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慟哭の夜を笑っていけ  作者: 水城リオ
第1章 ハジマリの夏
18/87

インターミッション 回想①

 ――夢を見た。


 泥のような眠りの中で、夢を見た。


 ……あぁ違う。そうじゃない。

 これはただの記憶にすぎない。家族で過ごした最後の夏の日。


 なぜ今さら、この日のことを。

 そう思うのに、意識は一向に目覚めない。いや、目覚めたくないだけなのか。


 それでもいい。

 目覚めなければ、おれはまだ――


 だからそのまま、記憶を辿る。

 あの夏の日に、親父に問われて伝えた過去を。

 隠してしまった過ちと、おれとアイツの過去の記憶を――



 *****



「……おれにダチがいたら、おかしいか」


 ヒンヤリとした冷気に満ちた親父の書斎で、おれはそう吐き捨てていた。

 親父が小さく息を飲む。おれも自分でぎょっとした。

 ……何言ってんだ、おれは。

 そう思うのに、おれの口は止まらなかった。


「おれにダチがいたら、おかしいかよ」


 言ってしまってから、慌てて背を向ける。

 これ以上はまずい。

 とっさに部屋を出ようとしたおれの背中に、親父が声を上げてくる。


「涼司! ……少し、話せないか……?」


 その後、ひょっこりと顔をのぞかせた彩乃を見送って。

 おれは絞り出すように口を開いた。



「――で? 話って何?」


 つっけんどんに先を促したが、親父は複雑な表情を浮かべながら、逡巡するそぶりを見せた。


「……おい、何だよ。はっきり言えよ」


 剣呑なおれの声に、親父はようやく口を開く。


「――お前、高校でもやったのか?」


 おれは唇を噛んだ。

 やっぱりそれを訊いてくるか。


「……ああ。一度だけ、な」


 親父は何かを堪えるようにした。そんな姿を見たくなくて、おれは思わず視線を逸らした。


「……で、何?」


 我ながら突き放すような物言い。悪いと思いながらも、これで引いてくれることを期待していたのに。今日の親父は、躊躇いながらもやけに食い下がってくる。


「……暴れたのか」


 正直、この話は早く終わらせたくて、おれは他人事のように頷いた。


「大した怪我人は出ないで済んだけどな。……相手が、ガタイのいい体育の教師だったのも幸いした」


 言いながら、余計なことまで言ってしまったと思う。


「紗夜は、知っているのか」


 訊ねているというより、詰問するような口調。

 今さら隠す気はなかったが、それでも口は重くなる。


「……ああ。結構な騒ぎになっちまったからな。母さんも学校に呼び出されたんだ」


 親父は、息を呑むようにする。


「……それで、どうなった」

「学校側も大事にしたくなかったらしい。おかげで、それだけで済んだ。正直、助かったよ」


 親父は瞑目した。


「……おれが家を空けているときか」

「ああ」



 ***



 あの日、学校から一言も口を利かずに帰宅したおれに、母さんは言った。


「大丈夫よ、涼司」


 ……何が?

 おれは俯いたまま、色褪せた絨毯を睨んでいた。


 古びた家の、がらんとした居間。おれたちは、住宅街から離れた古い一軒家に住んでいた。

 親父は仕事で家を空けていたし、彩乃も知人の家に預けたという。

 ひどく静かな居間に、耳障りな虫の音だけが響いた。


「大丈夫。分かっているから」


 ……分かってる? 何を?

 歪んだ感情が頭をもたげ始めていた。ついさっきまで静まっていたのに、再び暴れ始めたもの。


「涼司。こっちを見て」


 そう言われても、顔を上げることなんか出来なかった。

 またやっちまった。そう思うと、どうしようもなく腹が立った。


 ちくしょう、ちきしょう……。

 今まで積み上げてきたものが、全て無駄になった気がした。また一からやり直しだ。

 そう思ったら、憤ろしくて吐き気がした。


「涼司……涼司!」


 こんな態度では、また母さんを悩ませる。

 そう分かっているのに、どうしても顔を上げられない。

 それがいっそう腹立たしくて、おれはぎりぎりと唇を噛んだ。

 

 ちくしょう……ちきしょう……!


 許せなかった。自分のことがどうしようもなく許せなかった。

 お前のせいだ。お前がいるから。だからいつも、いつもいつも……!


 ふいに、自分を滅茶苦茶にしてやりたくなった。

 ひん剥いて、ぐちゃぐちゃにして、思い知らせてやりたかった。そうしたら、どんなにせいせいするだろう?

 思って、おれははっとする。

 そうだよ、そうすればいいじゃねぇか……!


 その途端、まるで電撃のような感覚が走った。


「り……涼司! どこに行くの!」


 とっさに腕をつかまれて、苛立ちが募る。


「涼司! こっちを見なさい!!」


 反射的に振り返ったおれは、鬼のような母さんの顔を目にした途端、逆上して怒鳴り返していた。


「何だよ! 離せよ! 殴られてぇのか!」


 さっと母さんの顔が蒼ざめる。けど、腕に込められた力は少しも緩まなかった。

 一層強く腕をつかまれ、おれの苛立ちは頂点に達した。


「聞こえねぇのか! 離せって言ってんだろ!!」


 母さんの肩がびくりと震える。それでも、母さんはおれの手を離さなかった。


「……こんな時間に、どこに行く気?」


 おれはぎりぎりと唇を噛んだ。

 知るかよ、そんなこと……!


 眦が避けるほどの怒りがこみ上げる。

 とっさに母さんに手を上げそうになって、おれは辛うじてそれを堪えた。


「いいから、もう放っとけよ……! もう、目の前から消えてやるからよ……!!」

「それ、どういう意味?」


 おれは苛々して、腕を壁に叩きつけた。


「こんな奴、もう殺してやるってことだよ!!」


 母さんが目を見開く。つかまれていた力が緩み、おれは顔を歪めた。思わず嗤いがこみ上げる。


「そうさ。そうすりゃ、もうおれのことで悩まされることはねぇだろ?! だからもう、放っとけ――」


 突然、乾いた音が響いた。

 鼻につーんとしたものがこみ上げてくる。


「なっ……!」

 母さんに頬を叩かれたのだと理解した途端、体の芯が燃え上がった。


「何すんだよ!!」


 もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。

 喚きかけて、息を呑む。

 母さんの目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。


「いい加減にして! 分かってるから! あんたがどれだけ苦しんでるのか、私にはお見通しなんだから、これ以上ばかなこと言わないで……!!」


 …………っ!

 ふいに視界が歪んだ。

 何か言い返したかったのに、できなかった。


『分かってる』


 それが単なる上部だけの意味ではないと、今さらのように気づいてしまったから――……




 おれの突発的な激昂。この悪癖は、子供時代のトラウマが原因だった。

 おれは7歳くらいの頃、誘拐され、虐待を受けたことがあるらしい。

 ……といっても、当時の記憶は曖昧で、おれには途切れ途切れにしか憶い出せない。ただ、後になって母さんたちから無理やり聞き出した話によると、おれはあるとき、突然連れ去られたんだそうだ。


 犯人は顔も知らない中年男。何日もの間、どこかの廃工場に監禁されていたおれは、そいつから毎日、殴る蹴るの虐待を加えられたらしい。そいつの抑圧された不満が、たまたまおれに向かったんだそうだ。

 ……そいつが犯行に至った詳しい経緯なんか知らない。知りたくもなかった。


 だが、無事にそこから助け出されて以来、おれは突発的に爆発するようになった。おれにも、訳が分からなかった。

 きっかけはいつも、ほんの些細なことだった。後から考えれば、決して暴れるほどのことじゃない。なのに駄目だった。おれ自身にも、どうにもできなかった。


『当時のことを思い出させるような状況が、引き金となるのでしょう』

 医者にはそう言われていたし、……恐らく、その通りなんだろう。


 小学生の頃、おれは何度も問題を起こした。しかも、その現場は学校であることが多かったから、おれの噂はすぐ学校中に知れ渡った。そうしてその後、迫害を受けるのは、決まって妹の彩乃だった。

 おれ自身は、陰口を叩かれるだけで何もされない。多分、恐れられていたせいだろう。

 でも、子供のおれには、それが我慢ならなかった。


 どうして彩乃をいじめる……! 文句があるなら、おれに言えばいいだろう!!


 彩乃を守ろうとしておれがさらに暴れるものだから、おれたちはすぐに、その土地には居られなくなった。やがて、おれたち家族は、おれが問題を起こす度に引越しを繰り返すようになった。それが堪らなく悔しかったが、自分で自分をどうすることも出来なくて、ただ爆発を繰り返す日々を送っていた。


 けど、そんなおれでも、成長というものはあったらしい。

 いつしか、おれは自分を抑えられるようになっていった。中学生になった頃には、外では滅多に暴れなくなった。

 ……家では怒鳴り散らすこともあったが、家族はおれに理解があったし、おれが落ち着くまで上手く受け流してくれた。だから、おれはもう大丈夫なんだと、自分でもそう思っていた。


 けど、それは思い上がりに過ぎなかった。

 高校1年生の秋、おれはまた爆発したんだ。しかも、全クラスメイトの面前で。


 ……思い返すと、今でも全身が熱くなる。

 それは、ホームルームの時間に起こった。



 ***


 元々、その担任教師の尾崎に、おれは反感を持っていた。おれだけでなく、クラス全員がそうだったと思う。その年から赴任したという30歳前後の体育教師は、何かと高圧的におれたちを指導した。その高校はそこそこの進学校だったから、正面きって反抗するような生徒はいなかったが、その分、尾崎に対する陰口はひどかった。恐らく、尾崎自身もそれに気づいていたんだろう。日を追うごとに尾崎は威圧的になっていき、おれたちもますます反感を強めていくという有様だった。


 そうしてついに、皆の不満が頂点に達した。

 その日のHRの議題は、文化祭の出し物についてだったと思う。やる気のないおれたちに、尾崎は苦虫を噛み潰したような顔をした。


「お前たち、どうしてそういう態度なんだ。もう少し真面目に取り組んだらどうだ……!」


 その直前に行われた体育祭では、おれたちのクラスは惨敗だった。体育教師の尾崎にしてみれば、面目はまるつぶれだったんだろう。だけどそんなの、おれ達の知ったことじゃない。


「何とか言わないか……!」


 怒気を含んだ尾崎の言葉に、ようやくクラスの誰かが答えた。


「……おれら、真面目にやっているじゃないですか」


 何人かが同調するように頷く。

 白々とした空気が流れた。

 尾崎は見る間に顔を高潮させ、黒板を叩いて怒鳴りつけた。


「お前ら、自分たちを何様だと思ってるんだ!」


 その言い草に、おれたちは色めきたった。

 それはこっちのセリフだ!


「何だその目は! 意見があるならはっきりと言ってみろ!」


 険悪な空気に、誰かが立ち上がった。そのまま、教室の外へと向かう。


「おいっ、どこへ行く!」


 尾崎の怒声に、席を立った奴が吐き捨てるように答えた。


「付き合ってられるかよ!」


 釣られたように、何人かが席を立つ。それを見て血相を変えたのは尾崎だった。


「ふざけるな! まだHRの時間は終わっていない。席に着け!」


 その言葉に反発して、さらに何人もが席を立つ。そいつらと尾崎とが、教室の入り口付近で小競り合いになった。


 一方のおれは、辛うじて椅子に座っていた。思い出したくもない記憶の片鱗が脳裏をよぎり、それを抑えるのに必死だった。もう少しで堰を切って溢れ出しそうで、尾崎と揉み合っている奴らに混じれば、おれは間違いなく爆発する。そう思った。

 けど……!

 おれは、ぎゅっと拳を握り締めた。

 そんなことしねぇ……。そんなこと、してたまるかよ……!


 小競り合いは、次第に激しくなっていった。教室内が騒然となり、そのとばっちりを受けたのはHRの司会をしていた女子だった。原田という委員長。彼女は勝気で、いかにも正義感の強い奴だった。

 正直、原田自身も尾崎には反感を持っていたと思う。とはいえ、クラスの大多数がホームルームをボイコットするという騒ぎになって、それを止めよう立ち上がったらしかった。


「待ってよ皆! 落ち着いて……話を聞いてよ!」


 男子と尾崎との間に割って入ろうとしたとき、尾崎の腕が彼女の体を薙いだ。

 短い悲鳴を上げて、原田が床に倒れ込む。

 誰もが一瞬、ぎょっとした。

 短い沈黙が降りて、


「何しやがる!!」


 その沈黙を破ったのは、おれ、だった。

 気づくと、おれは椅子を蹴倒して立ち上がっていた。

 まずい、と頭のどこかで思うのに、ばかげた口は止まらなかった。


「てめぇ、殺されてぇのか!!」


 教室中が水を打ったように静まり返った。


 断っておくが、おれは原田と特に親しかったわけじゃない。だけど、全身に猛烈な怒りがこみ上げていた。今すぐ尾崎の元に駆け寄り、胸倉をつかんで叩きのめしてやりたかった。お前がどれほど理不尽なことをしているのか、それを思い知らせてやりたかった。


 おれの怒声に、尾崎は目に見えてうろたえた。だが、すぐ高圧的に言い放つ。


「お前、なんて言い草だ。教師を何だと思っている!」

「……あぁ?」


 怒りで頭がグラグラした。尾崎に殴りかかりそうになり、おれは辛うじてそれを堪えた。

 だめだ! だめだ抑えろ……!


 そんなおれを、口先だけの奴とでも思ったんだろう。尾崎はおれを無視して、声を張り上げた。


「お前ら席につけ! 全員、今すぐ席に着け!!」


 言って、倒れた原田の傍にかがみ込む。


「おい、大丈夫か?」


 手を差し出した尾崎に、彼女は怯える様子を見せた。思わず後ずさった原田に、尾崎は苛立った表情でその手を掴む。


「ほら、こっちに……」

「いやっ」


 思い切り手を振り払われた尾崎は、見る間に顔を歪めた。


「お前……!」


 尾崎が原田に迫り、彼女は身をよじって悲鳴を上げた。


「や、やだぁっ!! 来ないで!」


 その声を聞いた途端、おれの中で何かが壊れた。嫌悪感と怒りと憎悪で、自分がどうにかなるのじゃないかと思った。


「止めろぉ!!」


 気付くと、おれは尾崎に殴りかかっていた。


「おま……っ!」


 目を剥いた尾崎と、もつれる様に床に倒れ込む。椅子や机が激しい音を立てた。


「矢吹!」


 もう一度殴りつけようとしたおれの拳は、済んでの所でかわされた。逆に、腹に一発喰らう。

 その瞬間、ぞっとするような恐怖と憎悪が全身を駆け巡った。

 …………っ!!


 後はもう、よく覚えていなかった。


 気づいたとき、おれは数人の教師に取り押さえられていた。

 辺りはひどい有様だった。机から飛び散った教科書やノートが散乱し、足の踏み場もなかった。

 女子の多くは悲鳴にも似た泣き声を上げていたし、男子も青ざめた顔でおれを見下ろしていた。


 尾崎は全身で息をつきながら、おれを睨みつけていた。どこかを切ったのか、血の滲んだ顔が憤怒で歪んで見えた。

 おれは思わず、顔を背けた。

 また、やった……。


 尾崎のことが許せなかった。今から考えても、尾崎の言動は決して褒められたものではないと思う。けど、殴りかかるほどのことじゃない。尾崎は決して、そこまでひどいことをしていたわけではなかった。

 ……なのにおれは、また、やっちまったんだ……。


 教師たちに引きずられるようにして教室を出て行くとき、皆がおれを、まるで化け物でも見るような目つきで見送ってくる。


 おれと尾崎は保健室に連れて行かれ、傷の手当てを受けた。その後、別々に校長室に呼ばれた。事情を問い質す教師たちの冷たい視線。おれはただ、淡々と質問に答えた。


 夜になって母さんが呼ばれた。

 おれは拳を握り締めた。最悪の処分が下されることも覚悟していたが、待っていたのは予想外の言葉だった。明日から、また普段通りに登校して構わないと言う。

 驚いて教師たちの顔を見ると、突き放すような視線が返ってきた。どうやら学校側としても、これ以上騒ぎを大きくしたくはないらしい。尾崎にも責任の一端があると分かれば、なおさらのようだった。



 ***



「……転校しようか?」


 母さんの言葉に、おれははっと顔を上げた。


 おれがどうにか落ち着いた後、母さんは二人分のココアを入れてくれた。

 台所のテーブルに座ったまま、カップを両手で包むようにしていた母さんは、おれが何度かカップに口をつけた後、そう尋ねてきた。まるで、夕食の献立でも訊ねるような口調で。


「どう? 久しぶりに動く?」


 冗談めかした口振りに、おれは唇を噛んだ。


 転校するとなれば、またどれほどの迷惑にかけるだろう……。

 昔ならいざ知らず、彩乃だってもう中学生だ。せっかく馴染んだ友達とも学校とも引き離すなんて、 そんなことはもう、したくなかった。それくらいなら、おれが身一つで家を出る。

 実際、それは何度も考えてきたことだった 

 ……でも、本音を言えば嫌だった。甘えだと分かっていても、おれはこの家にいたかった。


「……学校側は構わないと言ったんだろ? なら、このままでいい」


 母さんにじっと見つめられ、おれは逃げるように視線を逸らせた。


「母さんには……迷惑かけるけど」


 母さんがくすりと笑う気配がする。


「子供は親に迷惑をかけるものって、相場は決まっているの」


 そんな風にいつまでも子ども扱いされるのは嫌で、でも、そうやって許してもらえることを頭のどこかで望んでいて。そんな自分がひどく薄汚く思えた。


「……けど」

 言いかけるおれを遮り、母さんは続けた。


「それに、いざというとき頼ってもらえなかったら寂しいじゃない」


 それは何となく分かる気がしたが、おれは憮然とした顔でもしていたんだろう。母さんの笑う気配がした。


「ねぇ涼司。考えてもみて? あなただって、もし彩乃が何か悩んでいるのに、自分に一言の相談もなかったら、哀しいと思わない?」

「……それは、そうだけど」


 言い淀むおれに、母さんは顔を傾けた。


「自分は相談するに値しないのかと思ったら、寂しいと思うでしょう?」

「…………」


 それはとてもよく分かる感覚だったので、おれは黙ったまま頷いた。

 ……でも。

 おれは、言葉を絞り出した。


「今回のこと、親父と彩乃には……黙っていてくれないか……?」


 母さんが、おれをじっと見返してくる。


「なぜ?」

「……これ以上、余計な心配をかけたくないんだ。だから……」


 言葉尻がしぼんでいく。自分でも情けないと思うのに、それ以上何かを言うことが出来なかった。

 母さんは席を立ち、おれの傍で腰をかがめる。それから、おれの頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。


 ……っ。


 それは、親父と同じ癖だった。両親そろって、何かある度におれの頭をかき混ぜる。いい年をして恥ずかしいと言っているのに。だけど本当は、おれはそれが大好きだった。


「母さんっ! だから……!」

「わかった、じゃあ、これは二人だけの秘密ね」


 いたずらっぽく笑う母さんに、おれはとっさに顔をそむけた。

 今さらだと思うのに、これ以上泣き顔を見られたくなかった。


「涼司」


 母さんは、笑いながらおれの頭をかき混ぜてくる。それから、おれの頬に手をあてた。

 驚いて母さんを見返すと、ひどく真剣な目が、おれをまっすぐに見つめていた。


「でも、一つだけ約束して。本当に辛くなったら、すぐに言いなさい。決して一人で抱えないで」


 それから、母さんは笑顔を浮かべる。


「約束してくれたら、この話は終わり。……ね?」


 問いかけるような眼差しに何とか頷く。頷いたまま、顔を上げることが出来なかった。

 そんなおれを、母さんはずっと抱きしめていてくれた。



 ***



「それで、黙っていたのか」

「……悪かったよ」


 気恥ずかしい話を終えて、どうしてもぶっきらぼうにしか返せない。

 そんなおれに何かを言いかけ、親父はそのまま言葉を飲み込む。


「……何だよ?」

「――涼司。もう一つだけ聞いてもいいか」


 どこか思いつめたような表情。きっと、余り楽しくない質問なんだろう。

 ただ、今まで黙っていた後ろめたさも手伝って、おれはなんとか先を促した。

 なのに、親父はなおも躊躇う様子を見せる。


「何だよ。もう隠したりしねぇから、何かあるならはっきり言えよ」


 親父は苦しげな顔でおれを見つめて、それからようやく口を開いた。


「涼司。お前、今までずっと辛かったか? 苦しかったか? ……生まれてきて、よかったか……?」


 おれは一瞬、呆気にとられた。

 ……なん……?


 そんなことを聞かれるとは思わなかった。

 何を……親父は……。


 余りにベタな質問を笑い飛ばしてやろうとしたとき、ふと、喉元に込み上げてきた感情があった。

 ひどく……憤しくて苦しくて……、まるで胸が焼けるような感覚。


 ……っ!


 思わず胸を抑えたおれに、親父がまるで自嘲するように笑った。


「……そうか。そうだよな」


 おれは、むっとして親父を睨んだ。

 何だよ。何が『そうか』なんだよ。


 何かを決め付けられたような不快感に、全身が熱くなる。それが自分でも心底嫌で、おれは吐き捨てるように言った。


「何が言いてぇんだよ」


 親父は、まるで他人事のような口調で笑った。


「いや、お前がおれを恨んでいても当然だと思ってな」

「な……」


 目を剥いたおれに、親父は苦笑するような表情を浮かべた。


 何だよ、それ……!

 突き上げるような怒りがこみ上げてくる。


「勝手なこと言ってんなよ!!」


 叫んでから、おれははっとした。

 また、彩乃が何事かと思うだろう……!


 必死で胸元を押さえていると、親父はおれを痛ましそうに見上げてきて、おれの中の怒りにもう一度火がつきそうになった。血が滲むほどに唇を噛んで、それを堪える。


「勝手に決め付けんなよ」


 食いしばった歯の隙間から声を絞り出す。怒鳴りつけてやりたいのを必死で堪えた。


「そんなこと思ってやしねぇ……。思うわけ、ねぇだろう……!」


 再び激高しそうになって、おれはぎゅっと眼を瞑った。

 何とか息を整えてから目を開けると、親父が複雑な顔でおれを見つめていた。


 ……だから違うって言ってるだろう!!

 そう思うのに伝わらない。それがもどかしく、憤ろしかった。


 そう、親父は昔からずっとこんな調子なんだ。おれに対して、ずっと負い目を感じているんだ。

 

 親父は今でも、おれが誘拐されたとき、何も出来なかったことを悔やんでいるらしい。そもそも、誘拐なんかさせてしまったことを申し訳なく思っている節があった。

 だけどそんなの、親父のせいじゃねぇのに……!


 あの事件の後、おれが家族にかけてきた迷惑の方がよほど酷いと思うのに、親父はそれさえも自分の責任と感じているらしい。普段はそれほど表に出したりしないが、何かの拍子にそんな表情を覗かせ、おれにはそれが耐えられなかった。


「辛いなんて思ってねぇよ」


 親父はおれを見上げる。


「苦しいなんて思っちゃいねぇ」

「……だが」

「おれには、母さんや彩乃がいたから」


 親父がはっと顔を上げる。

 本当は親父の名前も挙げたかったが、怒りと恥ずかしさで、それは言えなかった。次の言葉が精一杯だった。


「恨んだりなんかしてない。……するわけねぇだろう!」


 それに、おれは憶えているんだ。親父が、命賭けでおれを助けてくれたことを。

 おれが誘拐されたとき、親父は確かに、大怪我をしながらもおれを庇ってくれた。そんな気がしていた。

 ……その記憶はひどく曖昧で、確かなことは分からない。しかも、親父たちにそう言うと、揃って妙な顔をした。おれを助けたのは警察で、親父は助けに行けなかったと。

 だから、もしかしたら記憶が混濁しているのかもしれない。親父が交通事故で大怪我したという事実と、おれの誘拐騒ぎとが。


 でも、少なくとも親父は、家族を愛してくれている。おれはそれを知っていた。

 だからこそ、親父が自分を責めている様子なのが苦しかった。もっと自分に自信を持って欲しかった。


「親父。おれはこの家に生まれてよかったと、……そう思ってる」


 親父は弾かれたように顔を上げ、今にも泣き出しそうな顔になった。

 それを見て、はっとする。


 何言ってんだ、おれは……!


「とにかく! いいか親父。二度とそんなこと言うな。二度とこんなこと言わせんなよ……!」


 親父は声を詰まらせた。何かを言いかけ、言葉にならないのか下を向く。


「……すまない……」


 辛うじてそんな言葉が聞き取れ、おれは顔を歪めた。


 だから、そういうことを言うなと――

 そう言いかけたとき、親父の手にぼたぼたと涙がこぼれ落ちるのが見え、おれはぎょっとした。


 な……待てよ。なんで泣くんだよ!


 まるでおれが泣かせたみたいで、余りの居心地の悪さに、おれは早口に捲くし立てた。


「そ、それに、おれは高校でも一人だったわけじゃねぇし。さっきも言っただろ? 朝倉って奴がいたから」


 親父は頷いた。ハンカチで目元を押さえ、涙を抑えるようにしながら、ほんのわずかに笑ったように見えた。


「……朝倉君、か。……彼は、どうしてお前と……?」


 今度は、おれが言葉に詰まる番だった。

 一瞬、適当にお茶を濁そうかとも考えたが、それは何か、誠実でない気がした。


 まぁいいか。今さらだしな……。


 それに本音を言えば、おれも少しだけ自慢したかった。

 朝倉っていう、おれにはちょっともったいないくらいの奴が、おれの親友でいてくれるんだと――


 ・

 ・

 ・


 このお話は当初、本編(第1章-3 夏の日)に存在していましたが、話の流れが途切れるように思い、割愛していたものです。

 ただ、今後のバックボーンに深く関わるため、改めてこちらに置かせて頂きました。次話に続きます。

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