六
その日の夕方五時頃。
合格の報告を母から聞きつけた父が、わざわざ会社を早退して帰ってきた。そして、私のリクエストであるイタリア料理店『ポンゼ』への外食の為に、家族全員が外出する支度が完了しかけた時のことである。
「菜花~、杏~! ちょっと玄関に来て~!」
そんな母の呼び声が聞こえたので、姉妹二人揃って玄関に向かう。
「おい、お前――」
ゼイゼイと息を切らしながら玄関に立っている、身長一八〇センチを超える大柄の少年。彼が、菜花と同じく一つ年上の幼馴染である玖珂菫だということは、その姿を一目見る前から何となく想像ついていた。
「菫君……」
疎遠になっていた幼馴染の菫君と会うのは、ほぼ一年ぶりだ。身長が少し伸びたのか、最後に会った時よりも一回り二回り大きくなっただけでなく、雰囲気も体つきもかなりガッチリしてきた気がする。しかし、高校一年生の身でキンキンに染められた黄金色の髪と、ダボッとしたジャージ姿は、言っちゃ悪いけれどかなり不良っぽい。本当は、困った人を放っておけない優しさを秘めている兄貴肌の持ち主であるが。
菫君は、私と菜花にとって幼稚園の頃からの付き合いで、同じ近所に住んでいる仲だ。現在、菜花と同じ古今高校に通っており、聞けば同じクラスでもあるらしい。私も、その高校に合格したのだから、今年の四月から姉妹で同じ学校ということになるのだが。
「ちょっと、菫ちゃん! 何学校サボってんのよ! 信じらんない!」
尚も息を切らせている菫君に対し、悪巧みするかのようにニヤニヤと笑いながら、無邪気な子どもを装うようにわざと語尾を上げて揶揄い出す菜花。その態度は、完全に人を小馬鹿にしていると言える。
「あぁん?」
一方で、言われたほうの菫君は、怒りに燃えた、凶暴なライオンを思わせるような怖い瞳を菜花に対して向け、拳銃から勢いよく放たれた弾丸のような鋭い言葉で返す。普段から「目つきが悪い」と言われている位に鋭い目つきで睨まれると、かなり怖い。
「うっせえなぁ、そんなん俺の勝手だろ」
「そっかぁ、サボり過ぎて言い訳すら思い浮かばなかったのね? 菫ちゃんの場合、『面倒』以外の理由で休んだこと無いもんねぇ~。中学の頃から全く変わってないわぁ」
「てめえいい加減にしねえと捻りつぶすぞ?」
「ちょっと何それひど~い! 目の前にいる可憐な女の子脅迫するとか、男として最低よ!」
「こいつ、昔から超うっぜえ。自分で『可憐』とかいうかよ、キッショ」
ニヤニヤ笑って馬鹿にしつつ正論を突き付ける菜花と、それに対して暴言を吐き続ける菫君。
「あの……」
また、いつもの口喧嘩が始まってしまった。この二人は、幼稚園の頃から一緒ということで、些細な事で毎日のように喧嘩をしているから、この光景はもはや日常の一部だと思っているが、流石に玄関先で喧嘩されるのは困る。
「つーか、こんな下らねえ喧嘩してる場合じゃねえぞ。それより――」
「えっ? 喧嘩の元凶が何を言ってるのかしら?」
「おめえが最初に吹っ掛けたんだろ……じゃねえ、今日はお前じゃなくて、杏ちゃんに会いに来たんだよ」
そこまで言って、今度は私のほうをジッと見つめてくる菫君。そこには、さっきまで菜花に向けていた、獲物を狩るような鋭い光など見当たらない。その代わり、今の菫君は、少しの曇りも見当たらない神妙かつ真剣な瞳をしていた。
まるで全てを見透かしてしまいそうな瞳に、思わずビクッと身体が震えた。背中に氷塊を直に押し当てられたかのような、ゾクゾクした気持ち悪い感覚まで襲ってくる。決して嫌いとかそういう感情からではなく、自分の思っていること全てを見抜かれてしまう予感からだ。
「お前……少し痩せたな。ちゃんと食っているのか?」
菫君が放った最初の一言が、それだった。感情の籠っていないようなぶっきら棒な口調であるが、決して不機嫌というわけではない。菫君にとって、これが通常運転である。
そして、菫君の言う事は当たっていた。美術部を辞めてからは、以前よりも食欲が落ち、元々偏食気味で小食だったのがますますひどくなって、結果的にかなり痩せてしまった。
「でっ、でも、ちゃんと、三食食べているよ! ま、まあ、お代わりとか、しなくなっちゃったけどね……」
菫君と、一年ぶりに会話をする。普段、異性と話すことに対して苦手意識を持っているけれど、昔からの付き合いである菫君なら大丈夫だ。約一年疎遠になった間柄だとしても、緊張度よりも付き合いの濃さが勝って、一応自然と言葉が口から出てくる。吃ってしまっているけれど。
菫君は、ぶっきら棒な口調で尚も続ける。
「とにかく、杏ちゃんが生きてて良かった。お前が、あのクソな美術部辞めてから、ずっと心配だったんだぞ。去年の三学期は殆ど学校に来なかったみてえだし。お前のほうからも何も連絡してくんねえし、家を訪ねても全然出てくれねえし。だから、キチ野郎から聞くしかなかったんだぞ」
「ご、ごめん……」
「まあ、お前にとって、俺は会いたくねえ奴の一人だろうな。別に高校入っても、俺なんか放っておくなり好きにしろって感じだけど」
菫君が、家族でもない自分のことをずっと心配してくれていた。水を含んだ絵の具が染みわたるように、胸の中に広がっていく。
実はいうと、疎遠になっていた一年間は、菫君のことをわざと避けていた。男子を異性として意識するようになってから、どんどん雄々しくなっていく菫君と話しづらくなったのもある。だが、本当のところは、美術部を辞めてから家族以外の人と話すことが嫌になって、菫君とも顔を合わせるのが嫌になっていたのだ。
菫君も落研に入っていることを知ったのは、落研のグループリストに入った直後。一年間も避けていたことで、正直なところ、このまま落研に入っても居心地悪いのだろうかという思いがあった。
「それでも、これだけは聞かせてくれ。でないと、あいつのことどうするか分かんねえ」
「えっ?」
「落研のこと。あの野郎に、脅迫でもされたのかよ?」
「き、脅迫?」
「この前、家に来た黄蘗のことだよ。もし脅迫されて入ったんなら、あいつのことブン殴るしかねえ」
もはや、取調室にて、警察官か刑事に尋問されている気分だ。私はこうやって意見を言わされるのが昔から苦手で、問い詰められると普段なら言えることも余計言えなくなってしまう。
何と返せばいいのか分からなくてずっと黙っていると、菫君はそれを察したのか、固い表情を少し和らげて、重ねて言ってくる。
「いや、言っとくけど俺は、お前の落研入部に反対しているわけでも、怒っているわけでもねえぞ? むしろ、お前が入ったら、あいつの暴走が軽くなるだろうから、けっこー助かるのが本音だ。落研は、上下関係もルールも殆どねえ、楽な部活だからお前に合っていると思う。だけど、本当にお前の意志なのか、それが一番知りてえんだよ」
「…………」
菫君の言葉には、強いデジャヴを感じる。それもそのはずだ。何故なら、つい一時間前に菜花と同じような会話を繰り広げていたのだから。そして、菫君が抱えている思いは、菜花と一緒であろう。
「さっき言ったことを、また言ってごらん」
戸惑っていると、耳の中に、菜花の小声が流れ込んでくる。
「相手は菫君でしょ? そんな怖がらなくても大丈夫だって」
私の視界には入ってこないが、後ろに立っている菜花の表情はきっと笑っているのだろう。子守歌のような優しい声に背中を押され、自分の胸の中に溜まっている思いを、目の前にいる菫君に対して伝える。
「あの……ずっと人を信じられなくなっていたけど、部長なら信じてもいいかなって思って……だって、あの人、悪口ばっか言っている中学の人達とは違うって分かったから……」
緊張の余り、言葉が思いつかないせいでぎこちないものになってしまったが、言いたい事は全て言えたと思う。
「嘘だろ……こいつ、あの部長に惚れやがった……」
それまで真剣な眼差しで話を聞いていた菫君だったが、話が終わった途端、みるみるうちに、恐ろしいものを見たかのごとく表情が青褪めていった。
「ち、違う! ほ、ほ、惚れたとか、そんなんじゃなくて――」
「冗談だよ。まあ、大体そうだろうなと思ってた。うちの中学は、思い返す限り、脳味噌イカれているクソな奴らばっかだったからな。部長みてえに裏表のねえ奴なんて、一人もいなかったし」
「……うん」
「ひとまず、無理矢理入らされたとかじゃなくて安心した。ったく、お前がいつの間にか落研のグループに入ってて、ガチで心配したぞ。さっき起きたら、何かしんねえけどメッセージが荒れているから、何かと思えばお前の名前があったもんだからよ」
そこまで聞いて、鈍感ながら、漸く菫君が私の家に来た目的が分かった。勿論、菫君は、美術部を辞めた出来事のことをよく知っている。それから、私自身が部活に心を閉ざしているということも。
グループリストの中に私の名前を見つけ、その真意を確認するために、部屋着のジャージ姿のまま、家まで駆けつけてくれたということだ。身勝手な理由で、約一年間避けていたというのに、それでも私のことを心配してくれていたという事実に、全身が震えるような感動を覚える。
「あ、ありがとう……それと……ずっと会わなくてごめん……」
気づいたら、私は菫君に向かって、そう言っていた。その時の私は、遠慮も緊張も殆ど無く、ただ心の中に浮かんだ言葉をそのまま吐き出したような感覚だった。
すると、菫君は呵々と笑い出し、普段のぶっきら棒とは程遠いような、軽快な口調で喋り出す。久しぶりに見る菫君の笑顔だ。
「んなこと、気にすんなよ。俺は別にそんなことで怒ってねえぞ? 気が向いたらひょいっと話しかけてくるんだろうな~って気軽に考えてたし。お前が、むやみやたらに人を嫌ったりしねえのは知ってるぞ」
「菫君……」
「もう受かったんだし、脳内お花畑のクソしかいねえ学校サボっちゃえよ。別にサボったところで、高校の合格取り消しになるわけねえし。実際、俺、高校合格したら学校殆ど休んでたからな?」
「ちょっ……!」
菫君の学校休んだ宣言に、思わず吹き出してしまった。
「ちょっと菫君、何うちの妹に変なこと唆しているのよ! それに、あんた今日学校サボって、夕方までずっと寝てたわけ!? 信じらんない!」
それを聞いた菜花は、一瞬怖い顔をした後に、大声で笑い出す。菫君の言葉の中の「さっき起きたら~」という部分は確かに突っ込みどころではあったけれど。
それが事実だとしたら、この人は夕方までずっと寝ていたということになる。正直、私から見ても、信じられない行動だと思う。
「さっきからこいつマジでうるっせえ。おめえなぁ――」
ありのままの事実を告げられた菫君は、菜花に反論しようとするものの、流石にこれ以上言葉が思い浮かばないらしく、やがて黙り込んでしまった。
「あらら、さっきまでの元気はどうしたのかしら? もしもし? 菫ちゃん?」
「さっきから鬱陶しいんだよ。つーか、過ぎたことはもうどうでもいいじゃねえかよ」
「出た、菫ちゃん迷言『過ぎたことはどうでもいい』! そうやって現実から逃げようとする癖、どうにかしたら~? もう高校生なんだからさ!」
「その言い方、聞いているだけでイライラする。マジうぜえ」
「何ぃ~?」
今回は菫君が身を引いて収まるのかと思いきや、菜花が諦めずに絡んできたことで、結局喧嘩になってしまった。普段は両者とも私より大人びているが、この二人が顔を合わせると、途端に小学校低学年に戻ったのかと思う位に子どもっぽくなる。
幼馴染という間柄というのもあって、喧嘩となるとお互いが遠慮せずに物を言い合う。普段からなかなか物を言えない私からしたら、羨ましい光景だ。しかし、このまま放っておいたら、延々と止まらない気がする。
「ち、ちょっと待って! だから、喧嘩止めてよ!」
結局は、私が仲裁役となって、二人の喧嘩を止めるしかなかった。いつもは面倒で溜息をつきたくなるけれど、今日はそんなに嫌だと感じない。
何故なら、今は幸せだから。
こうして、部長に引きずり込まれるように、唐突に入部してしまった古今高校落語研究部。
だが、この時は、まだ部長の素の姿も、落研についても、何も知らないままだった。そして、これから迎える高校生活が波乱に満ちたものになるという未来も――。