軍容
武内忠家率いる総勢、八千の大軍はついに越前を発った。彼のもとに織田神社の神意(あくまで表向きの)が伝わってから丁度十日後のことであった。
先鋒には先鋒には豪勇の士と謳われた、大初位富田直家、中軍には大将忠家、殿には八位朝倉右衛門尉義忠が続いた。
不恰好な軍容だった。中軍が非常に少なく、わずかに三百人程である。この時代の軍隊というものは、各指揮官が己の所領で養う士卒を戦の折りに集め、一軍を成す。故に各隊の多寡はそれぞれの長の豊かさに依存するのだ。
これでも忠家はかなり無理をしていた。先の章でも述べた通り、武内家は所詮一村(一村とはいえ元は大野郡の首邑であるから千戸あまりはあるのだが)の主にすぎない。
先鋒の富田二千、殿の朝倉に再三兵馬を貸してくれと頼んだが、両者に憮然と「貴殿に貸す兵は一兵もない」と突っぱねられた。
あまりに非礼なことだ。仮にも忠家は大将なのである。中軍の人たちは憤慨した。「忠家様あのように言われ、黙っていてはあなた様の面子に関わりまする」なかでも早川の怒りは計り知れない。彼女は聞こえよがしに「富田、朝倉の傲岸はゆめ忘れぬぞ」そう叫んだ。だが、忠家は苦笑いを浮かべているばかりだ。
(私ごときの下に立たされては富田殿も、朝倉殿はすこぶる面白くないだろう)それぐらいのことは当然分かっていた。
忠家は幼い頃から戦雲の夢を見ていた。本朝や唐土の軍記物を読みあさり、いつかは一軍の将として大功を立てたいと、そういった戦場への憧憬をずっと持ち続けていた。だから越前守の言葉を聞いた時、(なんと私は幸運であろうか)と感激し、己が前途に対して、多大なる希望を持ったのだ。
だが、それが生の現実として現れた時、彼は知った、自分には過ぎたる栄誉であると。彼の身上を思えばどうして一軍の将が務まろうか。
街道の人々は口々に言う。「忠家めは越前守様に尻奉公でもしたのかのぅ」「いやいやあの面では出来まい」あるものは嫌味たらしく答えた。
中には馬鹿な者もいるから大声でそのような悪口を言い、稀に忠家の耳にも入る。だが、彼は何も反応しない。もっともだと思った。
(私には背負いきれない重荷だ。)何度馬上で嘆息したか分からない。男にとって、自分の器量を生かせない。これもなるほど不幸であるが、担いきれない務めを課せられるそういった苦痛に果たしてそれはまさるであろうか。
「殿、もう少しで港につきますぞ」後ろから声が聞こえた。かれこれ一週間あまり進軍し、やっとたどり着いた。
琵琶湖は穏やかなさざ波を湛えている。港には幾叟もの船が止まっていた。船で琵琶湖を越えれば都は目の前だ。
この時船頭と多少の問答があった。彼はなんと百貫の報酬を要求してきた。
「ふざけたことを申すなここいらの相場は高くても精々十貫であろう」忠家のお供の一人は言った。
「百貫と言ったら百貫だ。これ以上はびた一文負けられねぇ」これは富田や朝倉の差し金であった。忠家資力に欠けるには百貫支払えぬと知っていて、恥をかかせてやろうと、船頭を買収していたのだ。
(仕方あるまい朝倉殿や富田殿に銭を無心に行くか)忠家は不承不承、彼は両者の陣へと赴いた。
「大将が物乞いとは情けないの」どちらも忠家に散々、悪罵を浴びせた。富田に至っては町の大通りで、忠家を土下座させ、何度もその頭を蹴飛ばし、「けっ下郎風情が」と小判を投げつけた。
早川や武内家の家臣たちは(富田、朝倉、いつか殺してくれる)と怒り心頭だ。
だが当の忠家はというとただただ、意気消沈とししていた。実をいうと、中軍の中で彼だけは裏で富田、朝倉が手を引いてることに気づいていた。だが、(全て自分の不甲斐なさが悪い)と決して彼らを責めようとはしない。仮に責めたとしても権威も実力もない自分ではどうにもなるまいといった諦観もあった。
やっとのことで彼は八十貫あまり借りることが出来たが、残りの三十貫は忠家が出さねばならない。彼がこの度の遠征に準備した軍資金は僅かに七十貫だから、先のことを考えると手痛い出費であった。
かくして種々の問題はあったが、やっとのことで武内隊は船に乗り込むことができた。編成は陸上においてと同じく、前に富田、真ん中に武内、後ろに朝倉の順である。
「なぜこんなに間隔が空いておるのかのぅ」早川は怪訝そうに尋ねた。
「その事は私も気になっていた。」忠家は答える。
「まぁ大方波の関係でしょう。」供の一人は言った。
(果たして本当にそうだろうか)先程のこともある何か裏があるのではないかと忠家はいぶかんだ。
彼はふと空を見上げた。どす黒い雨雲が浮かんでいる。どうやら一雨来そうだ。