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慟哭の夜を笑っていけ  作者: 水城リオ
第2章 それぞれの選択
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2-3 逡巡

 1週間程経った頃だったろうか。再び、仁科が俺達の前に姿を現したのは。

 ……ようやく、おでましか。


 随分と待たされた気がした。

 この1週間。何をするでもなく生かされていた俺達だったから、中嶋や水野の憔悴の色は濃かった。恐らく、俺も似たようなものだったろう。

 だけどそれも、涼司の比ではなかった。


 今やあいつの身体は、目を背けたくなるほど、はっきり骨が浮き出ていた。だけどそれでも、あいつはそこに“居る”ようだった。


『おれに近づくな、喰い殺されてぇか……!!』


 落ち窪んだ眼窩から覗く燃えるような憎悪。一瞬で命がなくなるだろうことを物語る威圧感。

 だけど、だからこそ分かってしまった。これだけ一緒にいれば、分かってしまう。

 あいつは、変わった。

 だけど、何も変わってはいなかったのだと。


 眩暈がした。

 全身を掻き毟ってやりたいほどの怒りを覚えた。

 どうやら俺は、これほどの結果を招くとは思っていなかったらしい。大声で笑い出したかった。

 自分がこれほど薄汚れて見えたことはなかった。



 ***



「正直、驚いたよ。君がそれほど耐えるとはね」


 僅かに面白がるように、だが概ね不愉快な顔で、仁科は言った。


「ひどい苦痛なのだろう? その体で、何も口にしないと言うのは。ましてや、すぐそばには餌があるのに」


 そういって俺たちを値踏みするように見下ろす。

 ……そう。それこそが、俺達がここに連れてこられた理由。

 仁科の言葉に水野は僅かに震えたが、それでも理解はしていたんだろう。ただ黙って、唇を噛むだけだった。


「全く、理解に苦しむよ」


 仁科は大仰に首を振った。

 涼司にとって、俺達はもはや憎悪の対象で、だからこそ喰い殺せるとでも思ったんだろう。

 涼司だって人間だ。いざとなれば、自身の欲望を優先するはず。

 俺だってそう思っていた。だからこそ、あいつを陥れるような真似をしたのだから。


 だけど違う。俺たちとは本質的に、


「てめぇとは……違うんだよ……」


 はっとして振り返ると、涼司が苦痛を滲ませた顔に、薄笑いを張り付かせていた。


 思わず、胸が熱くなった。今さら、そんな資格があるだなんて思っちゃいない。

 それでも、胸の高鳴りを止めることは出来なかった。


 仁科は、理解不能といった仕草をしてみせる。


「そうかい? 君を裏切ったそいつ等なら、すぐにでも喰い殺してくれると思ったんだがねぇ」


 対する涼司は、口の端をわずかに歪めた。ぞっとするほど陰惨な笑い。

 熱くなった胸の奥が、一瞬で凍り付いた。

 それは余りに、今までの涼司の姿からはかけ離れていて。


「てめぇだったら、すぐに喰い殺してやるからよ……。試してやるから、こっちに来いよ……」


 仁科は声を立てて笑った。

「全く面白いね、君は」


 ひとしきり笑ってから、仁科はパチンと指を鳴らす。

「まぁいいだろう。今回だけは特別だ」


 その声に応えるように、何かが無造作に天井から投げ入れられる。

 一瞬遅れて、水野と中嶋が悲鳴を上げた。


 それは、喉を裂かれて悶絶している若い男だった。服装は血まみれで、それがただの被害者なのか、加害者であったのかは分からない。ただ夥しい量の血が溢れ出し、辺りに血の臭気が充満した。

 ……吐きそうだった。


 助けに行くべきだと僅かに残った良心が訴えたが、実際には、動くことすら出来なかった。

 もう助からないように見えたから、というのはただの言い訳だろう。呻き声を上げながらビクビクと痙攣する男の姿がただひたすら恐ろしく、駆け寄ることが出来なかっただけだ。


「食べるだろう? 未だに殺しを嫌がる君のために、こちらで処理してやったんだ」


 なぜ……。

 俺は呻いた。

 なぜ、こんな真似ができる……!


 自身の行為を棚上げするつもりはなかったが、それでも、こんなことを平然とやってのける神経が、どうしても理解できなかった。


「てめぇ……」


 くぐもった低い声は、涼司のものだろう。

 睨みあげる涼司に、仁科はくつくつと笑っていた。


「喰うだろう? 喰わねば、抑えがきかなくなるだろうからねぇ。そろそろ、限界じゃないのかい?」


 確かに、涼司の全身は小刻みに震えていた。真紅の瞳が、ひたと男に向かっている。

 仁科は愉悦を湛えた顔で笑った。


「体は正直だな。良い匂いなのだろう? それでも我慢してみせるかね? っくくくく」


 涼司は眉を引き絞り、痙攣を続ける男を凝視していた。

 それから涼司は、男に数歩近づいた。下半身を引きずるように、一歩、二歩。

 ひどく狂おしそうな瞳が何度も揺れる。


 次の瞬間、男の腕を摘み取り、涼司は一気にそいつを引き寄せた。

 中嶋がとっさに水野の頭を抱きかかえる。

 その直後、おぞましい音がした。


 ボキリ、と、何かが折れる鈍い音。

 何かが噴出し、撒き散らされるような不快な音と。

 ビチャビチャと、何かを食むような音が。


「………っ……」


 絶え間なく続くおぞましい音に、中嶋たちがその場にくず折れる。

 気付けば、俺もその場にへたり込んでいた。目の前で繰り広げられる光景が、ただの悪趣味なスプラッタ映画か何かのようで。

 だけど俺は、心のどこかで安堵する自分も感じていた。

 あいつが堕ちる所まで堕ちたから、とか、そんなことじゃない。今さらそんなこと、さすがの俺でも思いやしない。


 これで涼司が、少しは楽になるんじゃないかと思ったから。

 苦痛に耐えて、これほどに衰弱しても死ねなくて、それでもなお、俺達を喰おうとしなかった。そんな涼司の苦痛が少しでも和らぐだろうと思ったから。

 だから少しだけ、俺は確かに安堵もしていたんだ。


 だけど、すぐに焦燥感もせり上がってくる。

 次は俺達の番じゃないのか?


 目の前で赤黒い塊を貪り喰っている涼司。あいつはもう、我を失っているようにしか見えなかった。

 そいつを食べ終えたなら、次はきっと俺たちの番――


 とっさに、この場から逃げ出したい衝動にかられた。

 だけどすぐにその衝動が掻き消えたのは、諦めにも似た感情によるものだったのか。


 何かが麻痺した頭のまま、ぼうっと目の前の光景を眺め続けて、

 そうして、食事を終えた涼司が俺達を振返ったとき。

 ドンッと胸を突かれた気がした。


 あいつが俺達を喰う気のないことは、すぐにわかった。

 こけていた頬に幾許かの肉が戻り、生気を取り戻した瞳が、なのにひどく苦しそうで、どうしようもないほど苦しそうで。


 それで、分かってしまった。

 こいつはまだ、俺たちを喰う気がないのだと。

 自分が喰われると思った時より、激しい眩暈を覚えた。


 どうしてお前は、そうなんだ――


 俺は思わず、そう言い募りたかったのかもしれない。

 実際、俺は口を開きかけたし、砕けた腰を浮かせもした。

 だけど結局、あいつは俺たちから視線を外して、だから俺も、それ以上は何も言えなくなってしまった。


 ただ、胸の奥が灼けつくようで。


 すでに”人”ではなくなった涼司。今さら、人の道に縛られる必要もないだろうその身で。

 それでも、自身の行為に一番傷ついているのは、他ならぬアイツ自身だろうことが、どうしようもなく分かってしまったから。


『気にしなくていい――』


 そんなことを言える立場でも状況でもなかったが、俺は多分、そう言いたかったんだと思う。


 涼司の行為は、言い訳の余地など欠片も残されていない化物のそれで、だけどそれを言うなら、仁科の行為など悪魔の所業で、だから全然、お前は悪くないのだと。


 そんなこと言えるはずもないのに!


 それでも俺は、お前のせいじゃないと、だから気にしなくていいんだと、本当はそう言いたかった。

 そうして、お前が望むなら、俺を喰い殺しても構わないのだと。

 俺は多分、そのとき本気でそう思っていたし、涼司もそれは感じとったんだろう。


 だけど結局、俺たちは一言も言葉を交わせず、そうしてまた、振り出しに戻った。

 あいつは牢の隅で膝に顔を埋め、俺たちは無言でその場に蹲る。

 おれはただ、骨の散らばった血溜まりを睨むことしか、できなかった。


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