非情なる自然
「ずっと、ずっとこの時を待っていました、蛍」
その女性の声はか細く、透き通っていた。
ずっと?
もしかして……。
「クウなのか?」
すると、その女性は何かが可笑しかったのか、上品に着物の袖で口元を覆いながら笑い出したのだった。
「ふふふ、少し意地悪でしたかね。残念ながら私は冷狐ではありません。がっかりしました?」
くっ、こいつ俺を騙したな。
普通に引っかかったよ。
「ま、まあ、それはいいとしてここは?」
「ここは私の世界。あなたをここに呼んだのも私です」
私の世界。
こいつ本当に神様なのか?
確かにそうだと言われても納得できるほどの存在感を感じる。
「あなたは?」
「私は稲荷神、ミタマ。あなたの契約している冷狐の直属の上司というところですかね?」
うわ、本物の神様っぽいじゃん。
あっ、そう思うと何となく神様が神々しく見えて……。
「何で光ってるんですか? 後光が眩しいです」
「あら、失礼。そろそろ蛍が私を神として認識したころかと思って、後光を差してみたのよ」
何と言うか、見た目の透明感に似合わずお茶目の一面もあるようだ。
さすが神様。
……ケモ耳触らせてもらえないかな?
「あの……それでどうして俺はここに呼ばれたんですか?」
俺の問いに、神様はすぐには答えなかった。
すると、一瞬俺の視界から神様が消えた。
と思えばいつの間にか目の前に現れ、俺の体を包むように抱き着いてきたのだ。
そして、耳元で囁いてきた。
「蛍には試練を受けてもらいます。あなたに冷狐を使役する資格があるのか、私が見定めます。ただし……」
神様はそこで勿体ぶるように間を置く。
「ただし?」
「能力は全て封印です」
神様はそう満面の笑みで言って、俺の頬にキスをしてきた。
その瞬間、再び世界が変化した。
先程までの穏やかな畑とは全く違う。
ここは……。
「嘘だろ」
凍えるほどの冷たい雪風が横薙ぎに顔を打ち付けるほどの極寒の土地だった。
見渡す限り雪と暗い夜空しかない。
俺はその雪上……いや、雪山で一人ぽつんと佇んでいたのだった。
『蛍にはここ、私の世界の中でも一、二を争うほど過酷で凶悪な魔獣が住む「峠姫」という山で一週間生き抜いてもらいます』
この声、神様?!
どこにいるんだ!
俺はすぐに周りを見渡すも、そこに神様の姿はなかった。
『残念、蛍。私は遠くからあなたを見て、直接頭に話しかけているのでそこにはいませんよ』
おいおい、嘘と言ってくれよ。
『本当です』
その神様の言葉の語尾には音符マークが付いていると思えるほどに、上機嫌な声だった。
てか……。
「寒いっ!!」
俺はすぐにアイテムボックスから体温調整機能付きの外套を取り出そうと、操作するが。
『スキルや魔法は使えませんよ。もちろん精霊たちは一時的にこちらで預かっていますので、ご心配なく』
「ちょ、ちょっと待ってくれ神様! せめて上着だけでもくれないか? これじゃあ、一時間もたずに死ぬぞ!」
『あっ、言い忘れてました。蛍はここで生き抜くだけではなく、雪とは、氷とは、精霊とは何なのか。それを考えてください。そして、この環境に適応するのです。では、良き試練を』
「お、おい! ちょっと待ってくれよ、神様!!」
しかし、もう俺の言葉に反応する声はなかったのだった。
「嘘だと言ってくれよ、神様……」
つい俺の瞳からは涙が溢れそうになった。
さすがに俺でもこの状況はやばい。
今まではどうにかなりそうな状況ではあったが、この状況はマジでやばい。
すぐに死ぬ。
何かをしなくてはすぐに死ぬ。
凍え死ぬ。
まず体を動かせ。
俺はその場で足踏みを始めた。
次に状況の確認とできることの確認だ。
服装は……いつものジャージになっている。
本当に精霊たちは消えているようだ。
魔法やスキルは使えないと言っていたな。
だったら、基礎身体能力はどうだ。
俺はその場でジャンプをしてみる、が。
「まじか、基礎身体能力までリセットされてやがる」
要するに俺は今、普通に人間だ。
何の力も持たない、ましてやランキング1位でもない、非力な人間だ。
すると、突き刺すような冷たい風がジャージの繊維の隙間を縫って俺の体に直撃してきたのが分かった。
「くそっ、せめて冬用のジャージにしてくればよかった」
と、そんな嘆いている暇はない。
とりあえず風を凌ぐ何かを作らなくては。
「おっしゃ、かまくら作るぞ!!」
俺は生きていくための行動を始めた。
かまくらなんて小さい頃から何度作ったことか。
手際よく、雪をかき集め、固め、最初に壁を作る。
そして、そこから壁の中に一回り小さい、人ひとり入れるくらいの最低限のかまくらを作り始めるのであった。
「はぁー、はぁー。手、冷てぇ」
俺は何度も何度も自分の温かい息を手に吹きかけるのであった。
ただし、この行動を後で後悔することになる。
そう、手がちぎれるかと思うほどの痛さに見舞われるのであった。
でも、大丈夫だった。
ジャージのポケットには神様が唯一支給してくれたマッチと一本の枝があったから、俺はその日なんとか生き延びることができたのだった。
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あれから二日後。
俺は何とか生き延びていた。
初日の夜は自分の足を抓りながら、なんとか寝ないように吹雪をやり過ごした。
そして、翌朝になると少し風が弱まったのだ。
そこで俺は意を決して、風を完全に凌げる洞窟を探すことにした。
神様はここが山だと言っていたので、洞窟があると信じた。
結論、洞窟はあった。
俺は今、洞窟の中で雪を火で溶かしながら飲み水を作っていた。
構造は簡単、雪をフライパンに入れて火に掛けるだけです。
フライパンは洞窟にあったよ。
ついでにたくさんの人骨もね。
たぶん以前にも俺みたいにここに試練に来た人がいたんだろう。
まあ、哀れな最後だったんだろうよ。
だって、どの人骨も手や足などどこかの部位が欠損しているのだ。
恐いかと聞かれたら俺はこう答えるだろう。
超怖い。まじ怖いです。
でも、思ったところで何のエネルギーにもならない。
だったら、少しでも生き延びるための最善を尽くすさ。
てか、ニートをこんなところに追いやるなんて非道だ!!
俺はこんなことになることを一切望んでいないぞ。
もっと暖かい場所で生きていたい。
「はぁ……白湯うめぇ」
これでどうにか寒さは大丈夫そうだ。
と言っても、少しでも気を緩めて寝てしまうと死ぬかもしれないけど。
次は食料だ。
水だけでも生きていけるだろうが、ここには魔獣もいるらしい。
いざという時に体を動かせるように最低限のエネルギーは確保しておきたい。
「さて、先人の物を頂いて行きますか」
この洞窟には様々なものがあった。
動物の毛皮で作ったであろう服に靴。石を削った荒削りの槍。
これがあればどうにかなる、かもしれない。
俺は毛皮で出来た服のフードを被り、右手に槍を持ち、吹き荒れる雪山に再び足を踏み入れたのだった。
歩けど、歩けど……見える景色は変わらない。
雪に曇る空だけ。
それでも俺は進んだ。
そんな時だった。
「キュイ?」
目の前に白くて小さな兎が現れたのだった。
俺はそれを見た瞬間、息を押し殺し、そっと地面に膝をつき槍を構えた。
そして、その兎が俺に背中を向けた瞬間。
俺はその槍を力いっぱい投げつける。
「キュイッ?!」
槍は刺さった。
確かに刺さったのだが、兎はまだ動いていた、
赤い血を流しながらも、逃げ出そうとしていたのだった。
俺の力が弱いから致命傷にならなかった?
分からない。
投擲術だけは、俺が自分の力で会得した能力に頼っていない技術。
だから、倒せると思っていたが、どうやらそれは間違っていたようだ。
でも、俺は諦めなかった。
その場から駆け出し、地面に落ちた槍を拾い上げ、兎を追いかけた。
今、仕留めなくては死ぬ。
例え、この先に視認不可能な崖があろうとも、俺はこのとき兎を追いかけることを選択した。
必至に追いかけた。
毎日走っていて良かったと思った。
だって、兎に追いついたから。
俺は槍を力強く握り、兎に再び突き刺した。
「キュ……」
「ごめんな。でも、俺も生きたいんだ」
その兎は光の粒子に変化しなかった。
普通の動物だったのだ。
俺はこの時、初めて動物を殺した。
殺して当然と思える魔獣ではなく、普通の害のない兎を。
俺はそれをなるべく考えないようにした。
今、それを考えたら俺は立ち止まってしまうかもしれない。
そこまで俺の心は強くない。
自分で十分理解しているからだ。
俺はぐったりと倒れた兎を持ち上げ、血抜きを始める。
そして、毛皮の服と一緒にあった、毛皮の袋にそいつを入れたのだった。
その後、自分の付けた目印に従って、再び洞窟を目指し、吹雪を進み始めた。
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「兎さん、今日もありがとう。ご馳走様でした」
翌日、ここに来てから3日目。
俺はなんとか最低限の生活基盤築くことに成功した。
と言っても、先人の物がなければそれも無理だっただろうが。
心に少しの余裕ができたからであろうか。
俺は神様が投げつけた問いについて考えていた。
――雪とは、氷とは、精霊とは何なのか。それを考えてください。そして、この環境に適応するのです。
こういう類でよくあるのは、裸になって自然を感じるとかだろうか。
たぶんこういうのは、考えるのではなく、体感するのが答え何だと思う。
だから、俺は初めに十分な白湯を準備した。
そして、服を全て脱ぎ捨て、吹雪の中へと躍り出た。
目を瞑り、雑念を捨て、五感で感じる。
雪を、風を、匂いを……。
「無理、寒すぎ」
俺は10秒足らずですぐに洞窟へと戻り、白湯を飲み干したのだった。
さらに手や足の末端に白湯を掛ける。
残念ながら、心に余裕を持ってしまったニートに忍耐力という言葉はないのだ。
さて、そうなるとどうしようか。
とりあえず一日一回、この行動をやってみるとして。
まずは食料をもう少し調達しよう。
兎一匹だけでは、物足りない。
「よし、行きますか」
俺は準備をしてから、再び獲物を探して雪山を彷徨出すのだった。
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「おっと、枝はこれで最後だな。引き返そう」
俺は背中に背負っていた、枝が全て無くなったことに気が付き戻ることにした。
枝は目印に使っていた。
洞窟から出てから、20歩おきに枝を地面に刺していくことで迷わないようにしていたのだ。
枝は木の下の雪を掻き分ければいくらでも手に入れることができた。
ちなみに収獲はなし。
そう簡単に獲物は見つからないということだろう。
自然とは非情である。
そう考えていた時だった。
俺は急いでその場の雪に伏せた。
「グウゥゥゥゥッ」
視線の先にいたのは、身長4m近くはあるだろう動物。
いや、あれは間違いなく……魔獣だ。
運よく今は猛吹雪の風下に位置している。
視界はそこまで開けていないため、魔獣はこちらの存在にまだ気が付いてはいない。
俺はできる限り息を押し殺し、その場をやり過ごそうとしていた。
しかし、自然とはやはり非情なるものである。
「グゥ?」
風向きが180°一転。
俺のいる位置が風上に変わってしまったのだった。
何かに気が付いた魔獣はゆっくりとではあるが、こちらに足を進めてくる。
そうして、見えてきた姿は二足歩行をする白い毛皮の巨人。
これはあれだ。
知っている。
雪男、そういう感じの魔獣だった。
そう思った時だった。
「最悪だ」
その魔獣と目が完全に合ってしまったのだった。
「グウゥゥゥッ!!」
その雄叫びと同時に、俺は横に向かって走り出す。
「こらっ、ウググ煩いっぺ! 静かにするっぺ! 獲物が逃げるんだな」
雪男の背後から、小さな人の姿が現れたのだった。




