演目『従妹』
銭湯に行ってから一週間経った、五月下旬の金曜日。
五月らしく煌びやかに晴れ渡った青空の下、古今高校の校庭にて、第何十回目かの体育祭が行われた。中間テストの直後というのもあってか、どのクラスも並々ならぬ気合であり、地味な競技が続く午前の部だけでもお祭り騒ぎだ。古今高校の生徒はどちらかというと、運動部や大所帯の文化部(吹奏楽部や合唱部)といった体育会系部活に所属しているほうが多いから、こういう行事の時は大盛り上がりだ。
古今高校の体育祭は、それぞれクラスごとに発注したTシャツを着て参加するというが恒例で、毎年一枚ずつTシャツを購入している。三年間通えば三枚だ。ちなみに、私の所属する一年C組のクラスカラーは黄緑色だ。よくここまで行事に熱心なものだと感心する。
「杏ちゃ~ん、お疲れ~」
「お疲れ様」
昼休み。つまりお昼ご飯の時間。生徒や保護者で賑っている校庭の片隅にて。
呼び出された場所へ向かうと、既に、赤いクラスTシャツを着た菜花と普段着の母が揃っていて、出迎えてくれた。わざわざ敷いたレジャーシートの上には、約束通り大きなお弁当が広げられている。カラフルな彩りのおかずや、バスケットにギッチリ詰められたお握りを見て、純粋に運動会を楽しんでいた幼稚園や小学校時代の思い出が不意に蘇ってくる。
去年の中学の体育祭は体調不良で休んでしまったので、二年ぶりの体育祭だ。しかし、四月になってから頻繁に体調を崩しているため、今年は完全見学になってしまった。結局、欠席と何も変わっていない。
「競技一つもやってないけどね……しかも応援合戦も出ないことになったし。本当何しに来たんだろうって感じ……」
「まあまあ、ずっと斎藤先生のお手伝いしてたんでしょ? お手拭きどうぞ」
「ありがと。私、本当にクラスに何も貢献してないの。涼しい部屋で、新しいシーツ縫ったり、保健室の出入り口に飾るものを作ったり――」
「いやいや、全然サボってないじゃん! クラスのほうに出られないのは体調が悪かったから、仕方ないよ! 斎藤先生も、杏ちゃんがいてくれてすごく助かったと思っているよ! 先生、スクールカウンセラーと養護の先生を掛け持ちしているから、会う度にボランティア募集中って嘆いていた程に忙しいみたい。杏ちゃんのおかげで、保健室が行きやすくなる子が増えるんじゃない?」
「そう?」
「うん! とにかく、食べないと倒れちゃうよ! ほら、杏ちゃんの好きな味噌鮭のお握りだよ!」
「あ、ありがとう……」
菜花にお握りを渡されたので、それを一口かじる。しばらくかじっていると、ご飯の甘味とともに、甘い味噌の香りと鮭のプリッとした触感が口の中に現れ、食べるのが止められなくなった。ゆっくり咀嚼しているうちに、どんどん食欲が湧き上がっているような気がした。
「ほら、もっと食べて。今日は腕によりをかけて作ったんだから。リンゴと金時豆の甘煮も、ウサギさんウインナーもあるからね」
「お、美味しそう……ウサギさんウインナー、すごい……」
「今日はいっぱい食べてもらうからね、杏」
母は自信満々に笑っている。お弁当箱の中をよく見ると、肉じゃがや卵焼きなど、八割が私の好物だった。まるで誕生日やお祝いの時のご馳走の縮小版のようだ。きっと、入学式以来再び食べられなくなった自分のことを心配して、切るのが難しそうなウサギさんウインナーまでもわざわざ作ってくれたんだと思う。
「美味しい……」
「ねえねえ、このアスパラガスとジャガイモのハム巻きも食べなよ!」
「うん」
食欲旺盛の菜花に次々とおかずを勧められ、食欲が無いことを忘れて、どんどん口の中に入れてしまう。朝食や夕食の席では半分位しか食べられないのに、今は平気で食べられるから不思議だ。お腹一杯になるまで食べられて、お代わりまでしていた小中学校の頃の感覚が戻ってきたような気がする。
「――杏姫がちゃんと食べてるっ! えらいぞ!」
「ぐっ」
後ろからいきなり素っ頓狂な声が聞こえてきたことに驚いて、思わず飲んでいた麦茶を吹き出しそうになった。いつだったか、菜花が「来ていい」と言った気がするが、普通は挨拶するのが先だと思う。
振り返ると、案の定、菜花と同じ赤いTシャツを着た部長が大きな瞳をキラキラ輝かせながら立っていた。部長が乱入してくるのは想定内だった。
「あら、黄蘗君。体育祭お疲れ」
母は、警戒心の欠片も無いいつもの笑顔で部長を受け入れる。
「あっ、どうもこんにちは。あっ、いきなりお邪魔してすいません」
「いいのよ。今日作り過ぎちゃったから、良かったら食べていかない? 男の子だからいっぱい食べたほうがいいわよ」
「いいんですかぁっ!? うぉぉっ、ありがとうございまぁぁぁす!」
「男の子は元気が一番よ。お握り、何がいい? 味噌鮭と普通の鮭、おかか、梅干しがあるわよ」
「味噌鮭でお願いしまっす!」
部長は、母の言葉に狂喜乱舞し、レジャーシートの上に上がり込む。その際、靴をちゃんと揃えたり、正座したり、貰ったお手拭きでしっかり手を拭くなど、純粋無垢な子どもとは遠い丁寧な動作が印象的だった。しかし、それでも、目線はお弁当にしかいっていないのが丸分かりである。
「部長ったら……」
菜花は呆れたような顔を浮かべているが、追い出すつもりはないらしい。部長のためにスペースを作ったりお手拭きを渡したりなど、何だかんだ受け入れている。
ひょっとしたら、母は部長が乱入してくることを予測してお弁当を作ってきたのではないかと思う。どう見たって、この量は三人だけで食べきれそうもない。
「そういえば、他の落研の子達は?」
「それが、見つからないんすよ~。どっか日陰でのんびり寛いでいると思いますが。それにしても、このお握り美味しいっすね! 甘い味噌と鮭のしょっぱさが交互に味わえて、最高っす!」
「ありがとう。おかずも遠慮しないで、どんどん食べて。主に、杏の好きなものを思いつく限り作ってきちゃったけど、作り過ぎちゃったのよね」
「ありがとうございますっ! この味噌じゃが、超うまいっすね!」
母と楽しそうに会話しながら、お握りやおかずをモリモリ食べていく部長。人生で一番の幸せを噛み締めているようなニコニコ笑顔が目に入ってくる。お弁当を作ったのは母であるが、部長の喜んでいる顔を見ていると自分も無意識で嬉しい気持ちになる。
しかし。
「杏姫、これだけじゃ足りないだろ! 午後はどんどん暑くなるから、もっと食べたほうがいいぞ!」
「は、はい……」
「三度の飯より大事なものは無いからな!」
私の手に持っている紙皿を見ただろう部長から、突っ込まれてしまった。これでも多く取ったほうだけれど、育ち盛りの高校生の男子には少なく見えるのだろうか。
「黄蘗君、もっと言ってあげて。今日の杏の朝ご飯、ヨーグルトと味噌汁とフルーツだけだったから、いつ倒れるか気が気じゃないのよね」
「えぇぇっ、それは朝飯とは言わねえぞ! パンかご飯、駄目そうならせめてコンフレークは食え! 主食抜くのは一番駄目だからな! あと、お母さんに心配かけちゃ駄目だぞ!」
「ほら、黄蘗君もそう言ってるわよ」
母は止めるどころか、次々と余計なことを吹き込んでいる。また、母は、部長の口から飛び出た「杏姫」発言に何も突っ込まない。
確かに部長の言っていることはごもっともだし、私の食欲の無さで両親に心配かけているのは事実だ。しかし、どんなに食べたくても胃袋が受け付けてくれない。美術部を退部する前は、トースト一枚は余裕で食べられたのに。
「ご飯やパンはきつくても、せめて牛乳掛けのコンフレークは食べられるようにしようね? 朝ご飯は主食が大事だからね」
「……うん」
いつもは庇ってくれる菜花だが、私の食欲の話題になった途端に母と同じことを言ってくるんだから、もう。
「ほら、杏ちゃん、まだ味噌鮭のお握りあるよ? これからお部屋の中にいるとしても、お握りはもう一個食べなさい」
「は~い」
ついには、菜花の手によって、お握りを勝手に紙皿にのせられてしまう始末だ。菜花は、顔立ちだけでなく仕草も何もかも母そっくりだとぼんやり思いながら、味噌の香りが染みついているお握りをかじりつく。
そんな時だった。
「――菜花お姉ちゃあんっ!」
後ろから、小さい子どもだと思わせるような元気の良い女の子の声が聞こえてきた。
最初は、幻聴、もしくは誰かの小さいお子さんかと思ったが――。
「うわぁっ! な、なごちゃん!?」
「菜花お姉ちゃん、お久しぶりです~!」
嬉しそうに菜花の背中に絡みつくのは、水色と白のストライプ模様の可愛いワンピースを着た、短い髪をキツキツに結んだポニーテールの女の子――私と菜花の従妹である、山吹和ちゃんだ。愛称は「なごちゃん」である。身長一四五センチと小柄なため、一見すると中学一年生、下手すれば小学校高学年に見える。
「菜花お姉ちゃんが着ているのって、クラスのTシャツ? 後ろに描かれているカッパさん可愛いです~。あっ、Tシャツの後ろのローマ字って、クラスのお友達の名前なんですね。あっ、菜花お姉ちゃんの名前!」
なごちゃんは、久しぶりに会った菜花と話すことに夢中で、私のことを見向きもしない。そして菜花もまた、ニコニコと嬉しそうに笑いながらなごちゃんの話を聞いている。小さい頃から見慣れた、いつもの光景だ。この時ばかりは、菜花もいつもの菜花ではなくなる。
「こんにちは、なごちゃん」
「叔母さん、こんにちはです~!」
「柚子ちゃ……お母さんは?」
「お母さんは、不動産屋さんに寄ってから、もう一回来るんです~! 今日ね、開校記念日で学校お休みだから、体育祭の見学に来ちゃいました! 菜花お姉ちゃんと叔母さんに会えて、とっても嬉しいです~!」
「あ~、もうすぐこの辺にお家出来るもんね。お弁当、どうぞ。今日作り過ぎちゃったから、食べるの大好きななごちゃんが来てくれて、叔母さん嬉しいわ」
「ありがとうございます~!」
「お握りの具材、何がいい? 味噌鮭と普通の鮭、おかかに――」
「おかかでお願いします!」
母は、動揺することなく、お弁当のお握りやおかずを新しい紙皿によそい出す。
さっきのなごちゃんの言葉には、私の名前は入っていなかったけれど、特にガッカリはしていない。小さい頃からずっとそんな関係だったから。
「新しい家、いつ完成するの?」
「七月! この後ね、新しいお家見に行くんですよ~」
「え~、もう出来上がってるの? 気になるなぁ~」
「大体出来てます~! 夏休み入ったらそこに住むから、本当に楽しみなんです~。お家出来たら、一緒に行きましょうね!」
「うん、ありがとう!」
お握りを頬張りながら、菜花にだけ引っ越しの話を持ち出すなごちゃん。新しい家にワクワクしているのか、大きな向日葵が咲いたかのごとく無邪気な笑顔を菜花に向けている。
「あ、あの、なごちゃ――」
「新しいお家、三階建てなんです~! なごの部屋は三階!」
菜花に対してはこのようにベッタリであるが、私のことは無関心だ。いつまで経っても挨拶してこない上、話し掛けても気づかない。菜花の妹である私に良い感情を持っていないのは、とっくの大昔から知っている。
なごちゃん一家は、山梨県に住んでいる。古今高校のある東京から山梨まで、新幹線で一時間程掛かるようなところだと聞いたことがある。そのため、会えるのは長期休み中のみだけだった。しかし、この夏に和の父の転勤の影響で、古今高校から徒歩十分位の住宅街に新居を建てることになり、夏休み中にそこへ引っ越すことになっているらしい。お正月にその事実を聞いた時は本当に驚いた。
「ど、どうも、こんにちは」
完全に置き去りにされていた部長に、漸く口を開く機会が訪れた。普段はナンパしまくる部長であるが、思ったよりも小さい女の子(実際は女子中学生だが)の訪問には流石に驚いたようだ。多分、慣れればいつもの口調に戻るだろうけど。
「ねえ、この人は、菜花お姉ちゃんのお友達ですか?」
当然、なごちゃんは不思議そうに目をパチクリさせながら菜花の顔を見上げる。
「この人は、私と杏ちゃんが入っている落研の部長さん。あの噂の暴走魔だよ!」
「こんにちは! あたし、菜花お姉ちゃんの従妹の山吹和です! 今年で中学三年になりましたぁっ!」
「杏ちゃんも含めてあげてっ!」
なごちゃんは、初対面の部長に対しても、人見知りすることなく元気に挨拶する。菜花に似て、私とは大違いだ。相変わらずだが、自己紹介に私の名前は含まれていない。
その人見知りしない性格が功を奏したのか、部長はすぐに無邪気な笑顔を浮かべ出す。
「ああ、従妹か! 俺は、二年の黄蘗! よろしくっ!」
「よろしくお願いしたします!」
「それにしても、ナッパに似てるなぁ~! 分身か!?」
グサッ。
部長の言葉が、胸の奥のほうに鋭く突き刺さるのを感じる。それは、一番言われたくない言葉で、惨めな気持ちがどんどん湧き上がってくる。しかも、今回言ってきたのは、身近な人物だから尚更だ。
「それ、よく言われるんです~!」
一方で、なごちゃんは、その言葉を待っていましたと言わんばかりにパッと笑う。私とは、全く正反対の反応だ。恐らく、わざと見せつけているつもりはさらさら無いだろう。それが、一番堪える。
なごちゃんは、パッと見、菜花と似ている。顔立ちも性格も菜花寄り(つまり、私の母似)で、この二人が並ぶと周囲の人から「姉妹」と間違えられるのがお約束。私は小さい頃からその光景が大嫌いで、二人の隣にいるのが嫌になる位に惨めになっていた。
大好きな菜花に似ていると言われると嬉しいのは、凄く分かるけれど――。
「ああ、ナッパをそのまま小さくした感じ! すっげえ再現率!」
弾丸のごとく飛び出てくる部長の言葉。悪気が無いのは分かっているけれど、それでも容赦なく胸にザクザク突き刺さってくる。
「……うん、よく言われている」
「菜花お姉ちゃぁん!」
菜花が頷いた途端、大胆にも、なごちゃんは菜花の腕に甘えるようにギュッと絡みついた。それは、今まで私が菜花にしたことが無い行為だ。また、この二人は身長差が十センチ以上あるせいか、本当に年の離れた姉妹のように見える。
それに引き換え、私と菜花は、身長差がたった四・五センチしかないのもあって、初見で姉妹と見抜かれた記憶が殆ど無い。顔立ちも雰囲気も全然似ていないので、いつも「友達同士」だと間違えられ、酷い時は馬鹿にされたりして悲しい思いをしてきた。
菜花も、菜花だ。
こんな時、何も否定してくれない。それどころか、なごちゃんの言葉に頷くから、ますます勘違いされる。
「ねえ、菜花お姉ちゃん。お手洗いって何処にあるか知ってます?」
「あぁ~、少し遠いけど体育館のところだね。今だったら校舎の中の――」
「体育館で大丈夫ですよ~! 菜花お姉ちゃん、一緒についていってください!」
なごちゃんがおねだりするように言う。この年頃で、「案内して」ではなく「ついていって」と言える辺り、凄いと思う。
「いいよ!」
菜花はそんなお願いを快く引き受け、なごちゃんと一緒にレジャーシートを抜け出していった。こんなふうに、菜花を連れて行かれるのは慣れっこだから、別に嫉妬したりはしない。とはいっても、その間、菜花は自分に何も話し掛けてくれなかったのは、少しどころかかなり切ない。
「いっけね! 受付係の仕事忘れてたぁぁっ! 叔母さん、メチャクチャ美味しかったっす! ご馳走様でしたぁっ!」
クラスの係の仕事を思い出したらしい部長は、あろうことか、おかずを口の中に頬張ったままレジャーシートを飛び出そうとする。
「ちょっと、喉詰まらせないようにね」
「ふぁ~い! グッ、ゴホッゴホッ」
「もう、言ってるそばから……ほら、お水飲んで」
「ず、ずみまぜん」
慌てて部長のところに駆け寄る母は、私と菜花以外の子でも、自分の子どものように気に掛ける人だ。部長に水を飲ませた後、ラップで包まれている余ったお握りを持たせるあたり、完全に「理想の母」だと思う。
レジャーシートの上に取り残されたのは、私と母のみ。部長が喋っている間はずっと黙っていた母だが、二人になった途端に一気に喋り出す。
「もう、そんなこと一々気にしないの! 黄蘗君、別に杏と菜花を見て『似てない』って言ったわけじゃないでしょ?」
「うん、そんなこと言ってない……」
「なごちゃんのほうが妹っぽいとも言ってないでしょ?」
「うん……」
部長は純粋だから。思ったまま正直に言ってしまう人だというのは、一ヶ月一緒に行動してきたから分かる。そのことは、母も分かってくれているようだ。
「ほら、元気出して! 一番大きいウサギりんごのせてあげるから」
「ありがと……」
太陽のように笑う母が、綺麗に切られたウサギりんごを紙皿の上にのせてくれた。やはり、私が気落ちしていたことは、母にバレバレだったようだ。
それなのに、私はいつまでも気持ちを切り替えられず、ついには目頭がジワジワと熱くなる。こんなことで涙ぐむのは弱虫だって分かっているけれど、今日の出来事は、グッと我慢するのにはあまりにも辛いことだった。
「杏は気にし過ぎなんだから。もう高校生でしょ?」
母は、泣きそうな私の両肩を抱き、優しく撫でてくれる。こういう時、母は怒るのではなく抱き締めてくれるから大好きだ。
「大丈夫。杏も菜花も、たとえ似てなくても、お父さんとお母さんの子どもなのは間違いないからね」
それは、小さい頃から言われてきた、魔法の言葉だった。
部長を責めるのでもなく、なごちゃんと仲良くするように窘めるのでもなく、ただ自分の思いを受け止めてくれる。そんな母のもとに産まれてこれたのがとても幸せなことだということは、ずっと前から分かっていた。




