二
部室棟校舎三階に、落語研究部の部室は存在していた。
廊下の床と同じ材木で出来ているだろう部室棟校舎の階段を上がると、すぐさま、同じ扉がズラッと並んでいる廊下に出る。長辺を下にした長方形の擦りガラスがはめ込まれた横開きの扉は、教科書に出てくる昔の学校を思い出させるような、焦げ茶色の木製であった。そして、扉の反対側の壁に窓ガラスや水道が並んでいる等、やはり、所々に旧校舎の名残というものが存在している建物である。
落研の部室は、備え付けのプレートを見る前に、案外すぐに見つかった。何故なら、飾りっ気の無い扉が並んでいる中、唯一そこだけが違っていたのだ。扉に何枚ものチラシやポスターが無造作に貼られているだけでなく、プレートの真下には「落語研究部」と達筆な文字で書かれた書初め用紙が貼り付けられていた。
「す、すごっ……」
形が整っている見事な文字で書かれた書初めを見て、思わず声を上げてしまった。私が書初めの審査員なら、金賞を与えてもいいという位に、とても正確かつ美しく書かれている。一瞬、ここは書道部ではないかと錯覚してしまった程、この字の上手さに目を奪われた。
「これ、部長が書いたものだって」
「えっ!?」
字の形からして、菜花や菫君のものでは無いと分かっていたけれど、まさか部長が書いたものだとは想像外だった。そんな感想を抱いたことを、本人に知られたらまずいけれど。
「杏ちゃん、信じらんないでしょ?」
「えっ、いや……」
「そうだよねぇ。あの部長が書いたものだとは誰も思わないもんね。その気持ち、すごく分かるよ」
菜花は、どこか馬鹿にしているような微笑みを浮かべながら、「あの部長」という言葉をわざと強調させながら言う。
「てめえ、最悪過ぎるだろ! この吹き込み方は卑怯だぞ!」
「やだ、部長ったらお口悪い」
「あぁん!?」
遅れてやって来た部長が、般若を思わせるような怖い表情で抗議する。しかし、それに対し、菜花はヘラヘラとふざけながら返す。また喧嘩が始まってしまう……と思ったら。
「杏姫ぇ……こんな姉貴を持ってお気の毒にな……お前にとって、あいつは陽気で優しい奴かもだけど、いっつもこうやって馬鹿にしてくるんだ……」
「は、はぁ……」
今度は、両眉を思い切り下げ、泣きそうな表情をしながら、私の目をジッと覗き込んでくる部長。まるで小さい子どもと向き合うように、わざわざ腰を低くし、しっかり目線を合わせてまでしてくれる。部長の表情を見る限り、恐らく彼の言っていることは事実だろう。菜花はいつもこうやって菫君を揶揄っているんだから。
「ん? 何か言った?」
「いや、何でもねえ……」
その後すぐに、笑いを含んだ菜花の声が、カサッと何かを取り出すような不気味な音とともに廊下に響いてくる。この後の展開を予想しただろう部長は、それ以上言わなかった。
そして、初めて会った時から感じていたことだけれど、部長は、かなり分かりやすい人だと思う。というより、ポーカーフェイスが苦手なのではないかと。こんな言い方は結構失礼かもしれないけれど、ほんの少し自分に似ているような気がする。
「さて、気を取り直すぞ! 此処こそが、我が落研の聖域だ!」
「聖域って初めて聞いたんだけどっ!」
最終的に、キリリと引き締まった真面目な表情へと変化させた部長。
「あ……」
誰にも負けないような意思の強い光をしっかり確認出来る、夜空に散らばる星よりもうんと綺麗な瞳。心なしか、合格発表の時に見たものより、ますます輝きを増しているような気がする。
「それでは、ようこそ、落研に!」
長い前置きを終え、漸く部室の扉に手を掛ける部長。だが、建て付けの悪そうな木製の扉は、ギギギ……と軋むような音を出すだけで、なかなか開こうとしない。
「ナッパ、代わってくれ! こいつ全然開かねえぞ!」
「わ、分かった!」
悲鳴とも言える部長の声に、菜花は、弾かれたように部長のほうへ手伝いに行く。そして、「ガゴンッ」と、まるで何かが破裂するような凄まじい音が響き渡ると同時に、漸く人一人分が通れるような隙間を作ることが出来た。
「これ、建て付けがすっげえ悪いんだよなぁ。ったく、誰だよ、全閉にしやがったやつ」
部長が文句をブツブツと並べつつ、リュックサックを部室に放り込んでから、やや狭い隙間を通り抜ける。私や菜花はそんな乱暴な置き方をすることなく、持っていた鞄やリュックサックが傷つかないように荷物を胸に抱え込みながら、部室に入っていった。
部室の中は、教室の半分位の面積ではないかと思わせる位に、「狭い」……いや、良く言えば「ささやかな広さ」だろう。
後で菜花から聞いた情報を含めるが、部室の中をザッと見るとこんな感じだ。
部屋の入り口から見た正面の窓際には、明らかに部員達の私物らしきガラクタが大量に積まれた、木製の作業机。それは一目見て、美術室や図工室にあった、四人掛けの古びた机を思い出させる。そして、机の右横には、遠目から見ても古いことが分かる、錆びついた鉄製のロッカー。これも、教室の片隅にある掃除用具入れを思い出させるものだった。
入り口から見て左側には、昔の資料らしき書類や本が大量に詰まってそうな、ガラス戸付きの大きな木製棚。これも、大分年代物ではないかと思う。そして、その横に置かれているのは、古い家具達の中では目立つほうである、割と新しい大手メーカーの小型冷蔵庫。
続いて右側には、小型冷蔵庫と並んで新しい、丁寧にニスが塗られたツルツルの木製ロッカー。「可燃ゴミ」と「不燃ゴミ」入れに分かれている、プラスチックのゴミ箱二つ。そして、入り口からだとよく見えないが、ロッカーの隣に、縁起物と言われている、信楽焼の大きな狸の置物。
最後に、部屋の中央には、八人掛けの木製テーブルがズドンと置かれている。そして、その周りには、小さめのパイプ椅子やら木の箱椅子やらが並べられている。テーブルには、赤のチェック柄のテーブルクロスが掛けられており、割と綺麗に保たれている。――以上だ。
全体をざっと眺めると、もはや部室というよりアトリエか物置部屋に近い。
「わりいな、ここ狭くって。ひとまず、ここに座ってくれ! 杏姫には、フッカフカの座布団付きの椅子だ!」
部長は、まるで自分の家にいるような生き生きとした表情で、黄色の座布団が掛かっているパイプ椅子に座るよう勧めてくれる。それまで入り口前でずっと立ち止まっていたが、やがて、言われるままに勧められた椅子に座った。それからすぐに、持っていた新品の鞄を椅子の下に滑り込ませる。
「おいおい、鞄なんか隣の椅子に置いても構わねえぞ!」
「え?」
「んな、会社の面接じゃねえんだから、そんなガチガチに緊張しなくても良いって!」
私が鞄を椅子の下に置いた様子を見た部長が、カラカラ笑う。部長がずっと笑っているので、お風呂上りでもないのに顔がどんどん火照ってくるのを感じる。恥ずかしくて恥ずかしくて、身体ごと茹で上がりそうだ。
「ここは居酒屋みたいなところだから、楽にしていいよって言いたいんだよ」
私の左隣に座った菜花が、コソッと耳元で呟いてくる。正直、この場に解説役がいてくれて助かる。世間知らずのせいか、部長の言葉にどう反応すればいいのか分からなくなる時があるのだ。
一方で何も知らない部長は、冷蔵庫をパカッと開けたと思ったら、琥珀色のロイヤルミルクティー入りの二リットルペットボトルと紙コップを取り出して、テーブルの真ん中に置く。
「うわぁ、『あま~いロイヤルミルクティー』かよ。こんなん飲んだら、糖尿病になるぞ」
取り出したロイヤルミルクティーを見て、またもやブツブツと文句を垂れ流す部長。確かに、このメーカーのロイヤルミルクティーは、他のものと比べるとかなり甘めに味付けされているのはテレビのCMで知っていたけれど。
ミルクティーをここに置いたのは、恐らく菜花だろう。
「えっ、そうなの?」
「『そうなの?』じゃねえだろ! いいか? こういうのって、砂糖の量とか異常だからな! 糖尿病の奴らって、大体こんなの毎日飲んで病院通いしてるからな! いくら高校に入って、自販機が置かれるようになったからって、清涼飲料水ばっか飲んでいると、ガチで若いうちから生活習慣病になって、あっという間に病院送りだからな! 大体砂糖っていうのはな――」
何処かのテレビドラマで活躍していた熱血教師の如く、テレビの健康特集番組の受け売りを延々と語り出す部長。健康にかなり気を遣っていることが伺える。早寝早起きを心がけ、毎日一日三食キッチリ食べているような、規則正しい生活を送っているのだろう。
「初めて聞いた……」
菜花は呆然と聞いている。我が家はあまり健康番組見ていないから、自分も初めて聞いた。
「いいか? 杏姫は、こんな姉貴みてえな不規則生活送っちゃ駄目だぞ!」
「…………」
妹としては「そんなことないです」と言いたいところだけど、菜花の生活っぷりを思い起こすと、なかなかそんな言葉が出てこない。部長は、菜花の生活状況をよく把握しているからそう言っているのだろう。
毎朝ギリギリに起きるか寝坊して、慌ただしく準備するのは当たり前。ひどい時は朝食を抜いて、いつも全力疾走で学校に向かう。極め付けに、深夜のテレビアニメやドラマを見るとか言って、眠りにつくのはいつも夜中の二時か三時……これが、菜花の日常生活だ。
「私をダシにする!? 部長だって、夜遅くまで起きて、毎日寝坊するくせに!」
「なっ、それを杏姫の前で言うなぁぁぁっ!」
一方で、張本人の菜花は、抗議している。
しかし、私もあまり人のことは言えない。朝起きられない日は無かったとは言い切れないし、食欲がないと言って断食した時期もあった。何より、小学校の頃から今まで酷い頭痛持ちだから、今でも頭痛薬が欠かせない。姉妹揃って、部長が理想としている健康的な生活とは程遠い生活をしている。
「っつか、後の二人はどうした? 集合時間とっくに過ぎてるぞ?」
部長がそう呟くなり、リュックサックから白い携帯を取り出す。時計を見れば、集合時間である三時半はとうに過ぎている。落研部員全員が私を含めて五人いると考えるならば、あと二人ここに来ていなければならない。
私も、それに倣って、ブレザーのポケットに入れていた携帯を取り出した。今までサイレントマナーモードにしていたから全く気付かなかったが、いつの間にか落研のグループリストにはメッセージが幾つか入っている。
『今起きた』
『は? 三時半から顔合わせ?』
『ちょっと待てよ、まだ入学式やってないだろ』
『入学式前に何で杏ちゃん呼び出すんだよ』
『今からいく』
落研のグループリストのメッセージは、一つ年上の幼馴染である菫君のものだった。文章から見て、どうやら顔合わせを今日行うことも、私までもその集まりに呼び出されたことも初耳だったらしい。
忘れられていた事実だが、古今高校の入学式は明日なのだ。だから、今の私の立場は、制服を着た侵入者……いや、不審者に近い。
驚くことに、部長による顔合わせの案内メッセージが送られたのは、何と今朝七時頃。あまりの唐突さに驚いて、行くか行かないかかなり迷ったけれど、菜花も同伴することを知って、ついつい行くという選択肢を選んでしまった。入学式前に真新しい制服を取り出したので、母には結構驚かれたけれど。
「今起きたって、もうおやつの時間だぞ。どんだけ寝てんだよ、キュウカッパ」
菫君と同期である部長は、呆れるように溜息をつく。春休み中に菜花から聞いた話だと、菫君と部長は一年の頃に同じクラスで、割と部長とは親しいほうだそうな。部長と菫君は正反対そうに見えるのに、仲が良いなんて意外だと思う。
「きゅ、キュウカッパ?」
「菫ちゃんのあだ名。部長が、『玖珂菫』を、王へんを抜かしてそのまま片仮名読みしたのと、フルネームの最後の二文字を『河童』って読み違いしたからなんだよね」
「あぁ……」
またしても訳分からない単語が飛び出てきてフリーズしたが、菜花の解説でひとまず納得する。まさか菫君がそんなふうに呼ばれているなんて、思いもしなかった。
そういえば、菫君の他に、来ていない先輩はもう一人いたはずだが、その人は何も発言をしていない。グループリストのメンバー一覧を見ると、その人は『桑染胡桃』という名前の人らしいが。
「そういや、胡桃はどうした? 何も連絡来てねえぞ」
「胡桃ちゃん? あ~、今日は何やっているんだろうね」
「どうせ、ヒイラギっていうアイドルのサイン会に行っているか、塾だろ。ったく、連絡一本入れとけよ」
「あの子の出現率は、イリオモテヤマネコ並みだからね~。難しいと思うな」
「お前も何か話しとけよ!」
部長と菜花の会話を聞く限り、その先輩は幽霊部員らしいことが分かる。となると、今日はこの三人で顔合わせということになるのだろうか。知っている顔ぶれしかないので、顔合わせの意味が無いような気がするが。
「杏姫、すまんな。他の奴ら、集団行動の意識が足りな過ぎてな……顔合わせは、また今度になりそうだ……」
「い、いえ……」
済まなそうな表情をしている部長を見ていると、落研にいる先輩達は、普段から遅刻と無断欠席の常習犯だろうなと思う。中学の美術部と比べると信じられない位の緩さだ。
「でも、今日は来てくれてありがとな。朝っぱらに呼び出したのは悪かったけど、また杏姫の顔を見れて嬉しかった!」
磨かれた白い歯を見せてニッと笑いながら、部長はそう言った。まるで一輪の花がパッと咲いたような生き生きとした笑顔と、夜空に輝く星々のごとく煌めく大きな瞳が目に入ってくる。
この人は目だけじゃなくて、笑っている顔までも――。
「ちょっと部長~、いくら杏ちゃんが大人しい子だからって、狙ってるの~?」
そんなちょっと良い雰囲気の中でも、ニヤニヤと笑いながら野次を飛ばしてくる菜花。
「そ、そんなことするわけねえだろ!」
「あら? それにしては、ちょっとお顔が火照っているように見えるけどなぁ……」
「おい、早く誰か来て、こいつを南の島に連れ出せ!」
「何処から南の島が出てきた!? 絵本の読み過ぎでしょ!」
「馬鹿にすんな!」
幼い子どものごとくムキになって反論する部長だが、気のせいか、微かに笑っているようにも見えた。