SIDE 秋川賢人(SECOND)
敵の愉快で豪快な笑い声が、突然頭の中に鳴り響いた。
俺も含め、思わず全員が耳を塞ぐほどの音量だ。
僅かな時間の隙ではあったが、敵は攻撃を仕掛けることなくゆっくりと辺りを見渡した。
その青く輝く瞳は何かを探しているように感じた。
ほんの一瞬、俺にも視線が向かった。
しかしすぐに興味が逸れたように、次々と何かを物色していく。いや、その瞳が何を探しているのか俺には何となく気が付いていた。
(……狙いは蛍とディールか)
この戦いに赴く前に、俺はディールと話をした。
その中で一つ気になる情報があったので事前に工藤さんと長瀬さんに相談したことがあったのだ。
――今回のムーブダンジョン一斉方向転換の背景には『原始の十二王』がいる。
この話に根拠なんて微塵もなかったのだが、工藤さんと長瀬さんだけは信じてくれたのだ。
そして今、目の前にいるこいつはそれだ。
明らかに他の魔獣とは存在感が違う。
心臓を直接鷲掴みにされているような圧迫感と恐怖感が同時に押し寄せてくる。
その身に纏う鎧も、強者を探す青い瞳も、身長大の武器も、全てが俺という存在を否定してくるようなオーラが湧き出ていた。
俺は唾を飲み込むのも怖くなり、ただひたすらにその敵の動きに注視しつつ、冷や汗を全身から垂らしていた。
そんな時だった。
再び、敵が口を開いたのだ。その声は空気を伝わって聞こえてくるのではなく、直接脳に語り掛けられているような感覚であった。
『がははははッ、まあいい。かかって来るがいい、人間共よ。外れクジは外れクジなりに……蟻んこ潰しを楽しむとしようか。我が名は【傲慢の王】メインダ、大罪魔王の名を賜った一柱である。覚悟して華やかに散れ、人間たちよ』
「遅ぇよ、木偶の坊が」
メインダと名乗る魔人が優雅に、そして空から俺たちを見下すように口上を述べている隙を狙って、Number10ジュリオ・チスターナが奇襲を仕掛けた。
気が付いた時には、メインダの背後で雷槍を修羅の形相で振りかぶっていたのだ。
ジュリオ・チスターナの代名詞である、超速度移動だ。
彼は足に装着している靴に雷を帯電させ、雷と遜色のない移動速度を実現している、人間離れした人間である。
『ほぅ、少しは羽の生えた蟻もおったか』
眼前にジュリオの雷槍が振りかぶられているというのに、メインダは退屈そうにゆっくりと槍の切っ先を見た。
そして――。
メインダの顔面に雷槍が衝突した。
「なッ!?」
しかし、雷槍がメインダに傷を負わせることはなかった。
槍がメインダの鎧の寸前で停止したのである。
その光景と手応えのない攻撃に、ジュリオは大きく目を見開いて驚く。
しかしすぐに態勢を整え、その場を雷の速度で退いた。
『がはははッ、速さは申し分ないが威力が足らんぞ。我の装甲を破るには、威力がまるで足らん! もっと殺し甲斐のある人間はいないのか!』
「では、僕の相手をしてもらおうか」
メインダの傲慢な問いかけに、今まで戦力を測るように静かにしていたNumber7ローガン・グレイが一歩前に出て言った。
正真正銘のシングル冒険者、世界の切り札であるグレイだ。
今までの彼の戦いを見てきた俺たちにとっては、まさに希望の光だった。
溶岩を意のままに操り数多の魔獣たちを殲滅し、溶岩で自分を囲う防御も並外れた固さを誇っている。そんな様を俺たちはずっと後ろから見ていたのだ。
思わず息をのみ、自然と尊敬の念を抱いてしまうほどにはグレイを信用していた。
そう、確かにそれまではグレイだけが希望だったんだ。
『ほぅ。では、これを避けてみよ』
次の瞬間、メインダの姿が見えなくなった。
否、ジュリオの超速度すら超える神速で移動したのだ。
気が付いた時に視界に映ったのは、グレイの背後を完全に取っていたメインダの姿であった。
メインダは仁王立ちしながら、ハルバードを振りかぶった。
『言葉だけではなく、力で己を証明せよ。そうでなければ……やはりお主は蟻ん子よ』
「ッ!? 『マグマディフェンス』ッ!!」
突如、背後から聞こえてきた声にグレイは驚きながらも、すかさず防御魔法を展開した。
砂浜の砂が赤く溶けぐにゃりと歪むと、一気にせりあがった。そしてグレイの体を瞬きほどの時間で完全に覆った。
しかし――。
『がはははッ……阿呆が』
メインダは立てていたハルバードの刃を九十度回転させ、斧部分の側面で力強く振りかぶった。
ドカッと鈍い音を立て、マグマの壁とハルバードが衝突する。
「ぐはッ!?」
マグマの壁があっけなく崩壊し、グレイをハルバードの鈍器が襲った。
グレイは容易に壁が壊されたことに驚くと、鳩尾にハルバードの一撃を食らってしまう。
口から血反吐が零れだし、メインダが力のままに振りかぶった方向へとグレイの体が吹っ飛ばされていった。
その攻防は一般人から見れば目に負えないほどの速さだ。
傍から見ていた俺でさえ、全てを捉えることができなかったほどである。
それでもたった一つだけ、変えられぬ真実がそこにあった。
――グレイが手も足も出なかった。
その真実に、俺たちは息を飲むしかなかった。
だけど、俺は知っていた。メインダに対抗できる人間のことを。
「頼む……早く来てくれ、蛍ッ!」
メインダと同列の存在である憤怒のタルタロスを実際に倒した蛍ならば。
共に戦ったディールならば。
超火力を持っているンパならば。
この絶望に染まり始めたこの戦場を変えることができるのかもしれない。
そう願った。
願うしかなかった。
だからなのか、俺の口からあいつの名前が自然と零れてきたのだ。
『ほぅ、蛍と? そいつが……アロスを殺った人間か』
目と鼻の先からメインダの声が聞こえた。
まるで巨大な壁を目の前にしているような、ただそこにいるだけなのに今すぐ逃げたしたいような圧迫感が俺を押しつぶそうとしてくる。
俺は息をするのも忘れて、俺よりも遥かに背の高いメインダの顔を見上げていた。
青く輝く瞳と俺の目が合った。
そこにあった顔には見覚えがあった。
「…………ゴブリン?」
『がははははッ、度胸だけは認めるが……我の問いに答えぬならば死ぬがいい』
完全に選択肢を間違った。
メインダと名乗る『原始の十二王』を目の前にして、俺は目に見えたものを口に出すことしかできなかった。
やつが俺に対し質問を投げていたことを、すっかり忘れていた。いや、恐怖のせいで頭から抜けてしまったのだ。
(ああ、終わった)
目の前には上段に振りかぶられたハルバードの刃が見える。
きらりと夕日に照らされ、ハルバードがいつもよりも大きく感じた。
ゴゥという空気を鈍く裂くような音が耳に入ってくる。
眼前まで刃が迫っているというのに、俺は体を動かすことができなかった。
どうやって体を動かしていたのか忘れてしまった。
本当の恐怖を目の前にしたとき、死神を目の前にしたとき。
人間は『忘れる』生き物なのかもしれない。
そんな一つの心理を見た。
その時であった。
「ほたるんじゃなくて、ごめんね」
俺の脇を誰かの影が横切っていった。
いや、「誰か」なんかじゃない。
聞きなじみのある元気で男にしては少し高めの声。ふわりと揺れる毛量が多い茶髪に、犬のようなかわいらしい顔。
そして、前に見た時よりも磨きがかかった体。
蛍と共にウルグアイ海底ダンジョンへと向かったはずの新田健。
健が来たのだ。
「ていっ!」
振り下ろされていたハルバードの側面に、健が回し蹴りをした。
思わぬ方向からの攻撃だったからなのか、メインダは『ほぅ、これはなかなか』と小声で呟きながら、ハルバードを手放したのであった。
メインダのハルバードは虚しく宙を舞い、近くの砂浜に突き刺さった。
(……助かった)
そう思ったのも束の間、すぐに健が連撃をメインダに加える。
「まだまだっ!」
回し蹴りした回転のままさらにもう一度空中で回転し、メインダの顔面目掛けて足を振りぬいたのだ。
『がはははッ。これは……不可避』
メインダはさぞ楽しそうに健の回し蹴りを顔面で食らい、はるか遠くの海へと吹き飛ばされていったのであった。
海面を水切り石のように何度も跳ね、遠くの海上で大きな水しぶきが上がった。
俺の正面に立つ健の大きくなった背中を見て、俺ははっと意識を覚醒する。
「……助かった」
俺がそう言うと、目の前に立っていた健がこちらに振り返った。
その表情は俺の知っている健なのだが、どこか自信に満ち溢れている顔つきへと変わっていた。
いや、自信に満ちているのも頷ける。
「健、ありがとう」
「うん、久しぶりだね! 間に合ってよかったよ」
「それにしても……強くなりすぎじゃね?」
「うん、まあね。色々あったんだ」
健はいつもの無邪気で犬のような人懐っこい笑みを浮かべた。
「話はあとで聞くよ。一先ず聞く……あれを倒せるか?」
俺は会話もそこそこに、本題を素早く切り出した。
現状、メインダに対抗できる可能性を秘めているのは、誰が見ても明確に健だけなのだ。
ジュリオの雷槍は全く効果がなかった。
グレイも歯が立たなかった。
しかし、突然現れたこの青年だけはあのメインダに有効打を与えたのだ。
ここにいるほとんどの人たちは健を知らないだろう。
それでもあの化け物に攻撃を加えて、さらには遥か遠くに吹っ飛ばしたという功績だけは無視することはできない。
結果として、この戦場の視線は自然と健へと集まった。
「いや、どうかなぁ? ……ちょっと無理かなぁ」
「そうか。だったら視線を引くこと、時間を稼ぐことはどうだ?」
「それなら全然問題ないよ。ほたるんを待つんだね?」
「そうするしか方法がないんだから、仕方がないさ。さあ、頼んだぞ健」
俺は健の背中をポンと叩き、願いを伝える。
「ここにいる誰もが健を知らないが、俺は知っているぞ。誰よりも努力家で、妹思いで、蛍とダンジョンに行って……必ず強くなって帰ってくるってことを。だから、蛍が来るまでは任せる。敵はあの【傲慢の王】メインダとかいう魔人だ。生半可な攻撃では傷一つ付けられないことはわかっている、それに速さも蛍級だ。力もバカげている。俺が分かったことはこれくらいだ、情報足んねぇかな?」
「いや、十分だよ。あとは任せて、できるだけやってみるよ。『原始の十二王』か……自分の現在地を確認するためにはいい相手かな」
こうしてメインダ討伐の役者が揃いつつあった。
ヒーローは遅れてくるものだ。
この概念を作り出したのは誰なのだろうか。
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――そして、俺は死神を見た。
『がははははッ、お主ほど殺し甲斐のあった人間など久しぶりよ。力はなくともスキルに恵まれた不憫な青年よ……確か名は『賢人』とか言ったかぁ? 貴様のスキル、奪って見せよう』
「――ぐふッ」
気が付けば、俺の胸にメインダの腕が突き刺さっていた。
最初は健とグレイ、ジュリオが三人で連携し、メインダの視線を三人に誘導することに成功していた。
しかし、ある時にメインダがこう呟いた。
――がははははッ、つまらぬな。終わりにしよう。
その瞬間、メインダの鎧が濃い青色から赤へと変色した。そして強さが素人に毛が生えた程度の俺から見てもわかるほどに数段強くなったのだ。
まさに神速の剛腕。
誰もがメインダの動きを捉えることができなかった。
最初にジュリオの鳩尾に強烈な拳が衝突した。
そしてジュリオはどこか遠くの海へと石ころのように吹き飛ばされていった。
次に溶岩を足場にした空中戦を繰り広げていたグレイの鳩尾に拳が突き刺さり、腹に大きな穴を開けながら海へと真っ逆さまに落ちていった。
健は鳩尾パンチを短剣で防御したものの、その勢いを殺しきれずに目に見えない速さでどこかの海へと吹き飛ばされてしまったのである。
そうして、メインダの暴走が始まった。
近くにいる人間を片っ端から殺そうと動きだしたのだ。
瞬きする間もなく、近くにいた綾人さん、金井さん、飼葉さん、権田さんの意識がいつの間にか刈り取られた。
俺に見えたのはメインダの攻撃ではなく、綾人さんたちが力なく倒れる瞬間だけだった。
そして気が付けば――。
メインダが再び、俺の前に傲慢に立ちはだかっていたのだ。
無造作に振りかぶられた拳に対し、俺は『不退転』と叫んだ。
メインダは『ほぅ』と言いながらも、もう一度拳を振りかぶった。今度は一度目よりももっとずっと速く、強く、鋭い拳だった。
俺は振りかぶられる拳に対し、もう一度スキルを発動しメインダの攻撃を防ぐことに成功した。
それから何度も何度も何度も何度も何度も……メインダの攻撃に対してスキル『不退転』を発動し続けた。
目の前まで迫った死に抗おうと、必死に必死に必死に……生きようとした。
スキルとスキルの間。
つまりスキルの終わりと始まりまでの一秒以下の世界の中で、隙が生まれてしまった。
(ああ……これやばい)
自分でもメインダの猛烈な攻撃に対し、スキルの発動が間に合わないことに気が付いてしまった。
そしてメインダの赤い鎧が俺の胸を貫いていたのだ。
体の中から熱い何かがこみ上げ、口から零れ出た。
血だ、血が食道を逆流してきたのだ。
俺は死の痛みを覚えながら、自分の胸を見た。いや、もう痛みも無かった。体から急激に感覚が消えていく症状に見舞われていたのだ。
死がそこまで近づいていたのだ。
自分の死に場所がここだと認識すると、なぜだか急に世界が開けていくような不思議な感覚に見舞われた。
空が大きく、青く澄んでいて。
遠くの海上でぷかぷかと浮かぶグレイとジュリオの姿が不意に見えて。
健が必死の形相でこちらに帰ってくる姿が見えて。
近くで意識を刈り取られた綾人さんが意識を取り戻して。
一緒に戦っていたみんなが俺を見つめていて。
白石さんが泣き叫ぶように俺の名前を呼んでいて。
……蛍の姿が見えたんだ。
「その汚い手を放せ」
蛍の声が聞こえた。
次の瞬間には、目の前にいたメインダの姿はいつの間にか無くなっていた。
代わりに俺の正面に立っていた人物には見覚えがあった。
いや、何度この頼もしくも自由な後ろ姿を見てきたことだろうか。
意識が薄れていく中で、俺は無意識に手を伸ばしていた。
もうすでに感覚のないはずの腕がいつのまにか目の前の希望に縋ろうと動いたのだ。
いや、これも違った。
掠れゆく音の世界の中で、確かに『ウォーターヒーリング・ダブル』の声が聞こえた。
それはあいつの十八番である回復魔法だ。
急激に体の中に感覚が、力が、周囲の情報が戻ってくるような感覚が襲ってくる。
突然の変化に、俺の体はゆっくりと後ろに倒れていく。
さすがに自分の力で立っていられなかったようだ。
しかし俺の腰にあいつの手が回り、支えてくれたのだ。
俺は意識が覚醒する中で、一生懸命に口角を上げて目を細めた。
「遅ぇよ、蛍」
「間に合ったんだからいいじゃん」
本当にヒーローって生き物は……遅ぇんだよ。
バカが。




