと痛んだ。


 それとも、これは逃げだろうか。

 あいつを助けるためだなんて都合のいい建前を振りかざして、ただ、面倒なことから逃げたいだけの逃避行動。自分で道を切り開くことを諦めた卑怯者の選択。


 そうかもしれない。

 ……いや、そうじゃないのかも。


 頭が痛む。天井を振り仰ぐ。


 ダメだ、もう一度だけ考えてみよう。

 他にできることはないのか。

 あいつに喰われるだけだったら、そんなの、いつでもできるだろうから。




 ***




「私を使ってみませんか?」


 俺はそう口火を切った。

 数日に一度、様子を見に来る仁科に向かって問いかける。

 如何せん、なかなか俺達を殺さない涼司に痺れを切らしていただろう仁科は、興味をそそられたように俺を見た。


「命が惜しくなったのか? まあ、当然と言えば当然だが。君が殺したも同然の男と一つ檻の中、いつ喰い殺されてもおかしくない状況だからねぇ」


 それは事実だったが、仁科にだけは非難される筋合いはないと思った。絶対に。

 けど、

「私の能力をこんなところで潰えさせるのは惜しくなりましてね。決して、損はさせないと思いますが」


 息をのむ女性陣の気配。そして、

「てめぇ……」


 しゃがれた声に振返ると、ぼろ雑巾のように転がっていた涼司が、濁った瞳で俺を睨んでいた。

「てめぇ……また誰かを……陥れようってのか……」


 憎悪の篭った視線。

 微かに胸が痛んだが、何食わぬ顔で切り返す。


「なら、今ここで殺しておくか?」


 どしんと衝撃があった。

 床にしたたか打ち付けたらしい痛みに顔をしかめながら目を開けると、すぐ前に涼司の顔があった。

 涼司が馬乗りで俺を見下ろしていた。


 少し以上に驚いた。

 そうくるとは思っていなかったから。


 涼司は、鋭利な爪を俺の喉元に押し当ててくる。

 ちりちりとした痛み。おそらく肉を食い破る寸前なんだろう。

 恐怖がないといったら嘘だったが、俺はどこかで、苦笑する自分を感じていた。


「やるなら、やれよ」

 自然と、そんな言葉が漏れた。


 お前が俺を喰い殺すなら本望だ、とは、もう言わない。

 俺は薄汚い自分勝手な人間だ。生きていられるなら生きたいと思う。

 そんな価値もないと思い、いっそ殺してくれと思いもしたが、所詮、自分はその程度の人間だと認めたら、無性に生きていたくなった。

 生き汚く足掻くのも、悪くはない。


 けど、涼司にした数々の仕打ちは、報復を受けても文句の言えないものだろう。

 だから、こいつが俺を殺す気になったのなら仕方がない。


 それに、と俺は思う。

 涼司を助けたいと思っているのも、嘘ではなかった。

 今さら誰に信じてもらおうとも思わないが、自分だけは信じてやろう。

 だからこそ、この道を選んだのだから。


 だが、お前が俺を手に掛けられるようであれば、もう、俺が何かをする必要もない。

 一時は苦しむのかもしれないが、そんなものを吹き飛ばしてくれるような快楽が味わえるのだろう。そうして、狂ってしまえるだろう。

 本当はそれがお前にとっての一番マシな幸せなのかもしれないと、今でもそう思っているのだから。


 ――だから、殺るならやっても構わないんだぜ?


 そう思って見上げたが、涼司はやはり、それ以上動こうとはしなかった。


「どうした、殺らないのか?」

「…………てめぇは……殺す価値もねぇ」


 ようやく絞り出された言葉に、俺は涼司を見返した。

 嫌悪と侮蔑の混じった視線に、わずかに胸が疼く。


 ――きついことを言うな、お前は。


 小さく笑って、涼司の体から逃れる。

 それでも涼司は動かない。


 そうか。

 俺は笑う。

 お前はやっぱり、最も苦しい道を選ぶんだな。


 膝の埃を払きながら立ち上がる。

 なら、いいだろう。俺はお前を助ける。余計なお世話と言われようがな。


「じゃあな」


 面白そうに俺たちのやり取りを眺めていた仁科は、まぁいいだろうと顎をしゃくる。

 どうやら許可が下りたようだ。

 兵士に合図し、俺だけを牢の外へと導く。


 牢を出ていく際、信じられないものを見るような目つきで俺を凝視する中嶋に、俺は心の中で別れを告げた。


 ……さよなら、俺の好きだった人。

 大丈夫、涼司は君たちを殺さないよ。ここまで耐えるような奴だ。何があっても殺そうとはしないだろう。

 でも、それでは涼司も君たちも、誰一人ここを出ることはできない。


 だから、俺がやる――


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