転機
男は妙な夢を見た。空が黒く染まり、得体の知れぬぬえのようなものが現れ村々を襲い、人々を喰らう恐ろしい夢を。だがそれに立ち向かうもの達も確かにあった。後ろ姿ばかりで顔は見えない。その者たちは逃げ惑う人の群れをかき分け、駆け出したその刹那やっと目が醒めた。
彼は驚いた。何やら生温かいものが横にある。(これは何だ。もののけの類いか。)男はゆっくりと起き上がり枕元の太刀を持った。そして布団をひっぺ返す。だが、ただ年端も行かぬ童女が静かに寝息を立てていただけだった。男は安心感からその場にへたこんだ。
数分後やっと心の平静を取り戻した彼は(しかし見たことがない女だな)と童女を観察し始めた。肌は白く、端正な顔立ちで、首もとのところで切り揃えられた髪は朝焼けを浴びてキラキラと輝いていた。彼女が身にまとっている水干はかなり上等なものらしく流石に金糸は入っていないが、きらびやかな赤地に、桜の模様がとても鮮やかだった。
(まるで都の有力者の娘のようだ)確かに彼女には何となくの気品も漂っていたからそう思うことも無理がない。
(まことにめんこいおなごよのぅ)男は生唾を飲んだ。劣情がわかないわけでもない。童女とはいえ可愛い女の子が傍らで無防備な姿をさらしているのだ。
「もぅし起きられよ」男は恐る恐る言った。童女は布団の中でもぞもぞと目をこすっる。彼が二度、三度声を掛け、やっと目を覚ました。童女は木の格子から空を見、「なんじゃまだ精々虎の刻ではないか」と不機嫌そうに言った。
「私は大野荘山之内村領主武内忠信が嫡男忠家と申す。貴殿の御名前は?」
「わらわの顔に見覚えないのか」
童女は残念そうにうつむく。忠家は怪訝そうに見つめていた。彼は童女の顔を必死に思い出そうとしたが、やはり記憶にはない。彼女はあきらかに年の割には大人びている。まるで本当は童女ではないかのように。
「お主が名を名乗ったのにわらわが名前を申さぬ訳には行かぬな。わらわは早川と申す。」
「では早川殿貴女はどうして私の床に入られたか」
「床は固いでおじゃろう」
「ご用があるならば玄関から参られよ。他者の屋敷に無断で泊まりあまつさえ人の布団に入るというのは非礼であろう。そしてにょしょうは、のこのこと夫以外の男の床に入るものではない。」
「そ、それは」早川はバツが悪そうに横を向く。「悪かったの」彼女はまたうつむいた。
「私は今から朝げにするが、貴女も食べられるか?」
童女はゆっくりと頷いた。
「おーい与助客人がお見えだ馳走を持ってこい」彼は大音声で呼ばわった。しばらくして襖が開いた。「旦那様この方は?」下男は訝しげに二人を見つめた。「さらって来たわけではない安心せい」忠家は微笑をたたえながら下がらせた。
武内家はここらの豪族だから膳の上は決して貧しくはない。鮎の塩焼きに吸い物、御飯に香の物が並んでいた。
(やはりお主は優しいのぅ素性の知れぬわらわにこのようなごちそうを振る舞ってくれるとは)早川は思った。確かに忠家は心優しい青年であった。領民によくなつかれ、近隣の領主からの評判もよかった。
二人は箸を進める。童女の所作には都の貴族のような気品があった。(この方は一体何者だろうか。)忠家は思案する。(今宵は妙な夢も見たもしやこの方は神の使いか)だがすぐにかぶりを振った。(よもやそのようなことはあるまい)そう考えるのが妥当だと思った。
「そうそう」早川は何やら思い出したらしく箸を置き忠家を見た。「正午までには越前守様のがいらっしゃるでの。一張羅を用意し、身を清めたもれ」
忠家は呆気に取られた。そしてからからと笑い「越前守様がこのような田舎侍の屋敷に来られるわけがないであろう」
「わらわが嘘を申していると言うのか」童女は眉をひそめて詰問する。
童女の黒く澄んだ目を見ると、また彼女の真剣な眼差しから虚言を吐いているようには見えない。
「分かり申したでは水を浴びて参ります」丁度食事も終わった彼は半信半疑井戸の方へと向かった。
一応の準備はした。身を清め、桔梗色のひたたれを身にまとい、侍烏帽子も被った。(正装に着替えるのも久しぶりだな)最後に着たのは四年前の元服の折りだった。(少し大きめに仕立てて貰って正解だった)始めて着たときは袖が長過ぎることがえらく不興であったが今ではこの大きさが丁度良い。
(しかし本当にいらっしゃるのかのぅ)彼は尚も半信半疑だ。たかだか小村の領主の倅でしかない忠家からすれば越前守は雲の上の人である。(家の者に馳走を用意させたがあるいは無駄になるかものぅ)彼は傍らの早川を見た。
「安心せよ直にいらっしゃる」童女は言った。廊下がなにやら騒がしい。下男が襖の外に跪く。「越前守様が見えました」
「ほらの」早川はしたり顔をして見せた