三
「それじゃ、今日は顔合わせ……じゃなくて、杏姫歓迎会をするぞ!」
ミルクティー入りの紙コップ(部長が水道水を嫌がったので、結局それを飲むことになった)を片手に、活き活きとした表情で、今日の活動内容を宣言する部長。初めて来たから、詳しくはよく分からないけれど、落研の活動はいつもこんな砕けた始まり方をするのだろうか。
中学の頃に入っていた美術部は、基本的に個人で自由に活動する部活だから、定められた時間までに全員来ては出欠確認をし、個々に制作活動をしているような感じだった。また、年に何回かで開催されるミーティングの時は、話し合う内容を事前に決めてから、前年のミーティング記録を参考にしながら、マニュアル通りに進めていく。美術部は、こんな感じに型にはめられたようなものなので、落研の幕開けがあまりにも新鮮だった。
「では、今回の主役である逢坂杏姫ぇっ! ここで入部にあたっての抱負スピーチ、どうぞ!」
「えっ」
部長は、手に持った玩具のマイクを、いきなり私のほうへ向けてくる。勿論、私のフルネームに「姫」を付けられたことにも驚いたが、それ以上にマイクを向けられたことへの驚きが半端無く、それまで何とか動いていた思考が一時停止した。
まさか、この場でスピーチを求められるなんて、想定外だ。今朝来たメッセージにも、「抱負スピーチを考えるように」という文は無かったはず。
「ちょっと、杏ちゃん固まっちゃったよ~。入ったばかりで緊張している子に、普通、いきなりスピーチさせないよ!?」
左隣に座る菜花が、迫りくる危険から庇うかの如く私の肩を抱きながら、マイクを手にする部長に抗議する。菜花の手の優しい温もりを感じたことで、空を飛びかけた私の魂が戻っていた。
「緊張していて、どうすればいいのか分からなくなっている子に、即興スピーチは苦行だからね!?」
「まぁ、それもそうだよなぁ……自己紹介するにしても、もう少し人数欲しいところだし。丁度腹も減ったから、おやつにするか」
「どうもありがとうございます」
とりあえず菜花の言葉を飲み込んだものの、少し口惜しそうな表情をしている部長は、亀の如くノロノロとしたスピードで、リュックサックに手を突っ込んでガサガサ漁る。
「今日俺が持ってきたのは、春限定の甘塩ポテチだ! それと、杏姫の好きそうなこれも持ってきた!」
まず部長が取り出したのは、少し大きめのポテトチップスの袋。さっきはミルクティーが身体に良くないと熱弁していたのに……と、無意識に突っ込みたくなる。
それに続いて、文庫本サイズの小さな袋が取り出される。そこには、懐かしさを感じる、ちょっとギャグ調のヘンテコな顔をした猿の絵が大きく描かれていた。
これは――。
「これは、『お猿のバナナグミ』!? これ、小さい頃メッチャ食べてたよ!」
「マジか! 俺もよく食べてたぞ! このバナナの形しているところが何とも言えねえんだよなぁ~」
「そうそう! たま~にあった幼稚園の頃の延長保育で、よく食べてたんだよねぇ~。このお猿さんの顔が面白すぎて好き!」
「それにしてもだな……何かこのお猿の顔、どこかナッパに似ているような……」
「ナッパさん、そんな顔してません! 全く、失礼しちゃう!」
「わりいわりい……プッ」
「笑うなぁっ!」
一人で笑いを噛み締めている部長と、むくれた顔の菜花。先程までは喧嘩していたかと思えば、和気藹々と会話している。この二人は仲が良いのか悪いのかよく分からないが、こんな言い合いをしているということから、一応良いほうだろう。
ひとしきり盛り上がった後、唐突に生き生きとした表情を向けられる。
「杏姫はどうだ!?」
「す、好きです……昔から、よく食べていて……」
今思えば、この会話が、今日初めての部長との会話だった気がする。一応、何かと声は発していたのだが、単語を喋っていないのは事実だ。
「おぉぉぉっ、それなら良かったぞ! 杏姫、甘いもん好きそうな顔してるからな!」
「えっ」
甘い物を食べるのが好きなのは事実であるが、まさか表情で見抜かれていたとは思っていなかった。知らず知らずのうちに顔に出ていたのか。それにしても、「甘いもん好きそうな顔」って、一体自分はどんな顔をしていたのだろう。
「何でかは知らないけど、部長は、『女の子=甘い物が大好きな生物』って思い込んでいるみたいなんだよね」
「そうなの?」
「私だって、最初の頃は、見た目だけで、勝手に甘い物が好きだって勘違いされたもん」
一人で戸惑っていると、菜花がコソコソッと耳打ちしてくれる。そのお陰で、雲のごとく胸の中に広がっていた不安が一気に消えてなくなった。
男子から見た女子への先入観は、やっぱりこんなものだろうか。そもそも、世の中を生きる大半の男性に、テレビや本で得た『女の子は甘いスイーツやお洒落なものが好き』等といった勝手なイメージが知らず知らずのうちに植えつけられているような気がする。
何だかんだあったが、ひとまず、テーブルの上に部長が持ってきてくれたお菓子を一つ一つ開けては、真ん中の取りやすい位置に並べた。そして、部長は紙コップを空高く上げて乾杯の合図をし出す。
「よっしゃ、杏姫の入部を祝って――」
「えっ!?」
隣に座っている菜花が、目を丸くしながら、素っ頓狂な声を上げる。しかし、指名された自分はというと、部長の言葉に対して驚きの感情も特に湧きあがってこなかった。
そもそも部長に「落研を救ってくれ!」と頼まれて落研に入った身だから、最初から何となくそんな気がしていた。合格発表の日、部長に返事したあの時から、既に入部の契約が結ばれているものだと勝手に思いこんでいたが、よくよく考えたらまだ何も手続きをしていない。
「ちょっと待って! まだ――」
「あっ、それなら、ここにあるぞ!」
菜花が最後まで言い終わる前に、ポテトチップスを一枚口に咥えた部長は、颯爽と行動を起こし始める。
リュックサックの中から取り出したのは、ゆるキャラのウサギの絵が描かれているクリアーファイル。大量の書類が詰め込まれてパンパンになったそれから、一枚の小さな紙切れが取り出される。
『入部届』
まず視界に飛び込んできたのは、黒の太字でそう書かれた三文字。その下には、順番に「部活名」と「学年」、「クラス番号」、「氏名」の欄が見える。そして、一番下の欄には、「顧問名」を書く用の空欄。
よくよく考えると、中学に入って美術部に入部した時も、最初に入部届を書いた後に顧問と担任の先生に提出していた気がする。
「わりい。俺もすっかり忘れてた。杏姫が部室にいると、無意識に正規の部員だと思っちゃうんだよなぁ。ははっ」
「あのぅ部長さん……いつから杏ちゃんのことを、正規の落研部員と……?」
ヘラヘラ笑い飛ばすように話す部長に対し、ドン引きしているような、怯えているような口調で話す菜花。恐らく、部長も私と同じような錯覚を覚えていたのだろう。そして、自分自身も部長と同じことを思っていた事実を菜花に喋ったら卒倒しそうなので、それは一生秘密にしておこうと思う。
「さて、ここに記入してくれ! 杏姫!」
「は、はい……」
入学式前なのに、入部届を書くことを求められる事態になることは、その紙を出された時点で大体予想はついていた。それがあってこそ、漸く入部の契約が成立する。私は、部長に言われるまま新品の鞄の中から筆箱を取り出し、その紙に「部活名」から「氏名」まで、すべて書き出した。
しかし、「クラス番号」のところまでいって、シャーペンの手が止まった。クラスが分からない。自分達のクラスは入学式前に発表されるという話だから、明日を迎えなければ分かるはずがない。古今高校のクラスはA組からH組まで八クラスもあるから、当てずっぽうで書くこともできないし。
――落語研究部。
まさか、自分がこの部活に身を置くことになるなんて、誰が想像出来ただろうか。テレビや漫画で落語を知っていても、実際に生で観たこと無いし、ましてや表舞台に立って演じたことすらない。
そこまで考えた時、ふと、ある疑問が湧いてきた。
「あ、あの――」
「どうしたの!?」
「何だ、杏姫!」
私が恐る恐る声を上げた瞬間、それまでお菓子を食べていた二人が一気に私のほうを向いてくる。二人ともそのまま眼球がポロリと落ちてしまうのではないかと思う位に両目をカッと見開かせていて、正直かなり怖い。今の気分は、「怖い」と噂されているような強面の先生と向き合っているようなものだ。
迫ってきた二人のインパクトがあり過ぎて、一瞬質問したいことを忘れてしまいそうになったが、必死に記憶を辿って、頑張って思い出した。
「えっと……お、落研の、活動内容って……」
「えっ、活動内容まだ言ってなかったの!?」
私の言葉に、菜花が目を丸くして驚く。しかし、視線を向けられた部長の口から反論も言い訳も飛び出てこない。それどころか、今の部長の表情には、怒りや失望の欠片も見当たらない。まるで幽霊に遭遇したかのごとく顔が真っ青に染まっている。
「あ……あぁ……」
「どうしたの? まさか、春休みの課題でも――」
「やべえ……!」
絞り出すように言う部長の身体は、小鳥のごとく小刻みに震えている。菜花の言葉はもはや耳に入っていないよう。この姿を見る限り、活動内容を言わなかったことに焦っているようには思えなかった。
「あの書類……まだ出してねえ……!」
「嘘っ!?」
突如、静まり返った部室内に投下された爆弾発言。それから程無くして、菜花の素っ頓狂な声が狭い部屋の中で再び大きく轟いた。その後は暫くの間、静まり返る。
「やべえ、これ……明日の朝早く出さねえと、ガチで死ぬ奴だ……今度こそ落研が消滅しちまう……!」
「まさか、これ……本当は春休み前に出すはずだったけど忘れてて、生徒会の人に無理言って締め切りを伸ばしてもらった年間活動報告書のことじゃないよねぇ……?」
「……あたり」
「ふざけるなぁっ!」
部室内に、怒鳴り声とともに、バシーンという強烈な乾いた音が響き渡る。そして、猛虎のごとく怖い瞳で睨んでいる菜花の手には、完全に見覚えのある巨大ハリセン。どうやら、部室にもハリセンが完備されている模様。
「いっでえ……た、叩くなよ……」
頭部に膨らんだたんこぶを両手で押さえながら、テーブルの上に倒れ込む部長。菜花によるハリセン攻撃は、部長が浮かべている苦悶の表情と真っ赤に膨れ上がったたんこぶを見る限り、かなり痛そうだ。そして、菜花がいつもこんなものを振り回しているのかと思うと、ゾワッと鳥肌が立ってくる。
「あ……あ、安心しろ。書くべきところは書いてある。後は、キミちゃんの印鑑を貰うだけだ……でも、明日は水曜日だから、キミちゃん学校にいねえ!」
「えっ、そしたら今日しかない!? しかも、今日入学式の準備をしてるって考えたら、余計に神出鬼没じゃん!」
「やべえよ、マジで落研消えるぞ! どうすりゃいいんだよ!」
「今日キミちゃん先生が何処かにいるんだったら、もう虱潰しでも何でも探すしかないじゃん! 明日の朝までに間に合わなかったら、落研死ぬんでしょ!?」
「やべえよ! 他に方法ねえのかよ!」
「それしか方法は無いじゃん! そもそも、こうなったのは誰のせいよ!」
突然発覚した事態に、右往左往する二人。断片的な情報だけが飛び交っている為、何が起こっているのかはよく分かっていないが、部活存続危機に直面するレベルで大変な事態になっているのは理解出来た。
二人の言う『キミちゃん先生』というのは、多分落研の顧問の先生。そして、今から明日の朝に提出する、重要な書類に判子を貰いに行くという話だろうか。
「……よし」
まるで何かの覚悟を決めたかのような真剣な表情で、頭を抱えていた為に俯かせていた顔をバッと上げる部長。そこには、今までに何回も見た、あの凛とした真っ直ぐな瞳があった。
「杏姫! 早速だが、君に一つ仕事を与えよう!」
「は、はい」
「これから顧問に会いに行くが、顔合わせということで杏姫も一緒に来てくれ! そん時に、この入部届も一緒に出すぞ!」
「え……?」
唐突に発表された仕事内容に、全身が石像のようにどんどん固まっていくのを感じる。自分の身に何が起こっているのか、何を求められているのか、上手く把握出来ない。だが、自分の常識とはかけ離れた事態になっている事実だけは、石化されて固くなった頭でも分かる。
(ちょっと待ってよ……!)
まだ入学式を迎えていないのに、無断で校舎内に潜入してしまってもいいのか。こんなぶっ飛んだ展開は、今までドラマでも漫画でも見たことがない。それに、運悪く他の先生に見つかって目を付けられたら、今後どうすればいいのか……不安と恐怖が頭の中で交錯して、言いたい事は山程あるのに、何を言えばいいのか思い浮かばない。
「ちょっ、待って! 杏ちゃんは、まだ――」
「待てぇっ、何も言うな!」
私と同じように驚いたのだろうか。鳥のごとく目を大きく見開かせた菜花が、椅子から立ち上がって抗議の声を上げる。だが、それは虚しく、部長によって断ち切られてしまう。
「何も言うなって、じゃあどうする――」
「頼む! 今は喋りかけるな!」
「……えっ、『今は』?」
あれ、何かがおかしい。部長の口から意味不明な言葉が飛んできたものだから、大きな瞳に怒りの炎を宿していた菜花も、不思議そうに首を傾げる。
さっきまでは、凛とした瞳と引き締まった表情をしていた部長。しかし、今はどういうわけか、顔色は真っ青になり、生まれたての小鹿のごとくガクガクと身体を小刻みに震わせている。明らかに普通の状態ではないということは見ただけでよく分かる。
「だ、ダムが……決壊する……!」
一瞬何を言っているか分からなかったが、すぐにその意味は理解した。一目見る限り、一刻を争う状況の中にいることがありありと伝わってくる。
「うわぁああああああっ! ヤバいヤバいヤバいヤバい!」
それからすぐに、部長はまるで忍者のような物凄い素早さで狭い通路を駆け抜け、やや閉ざされた堅い扉を思いっきりこじ開ける。そして、世界新記録を達成するのではないかという位の凄まじいスピードで廊下をバタバタッと走っていき、やがて微かにドアを閉めるような音までも聞こえてくる。
「……喉乾いたとかいって、ミルクティーがぶ飲みするからでしょ。というか、健康に悪いとか言ってた本人が一番飲んでるじゃん」
埃が立ち込める部室内。乱暴に開け放たれた扉の前で、菜花は呆れるように溜息をつく。
そういえば、この部室棟校舎にはトイレもあったような気がする。