四
次に少年と会ったのは……何ということか、古今高校の合格発表日。
二月とは思えない位の、心地いい暖かさ。海のごとく真っ青に染まった空。もう春が来たのかと思う位に気持ちいい快晴の空の下、古今高校の体育館前に置かれた一つの掲示板に、蟻のごとく群がるのは、それぞれの制服を身に着けた中学生の男女とその保護者。嵐のように歓声と悲鳴が飛び交う場に、私はいる。
「……あった」
息が詰まりそうな人混みに揉まれながらも、漸く掲示板の近くに辿り着き、手元にある受験番号と掲示板を照らし合わせた。そして、自分の受験番号が、掲示板に貼られている紙にズラーッと並んでいる他の番号同様に、黒い文字で記載されているのを見つけたのだ。
古今高校に合格した。
それが紛れもない事実だということを、目の前の掲示板が示していた。
(やったぁ!)
本当はその場から飛び上がりたい位に嬉しいが、知らない人が大勢いる中で、そんな目立つ真似は出来ない。それに、今日は一人で此処に来たのだ。見知った誰かが傍にいれば話は別だけれども、一人ではしゃぎ回るのは周りから見たら痛々しいものだろう。
受験なんて生まれて初めてで、この一年間ずっとどうなるか心配だった。それは、「合格」という、これ以上に無い最高の形で幕を閉じたのだ。
(そうそう、お母さんに早く連絡しなくちゃ)
蒸し風呂のような人だかりの中で、いつまでも一人で余韻に浸っている場合じゃない。ひとまず、掲示板に群がる人々の合間を縫って人気の少ない場所へ移動し、鞄のポケットの中に仕舞ってある携帯を取り出そうとする。
「……んず」
鞄の中に突っ込みかけた手が、思わず止まった。遠くで、誰か自分の名前を呼んでいるような気がしたのだ。しかし、辺りをよく見渡しても、知っている顔は何処にも見当たらない。
そもそも、私のことを下の名前で呼ぶ人といったら、今のところ、家族と従妹しかいないはずだ。中学校の同級生や、小学校時代一緒だった仲間には、「逢坂さん」としか呼ばれていないので、当てはまらない。むしろ、当てはまったら、逆に恐怖を覚える。
(空耳かなぁ……)
恐らく、聞き間違えか、自分と同じ名前の違う子が呼ばれたのだろう。「杏」という名前は春の花の名前らしいだから、日本中探してみてかなりいると思う。
(それより、早くお母さんに連絡しなくちゃ)
自分の役目を忘れていたことに気づき、開きっぱなしにしていた鞄の中に、少々乱暴に手を突っ込んだ。この興奮が冷める前に、さっさと電話をしてしまいたい。
発表の瞬間から少し時間が経ってしまったから、母は今頃かなり心配しているだろう。今回の高校受験では、母には色々な面で心配掛けてしまったから、早く合格の報告をして安心させてあげなければ。
「――杏っ!」
「ひゃあっ!」
今度は耳の近くでしっかり呼ばれたことに驚き、手に持っていた鞄を地面に落としてしまった。その時に、携帯を取り出すため鞄のチャックを全開にしていたのが仇となり、バラバラッと、中に入っていたファイルやら筆箱やらが辺り一面に散らばっていく。
グシャッ。
ファイルからはみ出た書類を、すぐ目の前を通りかかった親子二人が無残にも踏み潰していった。自分の地元では見かけないセーラー服を着た少女は、合格したのか、スキップするように校門へ歩いていく。母親のほうは自分の娘が合格したことを喜んでいるのか、プリントに全く気付く素振りも見せない。本当に一瞬の出来事だった。
すぐに、落ちた書類の元へ駆け寄り、サッと拾い上げた。
それは、中学校に提出する予定の受験報告書だった。配られたばかりで真っ白だったそれは、二人分の靴跡がクッキリと残ってしまっただけでなく、踏まれたことで無駄な折れ目までもついてしまい、無残な形になってしまった。しかも、この受験報告書は、来年度受験する後輩が閲覧する用の報告書だから、こんなみっともない形で残ってしまうのはあまりにも辛い。
「……あれ」
不意に瞼がカァッと熱くなり、瞬く間に視界がうるうるとぼやけだす。自分の受験番号を見つけた時には、そんな現象は起こらなかったのに。
「ったく、無神経な奴らだなぁ。高校に入る前に一般常識を身につけてこいよ、あの馬鹿親子が」
自分の頭上に、声が降ってくる。それは、先程耳元で名前を呼んだ主のものであり、さらに言えば何処かで聞き覚えのあるものでもあった。
「あっ、わ、悪かった。そもそも、こうなったの俺がさっき声掛けたせいだよな。ごめん! 本当に悪かった」
顔を上げると、水中にいるかのごとくぼやけた視界の中に、オロオロしたような慌てた表情をした少年が映し出された。涙に気づいているようで、恥ずかしくなる。
目の前にいる少年は、いつだったか、私の家に来たことがある。
『頼む! 古今高校の落研に入ってくれぇっ!』
その時に言われた一言が、あの時に見た少年の必死そうな表情と共に、頭の中で再現された。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
「これ、ちょっと貸してくれねえか? 大丈夫、俺が絶対どうにかするから!」
少年は、そう言うなり、私が返事する前に、クシャクシャになった受験報告書をパッと取り上げる。
「これ、杏のだろ?」
その場にしゃがみながら戸惑っていると、少年も同様にしゃがみ込み、今度は地面に落としたノートと筆箱を拾って、差し出してくれた。その時に漸く少年の顔をまともに見たのだが、真っ先に目に入ってきたのは、あの日以来ずっと頭の中に残っている、凛とした強い瞳。
「あ……ありがとうござい――」
「ははっ、このクマ不思議な顔してんぞ! 杏って、おもしれえもん好きなんだなぁ!」
お礼を言い終わる前に、少年は突然何かを見てゲラゲラと笑い出した。一瞬自分の顔に変なものでもくっついているのかと怯えたが、どうやら少年は、私の筆箱のチャック部分にくっついているクマのキーホルダーを見て笑っているようだ。
「こ……これ……?」
「ああ! クマの癖に、すっげえ高村先生みてえな顔してるとか、はっはっは、マジ爆笑もんだろ! 良いぞ!」
クマのキーホルダーに釘付けとなった少年は、相変わらず大口を開けながら豪快に笑い続けている。周囲の不思議そうな視線など、全く気にせずに。
確かに、このクマは、ちょっと笑えるような変顔をしていることで人気を集めているのだが、少年にとってはそこまで笑えるものだろうか。彼の言う高村先生に本当にソックリ過ぎるのか、はたまた、少年の笑いのツボはかなり浅いほうなのか、今の時点では全く分からない。
そもそも、少年の言う高村先生とは誰なのか、分からない。古今高校には説明会や入試で今まで何度も足を運んできたが、校長先生以外の顔は全く覚えていない。
「あ、あの――」
「それで杏、受験はどうだったか!? 合格したのか!?」
少年は、漸く笑いを止めたかと思うと、今度は瞳を爛々と輝かせながら、核心を突いてきた。不合格だった時の場合を考えながら恐る恐る聞くのではなく、探求心旺盛の子どものごとくスパッと聞いてくる姿が、私にはとても眩しく見える。悪く言えば「遠慮が無い」となるが、どちらかと言えば「素直で真っ直ぐな心を持っている」。同年代でここまで素直な人、生まれて初めて見た気がする。
「……は、はい」
部長の凛とした瞳に気圧されながらも、どうにか声に出して頷いた。
「ぃやったぁぁぁあっ!」
次の瞬間、雄叫びのような少年の声が、他の受験生とその保護者が集う掲示板周辺を木霊した。
予想通りの反応だった。周囲の人々の視線を感じるのもあって、最初に込み上がってきたのは、恥ずかしさ。しかし、まるで自分が合格したかのように、小躍りして喜んでいる少年を見ていると、照れ臭さと嬉しさが混ざり合ったような温かいものが少しずつ胸の中に広がってくるのを感じる。
「良かったな! 古今高は、一部の先生と事務の奴ら以外はマジ良いとこだから、杏もすぐ気に入るぞ!」
少年が、綺麗に磨いているだろう健康そうな白い歯を見せながら、ニヤリと笑う。
今まで一回しか会ったことのない少年だけれども、彼は私のことを、まるで昔からの付き合いみたいに話しかけてくれる。同年代で、こんな親しく話しかけてくれる人に会うなんて、とても久しぶりのことだ。その少年と一緒にいると、「盗作犯」と冷たい目で見られていた日々が幻のように感じられる。
「あ、ありがとうございま……」
情けないことに、喋るのが苦手な私は、吃りまくりでお礼すらも上手く言えない。しかし、少年はそんなことを一切気にする素振りを見せず、尚も喋り続ける。
ここで、頭の中にある疑問が浮かんできた。
「えっ? 今、学校は授業中のはずだけど、俺が何でここにいるかって?」
「はっ!?」
次に発せられた少年の言葉には、心臓が原型のまま口から出そうになる位に驚かされた。何故なら、彼が言ったことはまさに私が考えていたことそのままだったから。まるで、自分の心の中が読まれているみたいに。
『ごめんね。合格発表の時、在校生は普通に授業なの』
合格発表の前日辺り、菜花にその時間帯は一緒にいてくれないかと提案した時に、言われた言葉だ。入試事務の時はお休みであるが、合格発表時は普通に授業があるという、何とも摩訶不思議な日程だと思う。
掲示板近くの時計台を見ると、もうすぐ十時である。どう考えても、授業が始まっている時間だ。瞬間移動や幽体離脱でもして、ここにわざわざ出張しに来たのか。だが、いくらなんでも、それは有り得ないだろう。
やがて、その答えは、すぐに少年の口から語られた。
「ははっ、一時間目の数学が面倒臭過ぎて、サボっちまった!」
「えっ」
「まっ、たまにはこういうのもいいんだよ! たまには!」
ハハハと笑い飛ばす少年には、悪びれる様子が殆ど見受けられない。また、余裕たっぷりで焦る様子など欠片も見当たらない彼を見る限り、恐らく授業サボり常習犯だろう。
(ちょっと待って)
一つ疑問が解消されてから、今度は別の疑問が思い浮かんできた。それなら、少年は何故、わざわざ授業をサボって、先生に見つかりやすい合格発表の会場にいるのだろう。漫画や本で読んだことがあるが、授業をサボる場所としては、屋上やトイレ、空き教室といった先生の監視の目が届かない場所が定番のはず。
「何で俺がここにいるかって?」
「えっ、どうし――」
「ははっ、杏は分かりやすいんだよなぁ。顔見ただけで、君の言いたい事がすぐ分かるぞ!」
「…………」
やっぱり、少年は私の表情の変化をよく観察していたようだ。ここまで来ると、もはや、言葉ではなく、顔で会話している感覚である。
「まあ、そんな落ち込むなって! 表情で言いたい事を伝えるのは、良い事だ! 杏っぽい!」
「はぁ……」
「それでだ! 今日俺がここに来たのは、杏に是非とも頼みたい事があったからなんだ!」
この時点で、何言われるのかは大体予想がついた。殆ど接点が無い私が頼まれる事といったら、あれ以外に何があるというのだろう。
「頼む! 落研を救ってくれ!」
少年は、紙を折るかのごとく身体を二つに折り曲げ、懇願してきた。
「大丈夫だ! 落語のことを知らなくても、俺らが教える! それに、この部活は落語の研究が中心だから、表舞台に無理矢理引っ張り出すということもしない! 週一しか集まりねえし、後は大体自由に帰れるぞ! 集まりっつっても、お菓子パーティーみたいなもんで、退屈だったら好きに絵を描いててもいいから! 話すのが苦手だったら、無理に喋らなくても良いから! 頼む、杏! 落研に輝かしい未来を見せてくれ!」
私のほうをジッと見ながら、選挙の候補者の演説のような勧誘文句を語り、最終的にはまた頭を下げてくる少年。オリンピックで金メダルを掴もうとする選手のごとく、かなり必死そうな表情で。
透き通る水のごとく澄み渡っていて、穢れも何もない純粋な二つの瞳が、真っ先に目に入る。そこから感じるのは、絶対に曲がることのない、真っ直ぐで強い意志。それは、太陽の光のごとく一直線に私の身体に突き刺さり、心を揺さぶってくる。
『もう一生、部活なんて入らない』
一年前の秋、雨が降りしきる中、泣きながらそう決心したことを思い出す。傷つくだけなら、金輪際部活に入らなければいいと、あの時心から思ったはずなのに。
「頼む、杏! 俺を信じてくれ!」
少年は一向に諦める様子無く、重ねて言ってきた。強い意志の籠った瞳で、尚も私を見続ける。このまま頷かなければ、永久に付きまとわれる気がする。
今まで見たことのない、綺麗な瞳。そこに並々ならぬ思いが籠っていると、まるで雲の無い夜空に色とりどりの星が散らばるかのごとく、ますます綺麗に磨かれていく。今の少年の瞳を喩えるならば、夜空に広がる綺麗な天の川のようだ。
――この人を、信じてもいいかな。
そんな思いが脳裏を掠めた瞬間、心の中に立ち込めていた迷いは殆ど消え去り、一気に晴れ渡った。そして、私は、尚も真剣な瞳で見つめてくる少年に対し、蚊の鳴くような情けない声になってしまったものの、ちゃんと答えを返した。
「……はい」
受験生とその保護者で賑わっていて、少年の声も聞き取りにくい状態なのに、少年は私の弱々しい言葉をしっかり受け取ってくれた。
その瞬間、少年の身体は光り輝きだした……とはいっても、少年は普通の人間であり、本当に光り出すといった有り得ない現象は起きていない。ただ、少年の、これ以上のものは無いというかのような幸せそうな表情を見る限り、そのように見えても不思議ではない。
「うぉあああああああっ! やったぁぁぁぁあっ!」
程無くして、雄叫びのような少年の声が、合格発表の会場だけでなく、澄み渡った青い空を劈いた。周囲の人々を振り返らせるような声を聞きながら、初めて事の重大さを理解したのだった。
古今高校を合格した記念すべき日、私は、少年に誘われるまま落語研究部に入部してしまった。