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おいでませ落語研究部へ  作者: 椿
「仲間」の話
41/52

※この回の中盤辺りから、これまでより酷い嘔吐表現があります。誰でも読めるようにマイルドにしたつもりですが、そういう表現が苦手な方、食事しながら読んでいる方は、この次の回の「六」までスキップしてください。すみません。

 事件が起こったのは、一斉勧誘が始まった時よりも波が収まり、小道をうろつく新入生の数が一時的に少なくなってきた頃のこと。多分、ビラを配り始めて、三十分か四十分経った辺りだろう。電話しに行った菜花と別れて、そんなに時間も経っていないと思う。

 ビラを配ろうと、校舎のある方面に目を移した。発表系の部活が集う体育館へ向かう人、校舎へ引き返す人、小道の脇で固まっている友人グループなどなど。教師の拘束もなく、自由に動ける一斉勧誘で、新入生がどのように過ごしているかは十人十色だ。

(ん?)

 新入生や上級生が入り混じる賑やかな集団の中で、一瞬見覚えのある顔があったような気がした。一度気になってしまえば、その正体をこの目で突き止めないと気が済まない性だ。だから、見覚えのある顔が誰だろうと気になり、その方向を凝視する。

「――っ!」

 誰だかを認識した途端、一瞬自分の呼吸が止まった。まるで首をギュッと締められたかのように、息がどんどん詰まっていく。それだけではない。鈍器で殴られたような衝撃を、身体全体で感じる。

 校舎の入り口付近に立っていたのは……佐伯さんだった。

 その場にいるはずがないと見込んでいた人物が、配られたパンフレットを片手に、二人の友人達と小道をうろついている。

(何で!? 帰ったんじゃなかったの!?)

 心臓の鼓動がどんどん高まっていく中、混乱する頭で必死に考える。落ち着け、と自分の中で言い聞かせるものの、先程見た佐伯さんの姿が脳に焼き付いて離れないため、自分の思いとは相反してパニック状態になる。

 浴衣を着る前に、体育館の入り口付近で窓越しに、校門方向へ向かう佐伯さんを見かけた。佐伯さんの行った方向には勧誘活動を行っている部活は無いはずだ。あの時、彼女達はそれぞれ鞄やリュックサックを持っていたから、そのまま帰ったのかと思っていた。しかし、その予想は裏切られた。いや、そもそも「帰った」という考え自体が甘かったとしか言えない。

「――杏姫?」

 部長の声で、遠くへ飛びかけた意識が現実世界へ戻る。だが、心臓の鼓動は高まるばかりで、少しでも気を抜いたらヘナヘナと座り込みそうな状態だ。

「どうした? 何か気になる部活でもあったのか?」

「いっいえ、すみません……」

 そうは言ったものの、今はビラ配りどころではない。このまま何事も無かったように、宜しくお願いしますの挨拶をしながらビラを差し出すことはとても不可能に思えた。

だが、一斉勧誘が終わるまでの間、与えられたこのノルマを達成しなければならない。手元にあるビラは、渡された量を思い出して比較しているとまだ半分も残っている。

「おい、杏姫?」

 異変を察知しただろう部長は一旦ビラを配る手を止め、医師の診察のごとく私の顔をジッと覗き込んでくる。今の自分は、余程酷い表情をしているのだろう。

「いえ、大丈夫です。すみません」

 思わず、部長から顔を逸らしてしまった。異性に顔を覗き込まれることに抵抗を覚えたのもあるが、原因を一生懸命探ろうとする純粋無垢な瞳を見るのが辛いというのが一番の理由である。

 佐伯さんのことは、部長どころか家族にすら話していない。それだけでない。美術部での出来事も、それが原因で中学時代が地獄に変わったことも、部長にはまだ隠したままだ。

(し、集中!)

 このままボーっと立ち尽くしているわけにはいかないので、脳内をしつこく駆け巡っている佐伯さんの残像を振り切るように、ビラ配りを再開する。しかし、手が震えて、大量に積まれたビラから一枚を掴むのがやっとだ。

 まだ小道には、生き生きとした目をしている新入生がぞろぞろ集まっている。各部活を宣伝する声も止む気配がない。一斉勧誘の終了時間が来るまでは、まだまだかかりそうだ。

 再び校舎のある方向へ目を向けると、佐伯さんは友人達とまだその場に留まっていた。

 佐伯さんは、この後どうするのだろうか。校舎の中に引き返すのか、体育館の方向へ歩き出すのか……しかし、遠目で見ただけでは予測が全くつかない。

このまま体育館方向に向かわれたら、鉢合わせする運命は免れない。それは、何としてでも避けたいことだ。

(お願い、帰って! こっちには来ないで!)

 心の中で、必死に声にならない願いを叫んだ。

 上級生に紛れて落研の勧誘をしているなんて知ったら、どうなるのだろう。佐伯さんは友達多い人だったから、地元にも今のクラス内にもすぐに言いふらすに決まっている。何故なら、中学時代、中心となって根も葉もない噂を学校中に流したのは、佐伯さん本人だから。

 このまま顔を合わせたら、冗談じゃなく大変なことになる。

 自分のことだけならまだいいが、菜花や菫君だけに留まらず、落研そのものの継続に影響が出てしまったら――。

(菜花! 早く戻ってきて! 菜花!)

 遠くへ念を送るように、電話しに行ったまま帰って来ない菜花をひたすら思い続ける。もし菜花が戻ってきたら、佐伯さんのことを全て話して、この場から逃げるつもりだ。家族に佐伯さんのことを打ち明けることに対しては、もう迷いはない。

(えっ)

 だが、願いは虚しく、事態は最悪な展開を迎えてしまった。

 何を思ったのか、佐伯さん達は体育館の方向へと歩き出してしまった。体育館の通り道には、当然私達がいる。この小道を通らなければ、体育館や小体育館に行くのは不可能だ。

(嘘……でしょ……?)

 残り一分もしないうちに、佐伯さんと鉢合わせする。

 全身の血の気がサーッと引いていくと同時に、胃袋が乱暴に揺さぶられる感覚を覚える。強い吐き気と目眩が身体中をどんどん蝕んでいく。そのうち目の前が真っ暗になったかと思えば手の力が抜け、持っていたビラの束を地面に落としてしまった。ビラはバラバラバラッと盛大な音を立てながら、四方八方に散らばっていく。

「杏姫、大丈夫か?」

 力無く座ってビラを拾っていると、部長がしゃがみ込んで顔を覗き込んでくる。霞んだ視界の中に、部長の顔が妙にハッキリと映し出された。

「顔真っ青じゃん! まさか、具合悪いのか?」

「え、あ……」

「気持ち悪いのか?」

 もう、何も誤魔化せなかった。部長は、菜花伝手で、小運動会の出来事を知っている。しかし、今はバレたバレないの問題ではない。ただ、今思うことは、佐伯さんが近づいてくるという危機感のみだ。正直胃袋の中身がぐんぐんせり上がってくる感覚よりも、胸が潰れそうな位の緊張を強く感じる。

 そうこうしているうちに、佐伯さんは校舎へ引き返すことなく、どんどん小道を歩いていく……いや、私達のほうへと歩いてくる。その距離はあと五メートル位しかない。かなり絶体絶命だ。

「おい、立てるか? 保健室行ったほうがいいぞ」

「えっ」

 何ということか、人が大勢いる場で部長がサッと手を差し伸べてきた。

 吐き気が辛くて、本当は素直に掴みたいが、今ここで部長の手を握ったら、間違いなく佐伯さんに見られてしまう。そうしたら、あの頃のように、学年中に変な噂が飛び交うかもしれない。それだけは絶対に避けたい!

「だ、大丈夫ですっ」

 私はその手を握らず、勢いよく立ち上がった。その弾みで視界がグラッと揺れるが、何とか倒れずに姿勢を保つ。込み上がってくる吐き気を全身の力で押し殺しながら、足に力を込めて真正面を捉える。

「あっ」

 目眩で霞んだ視界に映ったのは、今まで一度も忘れたことのない顔。当時「地毛」と言い張っていた栗色の長い髪も、敵意と嘲りが混ざり合った意地悪い光を宿した瞳も、人を見下すような冷笑を浮かべている頬も……全てが、見慣れたものだった。

 そして、綺麗な桃色をしている薄い唇が醜い三日月形に歪んだと思うと、その口元から氷のごとく冷え切った声が飛び出てきた。


「――盗作犯」


 その声が耳に入った瞬間、時が止まった。

 それまで当たり前のように映っていた世界が、一瞬でぐにゃりと歪んだような錯覚に襲われた。身体を動かそうにも、声を出そうにも、まるで金縛りにあったかのごとく全身がピシッと固まり、瞬きさせること以外は何も出来ない。「盗作犯」という言葉のみが頭の中に響いてくる。

「あ……」

 佐伯さんは忘れていなかった。あの時見た笑みは、中学時代に嫌という程見てきたものにそっくり……いや、何も変わっていなかった。

 この後、佐伯さん達がどのようにして去っていたのかはよく覚えていない。ただ、その次に耳に残ったのは、クスクスと笑う数人の声。余韻を残しながらどんどん遠ざかっていき、やがて、けたたましい騒めきの中に溶けて消えていった。それなのに、まだ私の頭の中では佐伯さんの笑い声が響いている。除夜の鐘のごとく、何度も何度も。

「ト、トウサクハン?」

 それからすぐに、言葉を覚えたての子どものごとく「盗作犯」と復唱する声が、気の遠くなりそうな騒めきに紛れて耳に入ってくる。まさかと思って、固くなった顔を無理矢理横に向けると、何が起こっているのか分からないと言うように、団栗のような綺麗な瞳をただパチクリさせている部長がいた。

 そして、私のほうに向きなおると同時に、信じられないような質問をしてきた。


「なあ、さっきの新入生って杏姫の知り合いか?」


 杏姫の知り合いか、知り合いか、知り合いか――その言葉が呪詛のごとく、頭の中に繰り返し響いてくる。

 どうしてだろう。悪意のない言葉なのに、こんなに胸が苦しいのは。

 部長が、あの人達のことを私と無関係の通りすがりの人だと思って無視してくれたら、どれだけ楽だったのだろう。何も気にせずに、中断したビラ配りを再開してくれたら、この話は終わりに出来るはずだった。

 しかし、部長は知り合いかと聞いた。それは即ち、「盗作犯」の意味を悟ったということだろうか。それとも、「盗作犯」の言葉の意味を知ろうとしているのだろうか。どちらにしても、絶望的な状況と変わらない。

 答えが出る前に、自分の中にある何かが粉々に砕け散った。

「うっ」

 その時、生温かいものが口の中にせり上がってきた。我に返って、しまったと思って慌てて両手を口元に持っていくものの、その両手は事態の収束に役立つどころか、あまりにも小さ過ぎて器の役目すら果たせていなかった。

 胃袋から乱暴に込み上げられたものが指の隙間を通り抜け、浴衣を、地面を、汚していく。

「きゃああああああっ」

 甲高い悲鳴の数々が、小道に響く。その声を聞いたところで、もう何も感じるものはない。

逃げ惑う人々の姿が、歪んだ世界の中で映る。自分の間近で起こっている出来事なのに、遠くから見ているような感覚だ。それは、テレビでドラマや映画の地上波放送を見ている時とすごく似ている。

「杏姫!?」

 部長の声も、悲鳴に紛れて聞こえてくる。しかし、私は振り向きもしなかった。

 自分の吐いたものが地面だけでなく浴衣と帯にまで掛かり、見るに耐えない位の悲惨な姿になっていると思う。おまけに、部長が折角刷ってくれたビラの余りまでも、使い物にならない位に汚してしまった。

(もう……消えたい)

 その思いは、すぐに湧き上がってきた。荒い呼吸を繰り返していくうちに、熱い涙が川のように頬を流れていく。その涙は、身体が苦しいからでも、吐いてしまったことへの恥ずかしさからでもない。ただ、悔しくて仕方がなかった。

『――盗作犯』

 それは、私にとってのパンドラの箱だった。誰にも開けられないようガムテープでグルグル巻きにして、誰にも見られないよう地面の奥底に埋めていたつもりだった。

 佐伯さんによってそのパンドラの箱を掘り起こされ、部長の前で開けられてしまったことへの怒りと悲しさ、やるせなさが涙となり、どんどん溢れ出る。それを拭いたくても、今は拭えるものがない。

 古今高校に入学して、誘われるままに落研に入って、今まで感じたことのない新鮮な気持ちを味わいつつリセットできると思っていた。誰にも悪意を向けられることのない、何もかも真新しい環境の中で、ずっと憧れていた平和な学生生活をやっと送れると夢見ていた。だけど、それは所詮幻想でしかなかった。もう心休まるところなんて、何処にも無いのかもしれない。

 終わりだ。何もかも、終わった。

 部長に、このことを何て説明すればいいのか分からない。話したところで、信じてもらえるのかも分からない。

 一寸先は闇。――まさに、その言葉通りだ。

「んぐっ」

 すぐに、口の中に残る酸っぱい匂いと舌に残った気持ち悪い感触が第二の波を呼び寄せ、本日二度目の大惨事が引き起こされる。もう立っていられずに座ろうとするが、グラッと視界が揺れて足がふらつき、そのまま前のほうへ倒れ込む――。

「――杏姫!」

 その時、誰かに身体を掴まれ、後ろへ引き寄せられる。そのお陰で、吐いたものが広がる地面の上に倒れ込む事態は免れられた。しかし、あまりにも意識がぼんやりし過ぎて、掴んだ相手が一瞬誰だか分からなかった。

「おい! 誰か保健室の先生を呼んできてくれ! 誰か!」

 それから間もなくして、今まで聞いたことのないような荒々しい声が耳に響いてくる。

「ぶ、ぶちょ……?」

「杏姫! 無理するな! 今、助けるからな!」

 涙で霞んだ視界に映るのは、凛とした瞳が二つ。瞳の中には、二か月前の合格発表の日に見かけたような、強い意志のこもった眩い光。どうしてだろう、懐かしい気持ちになる。

 ぼんやりとする意識の中だが、部長の声を聞いているうちに、鈍感ながら漸く今の状況を理解した。

「どうし……て……?」

 同学年の子に「盗作犯」呼ばわりされたばかりなのに。目も当てられない位に、悲惨な状態になっているのに。余ったビラも台無しにしたのに。そもそも、帯のところなんて掴んだら部長の手までも汚れてしまうのに。それなのに――。

「杏姫がこんな状態になってるのに、助けないわけないだろ!」

 疑問を口にする私に対し、怒鳴るように言う部長。

 今、私は部長に身体を支えられながら、綺麗な地面に座り込んでいる。そして部長は、周囲を歩きまわる人に向かって大声を張り上げていた。

「頼む! 何でもいいから袋やタオルを貸してやってくれないか!?」

「助ける気のねえ見ているだけの野次馬は、帰ってくれ!」

「杏姫、頑張れ! こういう時はとにかく落ち着くんだ! 焦ると余計気持ち悪くなるからな!」

 部長の声掛けによって、目の前の光景がどんどん変わっていく。先程までは逃げ惑う人のほうが多かったのに、今や親切な生徒がビニール袋やウェットティッシュを差し出してくれたり、先生を呼ぶために校舎のほうへ駆け出してくれている。とても有難い。

「大丈夫?」

「今、友達が先生呼びに行ったからね!」

 ティッシュを差し出してくれた女子生徒二人が、私のほうを見て、優しく声を掛けてくれる。よく見れば、その二人は自分と同じクラスの子だった。きっと、私のことを知っているのだろう。

 部長の力強い手の温もりを背中やお腹に感じながら、温かい涙を一筋流す。

 それは、決して悔し涙ではない。

「――んずちゃん」

 騒めきの中、何処からか、自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。


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