慈悲
忠家、早川等の一行の主だった者たちは右京のとある旅籠に宿を取っていた。
入洛の日の宵の話である。忠家は眉をひそめ、彼の老臣倉田貴家となにやら話をしていた。
「銭が足りません」貴家は言った。
「どうにか工面できんのか」忠家は詰問する。
貴家はかぶりを振った。
「道中商いでも致せば」
「いやしくも私は大将ぞ。そのようなことをしていては末代までの恥じゃ」
貴家は強く反駁した。「そうおっしゃられても、無い袖は振れません。ではまた朝倉殿や富田殿ご陣へと無心に赴かれるのでござるか。またあの醜態を晒されるのでござるか」
忠家はうつむいた。確かに貴家の言うとおりにするしか無いのかもしれないと思わないこともない。
本来ならば、忠家にはそれ相応の官と軍資金が下賜されるはずだが、全くその沙汰はない。
(私のような下郎に何もやりたくないとお考えになられるのは無理の無いことなのだろう)そう思った。早川も家来たちもまた忠家の素性を思えば仕方がないと考えている。
ドタバタと誰かが廊下を駆ける音が聞こえる。「た、忠家様。源中将様が門前に」ある下男が叫んだ。
「え、」忠家は驚いた。清河家の御曹司である源中将が地下人の彼のもとを訪れるとは普通では考えがたい話であった。
「すぐに大座敷にお通し致せ」この肝の座った青年には珍しく、酷く狼狽していた。
急いで一張羅を身にまとい、忠家は座敷に入った。遥か上座には源中将が座っている。
「この度のご来訪真恐れ多いことにございます」忠家の声は酷く緊張していた。
中将はゆっくりと頷いた。そして傍らの小姓たちに耳打ちする。
「忠家殿こたびの出征ご苦労である。長き軍旅になるゆえ、色々と入り用であろう。今宵は貴殿にその資金を持って参った。どうぞ遠慮なく受け取られよ。」彼の小姓らは漆器の重量箱を持ち、忠家の前に置いた。
「今禁裏には一匹の狐がおる。本来ならば貴殿にはそれ相応の官と軍資金が下るはずであるが、そやつがそれを妨げているのじゃ」源中将はゆっくりと息を吸い込み、「いつか麿が必ず討伐して見せる。」と繋いだ。この発言はいささか軽率であったかもしれない。勿論、狐とは小道大納言のことである。
忠家は目を丸くして驚き、そして「小生には勿体なき、ご沙汰にございます」と大いに喜んだ。
それを見た中将は目を伏せ、憐れんだ。(大納言殿はなんと酷いお方であろうか。このような心根の清らかな青年をむごたらしくいじめて…)
いたたまれなくなった源中将はおもむろに立ち上がり、そして忠家の方へとゆっくりと進み、「そこもとにこれを進ぜよう」とはいていた短刀を差し出した。
忠家は嗚咽混じりに「勿体なき、勿体なきことにございます」と答えた。感涙している風情である。
ちなみにこの時、忠家は源中将の服装がちらりと見えた。直し姿、要するに正装であった。(私風情にここまで厚意を示し、礼を尽くしてくださるとは)彼はこの感動を終生忘れないだろう。