1-14 急転直下
ふと気付くと、辺りが妙に静かだった。あれほど煩かった音も止んでいる。
重い体を引きずるようにしてドアに近づき、おれはそのまま、躊躇なく開け放った。
ドアの外には、オウガが待ち伏せているかもしれない。それはわかっていたが、別にそれでも構わなかった。
いずれにしろ、ここを出られなければ死ぬだけだ。それが少し遅かろうと早かろうと、大した違いがあるとは思えなかった。
なぜか、ドアの外にオウガの姿はなかった。ただ、その痕跡を残す無数の足跡が付いているだけだった。
…………。
おれはしばらく惚けていたらしい。
何度か瞬きを繰り返し、ようやく鈍った頭が状況を理解し始める。
なぜか分からないが、どうやら危機は脱したらしい。
とにかく、ここを出ねぇと……。
時計を見ると、15時40分。結城の言った通りなら、後20分ほどで爆破されてしまうだろう。
……やべぇ、よな。
どうにか階段に足を向けると、ふいに、結城の言葉が蘇ってくる。
『どうせ、また裏切られるだけよ』
結局、あいつの言った通りか。
自分の馬鹿さ加減に、つくづく呆れた。
でも、死なねぇよ……。
次第に気力が戻って来るのを感じる。
こんなところで、死んだりなんかしない。
外へ続く扉を押し開けると、突き抜けるような青空が目に染みた。
必ず家に、帰ってやるんだ……!
*
『東に進むと、30分ほどで桟橋に出るわ』
太陽の位置から見当をつけ、おれは東を目指した。
急がねぇと……。
夢中で森を掻き分けると、急な斜面の縁に辿り着いた。茂みに隠れながら様子を伺ったが、辺りに人影はない。斜面の縁から眼下をそっと覗き込むと、小さな桟橋に数隻の小型船舶が停泊しているのが見えた。
爆破まであと2分……。もしここも直撃されたら、アウトだよな。
不思議と怖さは感じなかった。
そうなったら、そうなっただ、という気がしていた。もし木端微塵だったら、後腐れもねぇしな、などと妙なことを考える。
頭の線が、1本切れちまったのかもしれねぇな……。
下らないことを考えながら、おれは斜面を降りる場所を探った。
いずれにしろ、船を奪うにはもっと近寄る必要があった。
**
指定の時間を過ぎた。
けど、何も起こらなかった。
何度も何度も時計をのぞき込む。
でも、10分過ぎても何も起こらなかった。
これには焦れた。
何かの理由で遅れているのか。……でも、何の理由で?
斜面を降り切ってから桟橋の様子を伺ったが、やはり人気はない。結城の姿も、朝倉たちの姿も見えなかった。
――っ。
あいつ等のことを考えた瞬間、全身が燃え上がった。
頭の中が白熱して、本当に吐くかと思った。
吐かないで済んだのは、単に吐くだけのものが腹に残っていなかったせいだろう。
あいつ等がどうなろうと知ったことじゃない。
知ったことじゃないが、……今は姿が見えなくてよかったと思った。
でないと何をしでかすか、自分でも分からなかったから。
いや、いい。もう、どうでもいいんだ……。
おれはゆっくりと船に近づいていった。
そうして、茂みの切れた先まで来て、おれは再度迷う羽目になった。
この先、身を隠せるような場所はなかった。30mほど砂浜が続き、海にせり出した桟橋の向こうにモーターボートが停泊している。
くそ、どうする……。
もうじき爆破されるのなら、それまで待った方がいい。けど、人気のない今がチャンスだという気もした。
あぁくそ、結城。あいつなら、どうしただろう? そもそもあいつは、ちゃんと逃げ出せのか……?
そう思いながら、辺りをもう一度見回したとき、心臓が大きく高鳴った。
もしかして……!
茂みの向こうに、結城の姿を見た気がしたからだ。
身を乗り出すようにして目を凝らすと、そこにいたのは紛れもなく結城だった。
結城も、驚いたようにおれを見つめている。
無事、だったんだ……!
そう思ったら、なぜか無性に泣きたくなった。
帰ろう結城。帰るんだ、一緒に……!
「逃げて!!」
悲鳴にも似た絶叫が頭に響いた途端、閃光が炸裂した。
***
息苦しさに目を覚ますと、そこは太陽の照りつける砂浜だった。
いつの間にか、熱砂に頬をこすり付けるようにしていたらしい。
熱い……。
起き上がろうとして、全身から血の気が引く。
気付くと、おれは後ろ手に拘束され、体を何かで押さえつけられていた。
「お目覚めか、矢吹?」
この声、まさか……。
最も会いたくない人物が、そこに立っていた。
「仁科! どうして――」
言い終える前に、腹に激痛が走った。
仁科に蹴り上げられたのだと理解した途端、2撃目が襲ってきた。
「まったく、好き勝手やってくれる……」
「てめぇ! この――」
言いかけた顔をブーツの底で踏みしだかれ、全身が燃え上がった。
この野郎……!
「起こせ」
兵士たちにおれを引き立たせ、仁科は小型船舶を振り仰いで口の端を吊り上げた。
「残念だったなぁ? もう少しで逃げおおせるはずだったのに」
恐らく、おれの隠れていた辺りも爆破されたんだろう。それに巻き込まれて、気を失っているうちに研究所の奴等に見つかっちまったのか……。
そこまで考えて、おれははっとした。
「結城はどうした!」
「――結城?」
仁科は不快げに眉を寄せ、それから歪んだ笑みを浮かべた。
「他人の心配をする前に、自分の心配をしたらどうだ?」
「答えろ! 彼女はどうしたんだ!」
仁科は、くつくつと嗤う。
「安心したまえ。君より前に始末したよ」
全身の産毛が逆立つかと思った。
「嘘ついてんじゃねぇ!」
仁科は片眉を吊り上げる。
「おや? その方が彼女のためだと考えていたんじゃなかったのか?」
「勝手なこと言ってんじゃねぇぞ!」
仁科は酷薄な笑みを浮かべた。
「心配しなくとも、次はお前の番だ」
ふざけんな……!
仁科の言うことなど当てにならない。だが、この場に結城がいないことは確かなようだ。なら、きっと無事なんだろう。そうに決まってる。
そう言い聞かせるしかない自分が、どうしようもないほど歯痒かった。
だけどちくしょう、どうすればいい……!
この場から逃げ出す方法が思いつかなかった。
5人の兵士と仁科に囲まれ、後ろ手に縛り上げられている。さっきの爆風で全身が軋むように痛んで、立つこともまともにできやしない。
でも、何かあるだろう。何か他に方法が……。
考えろ、考えろ、考えろ……!
「どうした? 逃げる算段でも立てているのか?」
顔を上げると、仁科が歪んだ笑みを浮かべて銃を弄んでいた。
「なら、その選択肢を消してやろうか」
次の瞬間、右太股に灼けるような激痛が走った。
なんっ……!!
「もう一方もだ」
左脚に走った痛みに倒れ込みそうになったが、両脇に抱えた兵士がそれを許さない。
「……ぐっ、はぁっ……」
まるで焼け串にでも突き刺されたような気がした。
冗談……だろ……。
目の前が暗くなる。
……マジかよ……こんな……。
耳元で仁科が笑った。
「気分はどうだ。ん?」
前髪を掴みあげられ、おれは反射的に唾を吐いた。
仁科が目を見開く。
……ざまぁみろ……。
忌々しそうに自分の頬を拭いながら、仁科は低く笑った。
「安心しろ、小僧。貴様は楽には死なせない。ククッ、ははははは!」
****
両腕を兵士たちの肩に回され、半ば引きずられるようにして、おれは森の中を連れ戻されていた。引きずった足が何かに触れる度、脳天まで貫くような激痛が走る。
思わず呻き声を漏らすと、兵士たちが薄く笑った。
……やべぇ……だろ……。
何とかしなければと思うのに、痛みのせいで思考が途切れる。
「おれを……どうする気だ」
傍らの兵士に問いかけてみたが、奴らは薄く笑うばかりで何も答えない。
兵士の多くは外国人のようだが、日本人らきし奴もいる。なのに答えがないのは、言葉が通じないのか、無視されているのか。
……くそったれ……。
わざわざ連れ帰るくらいだから、すぐに殺すつもりはないんだろう。またモルモットにでもする気か。人体実験されるだなんて考えただけでもおぞましかったが、生きてさえいれば何とかなる……。
ぼんやりとそう思ったとき、頭上から声が降ってきた。
「同郷のよしみだ。お寝んねする前に、いいことを教えてやろうか」
霞む視野の端で、兵士がニヤニヤと笑っていた。
「貴様には、最高の舞台が用意されているぜ」
舞台……?
兵士は、口を哄笑の形に吊り上げた。
「処刑という名の舞台がな」
おれを見下ろして、兵士が失笑を漏らした。
「お前、この期に及んで、自分が助かるとでも思っていたのか?」
おれは答えなかった。答えられなかった。
ちくしょう……結城……。
彼女の姿の見えないことが、せめてもの救いだった。
きっとあいつは無事なんだろう。そうでなければ、おれと一緒に連行されるはず。そう、無事に決まってる。
祈るような気持ちで、おれは意識を手放した。
せめて、あんただけは……。
*****
次に気づくと、頭上から眩しいほど強烈な光が注がれていた。
鼻をつく消毒液の匂い。それに混じって、もう嗅ぎ慣れてしまった血の匂いが充満している。
……ここ、どこだ……?
どこかで見たような気がする。
でも、どこでだったろう……。
頭がぼうっとして、上手く認識できない。
ただ、どこかで狂った世界に紛れ込んでしまったんだ、そんな気がした。
もしくは夢だ。そう、きっといつもの夢。
ほら、早く起きないと彩乃が起こしにくる……。
突然、頭上から冷たいものがぶちまけられた。
なん……?
「お目覚めか?」
目の前に、吐き目を催す顔があった。
「仁科……!」
「くくっ、では始めようか」
おれは、仰向けに寝かされていた。
身じろぎしようとしたが、手足が拘束されているのかビクともしない。
何だよ、これ……。何する気だよ……!
無数の目がおれを取り囲むように見下ろしていた。卑猥な笑いを浮かべる男たち。その向こうに『おれ』がいた。
え……?
よく見れば、手術台のような場所に上半身裸の『おれ』がいた。
なに……鏡……?
「乙な趣向だろう? 自分の処刑をその目で見られるなんてな」
……!
「くくっ、いい顔だ。ほら、これからお前はこんな風に解体されるのさ」
その途端、腹にちりちりとした痛みが走った。
はっとして鏡を見ると、上半身に赤い線、が――
「ちょっと浅すぎたかな?」
腹に焼けるような痛みが走った。
反射的に上を見ると、ペンか何かを突き立てられた場所から血が溢れ出していた。
……こんなの夢だ。現実の訳がねぇ……!!
けど、頭のどこかで分かっていた。
間違っているのはおれの方だ。認めたくないのはおれの方だと。
けど……!
おれは顔を歪めた。
何でお前がここにいる。今井……!!
今井の手にも、ナイフが握られていた。
思考が真っ黒に塗り潰されていく。
お前もか……そうかよ……。
「さあ、やりたまえ」
だが、今井は動かなかった。
ただナイフを持ったまま、ガタガタと震えていた。
「できねぇよ……」
仁科が笑ったように見えた。
「できない?」
今井は、手の中のナイフを床に投げ捨てた。
「できねぇよ! こんなこと、できるわけねぇだろう!!」
直後、兵士に殴り倒された今井の傍に、仁科はゆっくりとかがみ込む。
「意外に骨があるんだな。見直したよ」
今井の肩を叩き、そのまま含み笑いを漏らす。
「だが、言っただろう? ここでこいつと一緒に地獄を味わうか、こいつを殺して生き残るかだと。お前なら、どちらを選ぶ?」
そのまま、今井の体を兵士に押さえ込ませる。
「な、何を……!」
怯える今井の指を無理やりこじ開け、そこにナイフを突きつける。
「答えは?」
「や、止め……!」
今井はとっさに口を開き、そして縋る様におれを見つめた。
「矢吹……」
え……?
仁科が力を込める。
「ぎゃあああぁ!!」
今井がその場にくず折れる。
「騒ぐな騒ぐな、その程度で死にはしないさ」
仁科は乱暴に今井の身体を引き立たせる。
指が切り落とされた腕を台に押さえつけ、今度はその腕にナイフをあてた。
「だが、腕を落とせばどうなるかな?」
今井は蒼白になった。
「止めろ、止めてくれ。頼む……!」
「なら、そいつを殺すのか?」
びくりと肩を震わせ、今井は小さく頷いた。
……。
おれは目を閉じた。全てが馬鹿馬鹿しく思えた。
だってそうだろう? こんなふざけた茶番があるか?
もういい、わかった、もう沢山だ。だからさっさと目を覚ましやがれ……!
「どうだ? 矢吹。何か言い残すことはあるか? 恨み言くらいなら聞いてやるぞ?」
おれは仁科を見上げ、それから視線を逸らせた。
もう、どうでもよかった。
ただ、この茶番をさっさと終わらせて欲しかった。
――それでも。
ごめん、母さん。
その思いだけが、痛切に胸に迫った。
こんなところで殺されてしまうのが、どうしようもなく悔しかった。
今まで、散々迷惑をかけてきた。迷惑をかけるだけかけて、その結果がこのザマか?
そう思ったら、涙が零れた。
おれのせいで、ずっと苦労させたのに。
なのにちきしょう、こんなところで、おれは……!
「ごめん……ごめん……」
一瞬、自分の思考が口を付いて出たのかと思った。
けど、それは今井のもので。
血と涙でぐちゃぐちゃになった今井の口から、呟くように同じ言葉が繰り返されていた。
おれは目を閉じた。
これ以上、見たくなかった。聞きたくなんかなかった。
これは夢だ。……夢なんだ。
灼けるような激痛が走る。
『あんた、死ぬわよ』
『死なねぇよ』
脳裏に結城との会話が蘇る。
お前が正しいよ、結城。全部、お前の言う通りだったよ。
刃が振り下ろされる度に、灼けるような痛みが貫く。意識が遠のく。
その度に水をぶちまけられる。
全身が熱い。
熱くて痛くて、息ができない。
もういいだろ? もう殺せよ……もう……十分だろ……
そのまま意識を手放しかけたとき、
「おい、その程度か? お楽しみはこれからだぞ?」
裂かれた腹に猛烈な違和感を覚えて、おれは目を見開いた。
なん……?
霞んだ視界に、腹に突き立った腕が目に入る。
な……。
「ほら、こんなのはどうだ?」
込み上げたのは、言葉にならないおぞましさ。
やめろ……やメロやめろヤメロおぉ!!
もう、自分が何を叫んでいるのか分からなかった。
ただ、内臓をかき乱される圧倒的な嫌悪感におれは絶叫した。
この苦痛から逃れられるものなら、なんにでもすがりたい気がした。
やめろ、やめてくれ……! もうやめろおおぉおぉっ!
そのとき、乾いた音とともにおれの顔に何かが飛び散った。
驚いたように目を見張る今井の顔。
な……?
一瞬、全ての痛みを忘れた。
今井が、目の前で口から泡を吹き出していた。
何で……今井まで……?
その途端、赤黒いものを突きつけられる。
仁科が頭上で何かを喋っている。
その言葉は聞き取れなかったが、目の前のものが何かは分かった。
分かったが、感情がそれを受け入れなかった。
……これは……今井の……。
憎悪が全身に広がっていく。
許さ……ねぇ……。
続けざま、それを口に押し込まれる。
息が……できな……!
空気を求めて、本能がそれを噛み潰す。
その瞬間、口の中に生臭い味が広がった。
……っ!!
爆発しそうになったとき、おれの腹からも何かが引きずり出され、そいつを口に押し込まれる。
「自分の……味わうのも乙だろう?」
突き抜けるような憎悪が全身を締め上げた。
恐怖も苦痛も、全て忘れさせるほどの憎悪だけが膨れ上がっていく。
ゆるさねぇ……! てめぇだけはゆるさねぇ……!! カナラず、おれがコロしてやる……!!!




