1-13 再会
記憶を頼りに、ひたすら上を目指して研究所を駆け上がる。下手をすれば、どこかでオウガに出くわすかもしれない。それは分かっていたが、幸いにも奴らの姿はなかった。
外に続く扉を押し開けると、外は相変わらずの炎天下。少し日が傾きかけていたが、まだ十分に日は高い。ここに足を踏み入れてから、思ったほど時間は経っていないのかもしれなかった。
時計を見れば、14時44分。結城と別れてからもう10分以上経っている。
素早く辺りを見渡してみたが、兵士の姿もオウガの姿も見当たらない。それだけを確認すると、おれは森の中へ飛び込んだ。
例えオウガに遭遇しても、普通の奴なら切り抜ける自信はあった。結城の言う、もっと凶暴で狡猾な奴に出会ってしまったら、などと考えるのは止めた。そんなことを考えていたら動けなくなる。そのときはそのときだ。考えなしでもなんでも、それしかなかった。
森の中を夢中で走り抜けると、やがてあの建物が現れる。
オウガにも兵士にも見つからずに済んだが、余りの暑さに眩暈を覚えた。流れ落ちる汗が鬱陶しい。たまに吹く風も熱風で、喉が強烈な渇きを訴えてきた。
何ムキになってんだろう、おれ。なんでこんな……。
我ながら馬鹿じゃないかと思いながら、建物の扉に辿り着く。
辺りに残されていたのは、無数の足跡と血まみれの傘。恐らく、オウガの顎を潰したときのものだろう。
身体の奥が火照るように熱くなった。
違う。おれはあいつらとは、違うんだ……。
言い聞かせるように繰り返して、明り取りの窓の外から内部を覗き込む。
辺りに人影はなかった。試しに扉を押してみたが、動く気配はない。
だが、結城からもらった鍵を鍵穴に差し込んで捻ると、ロックの解除される音がした。
いける……。
押し開けた扉の内部は、ひどく静まり返っていた。幾分、ひんやりとした空気が漂っている。
もう、誰もいないのか……?
それなら、それでいいと思った。
あれほど怯えていた奴等が自発的に森に出るとは考えにくいが、もしかしたら、ここから逃げ出す気になったのかもしれない。あるいは、研究所の奴等にでも捕まったのか。
いずれにせよ、あいつ等がここにいなければ、それでいい。ここいるかもしれないと知っていて、このまま逃げるのが嫌だっただけだ。
単に、自分を納得させる理由が欲しいだけだな……。
自嘲が込み上げたが、今さら、それを否定する気にもならなかった。
とにかく、行こう。時間がねぇんだ。
頭を振って、手早く部屋を見て回る。
静まり返った建物の中には、人の気配を感じられなかった。けど、厨房らしき場所まで来て、思わず体が硬くなる。
勝手口の扉が、ひどく歪んでいた。扉の用をなしていないのは一目瞭然だった。何か異常な力で歪められたんだろう。
オウガが寄ってたかって、扉を壊したのか。とすると、思ったより頑丈な造りではなかったのかもしれない。あるいは、オウガの方が馬鹿力なのか。
いずれにしろ、ここも安全じゃあなかったわけだ。この分だと、あいつ等も……。
おれはそこで浴びるように水を飲み干し、ほんの一息ついてから、2階に足を向けた。時刻は15時13分。
これなら、あと10分もあれば確認し終えるだろう。もし誰もいないのなら、こんなところに長居は無用だ。
けど、階段から数えて3つ目の部屋まで来たとき、思わず声を上げそうになった。
鍵がかかっていた。
ここ、か……?
鍵穴に鍵を差し入れ、ロックをはずして中に踏み込む。その瞬間、確信した。
ここだ、ここにいる……!
息を潜めた人の気配がした。しかも、この素人臭さ。研究所のやつらじゃないだろう。
生きていたのか……。
真っ先にこみ上げたのは何だったろう。ただ言葉に出来ない激情がこみ上げてきて、
「おれだ、矢吹だ! 隠れてないで出て来い!」
叫ぶと、息を飲む気配がした。なのに、衣擦れの音がするばかりで、一向に姿を見せる気配はない。
馬鹿が……! 隠れているのはバレバレだって分からねぇのか!
「ここは爆破されるんだよ! さっさと逃げないと死ぬぞ!」
「いゃぁっ!」
小さな悲鳴とともに姿を現したのは、水野だった。
目立った外傷は見当たらないのに、髪の毛はボサボサ、目は血走っていて今にも発狂しそうに見えた。
大丈夫か、こいつ……。
「――涼司」
その声を聞いた途端、かっと全身が熱くなった。
振り返って確かめるまでもなく、そこにいたのは朝倉だった。
身なりこそ乱れていたが、立ち姿はいつもと変わらない。だが、充血した目は何かに取り付かれたように見えた。
「無事……だったのね」
その脇から現れたのは中嶋で。
彼女はおれを見るなり、声を詰まらせた。
「ごめ……なさい……ごめんなさい! 私……っ」
そんなふうに謝られても、ちっともうれしくなかった。ただ苛立ちばかりが膨れ上がり、振り払うように辺りを見回してから、違和感に気づく。見れば、頭数が少ない。
「おい、池田と今井は?」
中嶋の肩がびくんと撥ねる。
言い淀んだ中嶋に代わり、朝倉が答えた。
「今井は、外の様子を見に行くと言ったきり戻ってこない」
「……池田は?」
沈黙が返ってくる。おれは朝倉を見上げた。
「池田はどうした」
途端に、水野が引き攣ったような泣き声を上げた。
「おい、池田はどうしたのかって聞いてるんだよ!」
「死んだ」
――死んだ? 池田が……?
「智ちゃん、智ちゃあん!!」
むせび泣く水野の声に苛立ちながら、おれは朝倉を睨んだ。
「どういうことだよ? 死んだ? どうして……!」
「あいつ等に喰われたんだ」
……喰われた? 池田が? なぜ?
訊ねた声は、自分でも驚くほど低かった。
「また、見捨てたのか……?」
中嶋がビクリと肩を震わせる。叫ぶように何かを言いかけ、それからすぐに唇をかみ締める。
水野が顔に手を当てて泣き喚いた。
「嫌ァ嫌だあァ! こんなところはもう嫌アあぁ!」
「っ黙れ! てめぇらが殺したんじゃねぇのかよ!」
「涼司!」
朝倉が硬い顔でおれを睨む。
「彼女たちを責めるな。どうしようもなかったんだ」
――どうしようもなかった? 本当に?
見ていないものはわからない。けど、また見捨てたんじゃないのか。その思いが、どうしても拭えなかった。
言いようのない怒りが込み上げてきたとき、シンシアの顔が脳裏をよぎる。
あぁくそ……!
「とにかく!」
絞り出すように、声を荒げる。
「いいか、今すぐここを出ろ。じきにここは爆破される」
「爆破……?」
「どうして? なぜそんなことを知ってるの!?」
喚く水野に、猛烈な苛立ちが膨れ上がる。
「うるせぇな、説明してる時間なんかねぇんだよ! 死にたくなけりゃ、今すぐにここを出ろ!」
中嶋たちが互いに顔を見合わせる。
その視線がおれの肩口に向かっているのを見て、
おれを疑ってるのか……!
肩口の手当が自分で行ったものでないことくらい、一目瞭然だろう。それを誰がやったと思ったのか。
お前らを売ったおかげとでも思ったか……!
急速に、胸の奥が冷えた。
「とにかく、伝えたからな。後はお前らの好きにしろ」
こんな奴らのためにわざわざ戻ってきたのかと思うと、忌々しさの余り、吐き気がした。あたり構わずぶち壊してやりたくなって、ただ乱暴に扉を開け放ったとき、
まさか、この感じ……!
外を覗いて、おれは今度こそ壁を叩いた。
何で奴等がここにいる……!
オウガどもが、廊下の影から押し寄せてくるところだった。
******
「どうしたの!?」 裏返る水野の声。
「奴等だ! 囲まれる前にここから出ろ!」
返事を待たずに廊下に飛び出す。
今なら逃げられるかもしれねぇ!
だが、
『グオアアアアァッ!』
ちきしょう、数が多すぎる!
奴等は、ぞっとするような咆哮をあげながら迫ってきていた。
「他に階段は?!」
「こっちだ!」
廊下を駆け抜け、角を曲がろうとして、視野の端を何かが過ぎった。
「涼司っ!」
とっさに屈み込むのと、おれの頭のあった位置に、オウガの腕が突き出されるのは同時だった。
回り込まれた……!
オウガどもと突き飛ばし、手近なドアに手をかける。
「早く入れ!」
鍵をかけるのとほぼ同時に、オウガがドアを叩きつけてくる。
冷汗がどっと噴出したが、しばらくなら保ちそうだった。
けど、早くここから脱出しないと、今度はオウガと一緒に爆破されてしまう。
くそっ、何とかしねぇと……!
突破口はないかと部屋の中を見渡して、思わず言葉を失った。
そこには見慣れてしまった光景が広がっている。
けど、これは……。
水野がへたり込むようにして絶叫する。
「嫌……もう嫌あぁ!! 誰か、誰か助けてよ!!」
怒鳴りつけてやりたかったが、それよりも、部屋の奥のものに目を奪われた。
まさかあれは……でも……。
「池田……?」
その場に近づいて絶句する。
喰い散らかされたようなそれが……。
「……おい、ここなのか?」
声が上ずる。
「ここで殺されたのかって、聞いてるんだよ!」
「――そうだ」
そうだ、だと……!?
掴みかかりたい衝動を、おれは辛うじて押さえた。
だめだ、今は時間がねぇ……!
「他に出口は?!」
廊下の外では、オウガどもが力任せにドアを叩き続けている。ドアが軋む嫌な音と共に、天井からはパラパラと粉が落ちてくる。
このままじゃ、爆破がどうこういう前に、このドアが保たねぇ……!
「ここを見てくれ」
朝倉の声に振り返ると、そこにあったのは、ただの床だった。
「……からかってるのか?」
苛立ちながら問い返すと、朝倉は抑揚のない声で床を指差した。
「違う、ここに切れ目があるだろう。これは隠し扉なんだ」
隠し扉?
近寄ると、確かに切れ目のようなものが見える。
「2つのボタンを同時に押すと、扉が開く仕組みなんだ」
朝倉が指差す先には、これ見よがしに設置された2つの台座があった。
「このボタンを同時に押す以外に、ここから逃れる方法はない」
朝倉は一方のボタンに指を掛け、もう一方のボタンを指さした。
「涼司。それを押してくれ」
「朝……!」
中嶋が何かを叫びかけたとき、ドアが激しく音を立てた。
「早くしろ、涼司」
抑揚なく繰り返す朝倉。
なぜか、無性に胸の奥がざわついた。
扉が開く? 本当に……?
5mほど離れて設置された台座。
今までに研ぎ澄まされた直感が、最大級の警告を発していた。
「……朝倉、これを押すとどうなる」
朝倉は首を傾けた。
「聞いてなかったのか? 床の扉が開くんだよ」
「違う! それ以外に何が起こるかって聞いてるんだよ!」
朝倉は一瞬目を見開き、そして
――笑った。
……笑った? こいつ今、笑ったのか……?
「押せよ、涼司。もう時間がないんだろう?」
畳み掛けるように朝倉が続ける。
「早くしないと、全員ここで死んでしまうんだろう?」
朝倉の口元が薄く開く。歪んだ笑みを張り付けたまま、こちらを見る。
朝倉……!
駄目だ。
そう思った。
なぜかなんて説明できない。けど、これを押したらきっと良くないことが起こる。それはほとんど直観だった。
それでも。
扉が一際大きな音を立てた瞬間、おれは力任せにボタンを叩きつけていた。
シュン、と風を切る音がして、目の前を何かがよぎった。
見れば、向こう側にはぽっかりと床に穴が開いていた。恐らく、階下へと続く階段でもあるんだろう。
そして、こちら側には――……
何もなかった。
台座と台座の間には、透明の壁が降りていた。
ただそれだけ。
そう理解した瞬間。
全てが、どうでもいいことのような気がした。
軋む音を立て続ける背後の扉も、目の前の光景も、――朝倉の行為さえも。
「……なさい、ごめんなさい……! 必ず、助けに来るから……!」
何かを喚きながら、中嶋が階段を駆け下りて行く。
でも、何を言っているのか分からねぇ……。
後から後から、得体の知れない何かが喉元に込み上げてきていた。
「……何がおかしい」
耳障りな声に顔を上げると、透明な壁の向こうに、まだ朝倉の姿があった。
「何がおかしい」
おかしい……?
言われて初めて、おれは自分が笑っていることに気付いた。
「お前は……どうして……」
朝倉の形相はまるで歪んだ悪鬼のようで、
「あはははは!」
朝倉がびくりと肩を震わせる。
「あはははは! あっはははははぁ!!」
「涼司!!」
遮るような口調に、目線だけを動かす。
「行けよ朝倉。……それとも何か? お前、おれの死に様が見たいのか?」
嘲笑が込み上げる。
「へぇ、優等生のお前に、そんな趣味があったとはな」
「涼……!」
「失せろ!!」
朝倉が目を見開く。
その顔に反吐がこみ上げ、おれは壁を叩きつけた。
「今すぐ、おれの前から消え失せろ!!」
人気のなくなった部屋で、おれはその場に座り込んでいた。
何も考えられなかった。
扉の振動が激しさを増していく。
それを他人事みたいに感じとることしか、できなかった。




