「よくて割り勘」
自分の恋愛遍歴(遍歴というほど数もないし激しくもないけれど)を一言でいえば、「よくて割り勘」人生である。これは意外に多くの女性が「わかる、わかる」と共感してくれるのではないかと思う。実際に私の友達にも同じようなのがいる。
「よくて割り勘」とはつまり、男性と食事などに出かけ、運がよければ割り勘、男性の懐具合が寂しければこちらがまるっと奢るということで、「デート代は男が出して当然」という昨今の世論の前ではやや肩身が狭い。
だがしかし。これは、モテないからしかたなくサービスしているという自虐では決してない。むしろ私はモテる……ほうだと思う。まあ、外見は好みの問題があるのであまり堂々と自分が「愛されなんとか」だとは主張できないが、中身はめちゃくちゃイイ奴である。
そんな私が「よくて割り勘だった」と言うときの本音は、「年収や職業や高価な時計やブランド物の洋服や高級車などなどで男を選んでませんぜ」という気概、いわゆる「女としてのプライド」なので、むしろ誇らしげだったりする。
プレゼントをもらったり食事をごちそうされたりするのがうれしくないわけではない。けれど、なぜかお尻がもぞもぞと落ち着かない。自分から買ったりあげたりするほうがどれだけ気楽かと思う。
思い返してみれば、ごく幼い頃から他人に物を買ってもらうのが苦手な子供だった。私の実家のお向かいに、子供のいないご夫婦が住んでいて、たまに私と兄とをお祭りなどに連れて行ってくれた。六歳年上の兄は愛想がよく誰にでも好かれる気質で、お向かいのおじさんおばさんにも上手に甘えていろいろ買ってもらっていた。私はというと、もともと「何が欲しい」とはっきり言えない性格もあり、「これ買ってあげようか?」と言われるごとにかたくなに首を横に振り続けた。
その原因はよく思い出せない。特にそこまでして何も買って欲しくなかったのは事実だろうが、あとで母親に「あまり遠慮しすぎる子供はかわいくないよ」とたしなめられたことは覚えている。
大学生くらいの年頃になって、他人、特に男性にプレゼントを買ってもらったり食事を奢ってもらったりすることが絶妙に居心地悪いと感じるようになった。厚意あるいは好意を素直に受けることができない。その原因のすべてとは言わないが、確実にその一つは私の父親である。
うちの父親は典型的な「ザ・昭和のガンコ親父」。平日は仕事で夜遅くに帰宅、週末は接待ゴルフであまり家にいないのだが、たまにいるとつまらないこと(少なくとも私たち家族にとっては)ですぐ怒鳴る。
たとえば、晩ご飯を囲んで兄が父親からなにか説教めいたことを言われているとする。せっかくの楽しい晩ご飯の空気が暗くなるのを防ぐように、母親が台所で立ち回りながら鼻歌を歌う。すると父親は「ひとがまじめな話をしているときに歌なんか歌うな!」と一喝。途端にご飯がまずくなり、兄は逃げるようにニ階の自室に行く。
そんなとき私が最もイヤだったのが、必ず父親が口にする「誰の金で飯食ってると思ってるんだ」である。
いや、専業主婦の母親が家事から育児から全部きちんとやっているから、あなたは毎日仕事のことだけ考えてればいいんでしょ、と今なら言い返せる。当時は二言目にはこれを振りかざされ、母親は黙って背を向けて洗い物をし、私は黙って下を向いてご飯を食べ終えるしかなかった。
もちろん、父親の言うとおり、兄も私も父親のスネをさんざんかじって大きくなったのだし、そのことはいくら感謝してもしきれないだろう。しかしこの言葉に呪いをかけられた私は、他人から奢ってもらうことで何か相手に対して負い目を感じるというか、借りができる気持ちになり、特にそれがお付き合いしている男性であれば、自分のお金がある以上、彼のお金でご飯を食べさせてもらう義理はないと思うようになってしまった。これでは明らかにかわいくない。
ちなみに、お金持ちの男性とまったく知り合わないかというと、そういうことでもない。ただ、あくまでそちらに気持ちが向かないのはやはり、この人も私に物を買ったり奢ったりしたら「誰の金で飯食ってると思ってるんだ」と言うタイプだろうなと、無意識に避けてしまっているような気はする。
その上に母親がまったく別の面で、「してもらいたい欲よりしてあげたい欲が強い」私の性格に大きな影響を与えた。父親が一部上場会社の取締役だったことから、私が中学卒業するころまでどちらかといえば裕福な家庭だったが、私が幸いにも「もらう喜びよりあげる喜び」を教わったのはこの母親のおかげである。
東京の下町育ちの母親は、盆暮れその他、頂き物があればご近所やお友達におすそ分けをするのが当たり前だった。それを見て育った私も同じように貰い物、特に食べ物にはまるで執着がなく、それが高価なお菓子だったとしても気前よく友達や会社の同僚に配ってしまったりする。
ただし、この「あげる喜び」が勝った性格のせいで、世の名言を借りるなら「何かをしてもらいたからではなく、何かをしてあげたいから」男性を好きになるのが基本的に私の恋愛スタイルである。ついつい、いろいろ尽くして甘やかす。自己満足でプレゼントをしたり、ご飯を食べさせたりしてしまうのだ。そうやって惚れた弱みダダ漏れで甘やかせば、たとえ悪いヤツでなくても男性は調子に乗って、私を大事にするはずもない、と頭ではわかっているのだけれど。
結局、お金や物で甘やかされることが苦手な私にとっては、自分のわがままな「してあげたい欲」を黙って満たさせてくれる男性こそが最も相性のいい相手となり、以下同文の悪循環におちいる。生まれつき運が強いおかげで、今までのところ、とんでもない悪人にめぐり会わなかったのが何よりの救いではある。
もし本当に、「人生終わってみれば幸も不幸もプラマイゼロ」であるならば、私の先行投資?も終わってみればプラマイゼロにならなければ道理が合わない。私が男性に尽くした分は、過去に私自身が両親からもらった分、そしていつもよくしてくれる友達や同僚から返ってきている分、そして将来どこからか助けられる分で必ず埋め合わせされるはずだ。そうだと信じたい。そうであるなら、自分の「よくて割り勘」人生が損だとか、つまらないとか、いろんな物を受け取るのが上手な女性をうらやましいとか、思う必要もない。たぶん。
まあ、所詮、何を言っても負け惜しみにしか聞こえないのはしかたがない、か。